「・・・でも、何と平和な日々ですこと」
冒頭の言葉は、ある方の、ある日のブログ記事の一節である。
私は、この言葉に万感の重みを感じる。もう過去記事になってしまったが、何度かお訪ねしては読み返している。
この記事に限らず、いずれの記事も、やさしく語りかけるような文体、自己主張ではなく、謙虚な自己表現でGraceful & Modestのお一人である。(大勢さんが訪問される事にも、控えめな彼女にはご迷惑と存じ、ブログ名などは敢えて記さない。)
彼女は広島のお生まれで、父上は過る戦いで戦死されている。御遺骨が還られたのは、まだ戦時下、空襲のつづく中であった。身近な方々のみで還骨のご法事をされた翌日、原爆の投下であったという。
>「でも、何と平和な日々ですこと」 。私も本当にそう思う。
この言葉は、戦争の悲惨さ、遣る瀬無き哀しみを身を持って体験した者だからこそ言えるのである。
彼女のブログは声高に反戦平和を訴えるものではない。その記事は淡々と記されているが、この「平和」は如何に大きな犠牲の上にあるのか、ということが心に伝わって来る。彼女は私と同世代だと拝察するが、例え、僅かであっても、あの戦争を知る世代として、心より平和を願わずにはいられない。お互い、これも大事な終活なのである。
日々あれこれと、しておきたいことが多くあり、ブログの更新はおろか、皆様のそれをも見れない日も多い私。デスクワークの合間のお茶タイムに、新着ブログなど拝見すると、正に「何と平和な日々ですこと」としみじみと思う。
勿論、それはとてもよいことには違いない。だからこそ、今、私たちがせねばならないことがある。再び若者を、子どもたちを、戦場に送ることがないように。私たちの世代の大事な終活の一つである。
徒に不安を煽り戦争が出来る国にしようとする人々。昨年は小学生にまで「ミサイルが発射されるから」と避難訓練までさせたかと思うと、今年は連続してミサイルの発射があってもゴルフに興じているこの国のトップ。アメリカの顔色次第である。その他言い尽くせないほど沢山のことども。私の知る限り、これほどまでに国民を愚弄した政府は知らない。
今度の旅先で読み返した啄木の論考「時代閉塞の現状」である。
「束の間の旅人Ⅱ」(長崎・・・)でも触れたが、啄木の生きた時代は、明治末期から大正に至る時であるが、それはある意味現代と酷似している。
啄木がこれを書いたのは、大逆事件(明治天皇の暗殺企図のかどで、幸徳秋水らが無実の罪で秘密裡に処刑された)の直後であった。時代背景は違うが、政府と司法による社会主義者への弾圧であったことは今日において明らかである。永井荷風は「花火」の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」と書いている。
閑話休題
もう800年も昔。親鸞はどう生きたか。
歎異抄をお読みの方はご存じのことではあるが(末尾に付記されているので)、親鸞聖人35歳の時に起こった承元の法難(弾圧)は念仏者4人の死刑と、師・法然上人、親鸞聖人ら8人の流罪、時に法然上人は75歳であった。よって法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後へと向かわれ、師弟は再び相見えることはなかった。 日本仏教史上最大との弾圧と言われている。
親鸞聖人はその主著「教行信証」の後書きに、「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(法然上人)ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め姓名を賜て遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。」と記している。
親鸞聖人が教行信証を著したのは、一応50代の頃と言われているが、終生補筆訂正していた。若き日に受けたあの弾圧を、いつも、つい昨日の出来事のよう思われていたのだろう。この激しい文体から深い悲しみと憤りが伝わってくる。
権力者は自分たちに不都合な思想を弾圧する。親鸞聖人は権力に迎合したことは決して無かった。当時、天皇に対してこれほどまでに言われたことは特筆に値する。
上に引用した「主上臣下、法に背き義に違し・・・」等は、 東西両本願寺は忖度したのか、或いは命令だったのか、敗戦まで「伏せ字」として読むことを禁じた。そしてまた、多くの僧侶や同行を「国家のため」にと戦地に送った。いわゆる、教団として戦争協力をしたのである。勿論、戦後に至って謝罪や懺悔、反省はあったにしろ、宗祖と仰ぐ親鸞聖人の教えや生き方との乖離は甚だしい。
歴史は繰り返すと言う。憲法を改悪し再び戦争の出来る国にしようという動きがある。傍観者でいるうちに取り返しがつかなくなってしまう。弱き私たちが出来ることは、必ず選挙という権利を遂行すること。それによって政治を変えることが出来る。
啄木と親鸞との同行(どうぎょう)3人の旅はまだ途中である。広島、長崎の原爆忌、そして件のブログの拝見。今度の終活の旅はまだ続く。明日はいずこの町か・・・♪は小林旭だったが、yo-サンは何処(いずこ)へ。
もう日付が変わってしまった。今宵はこれにて。
冒頭の言葉は、ある方の、ある日のブログ記事の一節である。
私は、この言葉に万感の重みを感じる。もう過去記事になってしまったが、何度かお訪ねしては読み返している。
