残心余情(ざんしんよじょう)
「余情残心」と言うのが正しいのかも知れないが、私は「残心余情」と読みかえている。声に出してみても、その意味が更に深まるような響きがする。
前回、少し触れたがそれは「一期一会」と深く関わる。
「一期一会」は茶道の世界でよく使われる言葉であるが、井伊宗観(大老・彦根藩主・井伊直弼の茶名)の「茶湯一会集」によって広まったとされる。
JR彦根駅前にある井伊直弼公の像(2015春:近江路の旅にて)
それは、
「そもそも茶の交会は一期一会といいて、たとえば幾たび同じ主客と交会するも、今日の会に再び帰らざることを思えば、実にわれ一世一度の会なり」とある。
一期とは人間の一生である。その一生において、今日のこの出会いはただ一度という思いで大切にするという意味である。
他者(ひと)との出会いの不思議をしみじみと感じさせてやまない。
茶湯一会集は更に「主客とも余情残心を催し、退出の挨拶を終われば、客も露地を出るに、高声に咄さず、静かにあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見えざるまでも見送るなり。」
客が帰った途端に大きな声で話し始めたり、早々と戸を閉めたり、すぐに内に入ったりなどバタバタと忙しない振る舞いをしてはいけない、という意味である。亭主は客が見えなくなるまで見送りなさいと言っている。
「扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。」
その後、茶室に戻り、ひとり静かに茶を服する。そして今日の一期一会の出会いをしみじみと振り返るのである。それが余情残心、つまりyoーサンのいう「残心余情」である。
「余情残心」と言うのが正しいのかも知れないが、私は「残心余情」と読みかえている。声に出してみても、その意味が更に深まるような響きがする。
前回、少し触れたがそれは「一期一会」と深く関わる。
「一期一会」は茶道の世界でよく使われる言葉であるが、井伊宗観(大老・彦根藩主・井伊直弼の茶名)の「茶湯一会集」によって広まったとされる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/f4/c96d8df1af2f1bce17f4bc1b8a10245f.jpg)
それは、
「そもそも茶の交会は一期一会といいて、たとえば幾たび同じ主客と交会するも、今日の会に再び帰らざることを思えば、実にわれ一世一度の会なり」とある。
一期とは人間の一生である。その一生において、今日のこの出会いはただ一度という思いで大切にするという意味である。
他者(ひと)との出会いの不思議をしみじみと感じさせてやまない。
茶湯一会集は更に「主客とも余情残心を催し、退出の挨拶を終われば、客も露地を出るに、高声に咄さず、静かにあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見えざるまでも見送るなり。」
客が帰った途端に大きな声で話し始めたり、早々と戸を閉めたり、すぐに内に入ったりなどバタバタと忙しない振る舞いをしてはいけない、という意味である。亭主は客が見えなくなるまで見送りなさいと言っている。
「扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。」
その後、茶室に戻り、ひとり静かに茶を服する。そして今日の一期一会の出会いをしみじみと振り返るのである。それが余情残心、つまりyoーサンのいう「残心余情」である。
致知に乱れる言の葉を集めて聖し「残心余情」を
噛み締めました。
「残心」に潜む諸々の余情を整理して身を清め
一期一会の神聖な時の洗礼を受けたいと思いました。
年末に当たり重みのある茶の世界の潜心の教えを
頂き新しい年に備えたいと思います。