この記事に限らず、いずれの記事も、やさしく語りかけるような文体、自己主張ではなく、謙虚な自己表現でGraceful & Modestのお一人である。(大勢さんが訪問される事にも、控えめな彼女にはご迷惑と存じ、ブログ名などは敢えて記さない。)
彼女は広島のお生まれで、父上は過る戦いで戦死されている。御遺骨が還られたのは、まだ戦時下、空襲のつづく中であった。身近な方々のみで還骨のご法事をされた翌日、原爆の投下であったという。
>「でも、何と平和な日々ですこと」 。私も本当にそう思う。
この言葉は、戦争の悲惨さ、遣る瀬無き哀しみを身を持って体験した者だからこそ言えるのである。
彼女のブログは声高に反戦平和を訴えるものではない。その記事は淡々と記されているが、この「平和」は如何に大きな犠牲の上にあるのか、ということが心に伝わって来る。彼女は私と同世代だと拝察するが、例え、僅かであっても、あの戦争を知る世代として、心より平和を願わずにはいられない。お互い、これも大事な終活なのである。
日々あれこれと、しておきたいことが多くあり、ブログの更新はおろか、皆様のそれをも見れない日も多い私。デスクワークの合間のお茶タイムに、新着ブログなど拝見すると、正に「何と平和な日々ですこと」としみじみと思う。
勿論、それはとてもよいことには違いない。だからこそ、今、私たちがせねばならないことがある。再び若者を、子どもたちを、戦場に送ることがないように。私たちの世代の大事な終活の一つである。
徒に不安を煽り戦争が出来る国にしようとする人々。昨年は小学生にまで「ミサイルが発射されるから」と避難訓練までさせたかと思うと、今年は連続してミサイルの発射があってもゴルフに興じているこの国のトップ。アメリカの顔色次第である。その他言い尽くせないほど沢山のことども。私の知る限り、これほどまでに国民を愚弄した政府は知らない。
今度の旅先で読み返した啄木の論考「時代閉塞の現状」である。
「束の間の旅人Ⅱ」(長崎・・・)でも触れたが、啄木の生きた時代は、明治末期から大正に至る時であるが、それはある意味現代と酷似している。
啄木がこれを書いたのは、大逆事件(明治天皇の暗殺企図のかどで、幸徳秋水らが無実の罪で秘密裡に処刑された)の直後であった。時代背景は違うが、政府と司法による社会主義者への弾圧であったことは今日において明らかである。永井荷風は「花火」の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」と書いている。
閑話休題
もう800年も昔。親鸞はどう生きたか。
歎異抄をお読みの方はご存じのことではあるが(末尾に付記されているので)、親鸞聖人35歳の時に起こった承元の法難(弾圧)は念仏者4人の死刑と、師・法然上人、親鸞聖人ら8人の流罪、時に法然上人は75歳であった。よって法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後へと向かわれ、師弟は再び相見えることはなかった。 日本仏教史上最大との弾圧と言われている。
親鸞聖人はその主著「教行信証」の後書きに、「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(法然上人)ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め姓名を賜て遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。」と記している。
親鸞聖人が教行信証を著したのは、一応50代の頃と言われているが、終生補筆訂正していた。若き日に受けたあの弾圧を、いつも、つい昨日の出来事のよう思われていたのだろう。この激しい文体から深い悲しみと憤りが伝わってくる。
権力者は自分たちに不都合な思想を弾圧する。親鸞聖人は権力に迎合したことは決して無かった。当時、天皇に対してこれほどまでに言われたことは特筆に値する。
上に引用した「主上臣下、法に背き義に違し・・・」等は、 東西両本願寺は忖度したのか、或いは命令だったのか、敗戦まで「伏せ字」として読むことを禁じた。そしてまた、多くの僧侶や同行を「国家のため」にと戦地に送った。いわゆる、教団として戦争協力をしたのである。勿論、戦後に至って謝罪や懺悔、反省はあったにしろ、宗祖と仰ぐ親鸞聖人の教えや生き方との乖離は甚だしい。
歴史は繰り返すと言う。憲法を改悪し再び戦争の出来る国にしようという動きがある。傍観者でいるうちに取り返しがつかなくなってしまう。弱き私たちが出来ることは、必ず選挙という権利を遂行すること。それによって政治を変えることが出来る。
啄木と親鸞との同行(どうぎょう)3人の旅はまだ途中である。広島、長崎の原爆忌、そして件のブログの拝見。今度の終活の旅はまだ続く。明日はいずこの町か・・・♪は小林旭だったが、yo-サンは何処(いずこ)へ。
もう日付が変わってしまった。今宵はこれにて。
お身体は如何でしょうか。先日、以前のカウンセリング研究会
の方にお会いしましたら「米沢先生、体調くずされたよう」と、
お聞きして案じておりました。久しぶりにブログを拝見しました。
いつもながら、含蓄のある内容に、先生のご講義をお聞きした
ようで、また、勉強会に参加させて頂きたくなりました。
終戦記念日を前にして、先生のブログを読ませて頂き、今更
ながら平和の大切さをかみしめております。
それでは、先生、くれぐれもお身体おいとい下さいませ。
失礼いたしました。
極暑の日々がつづいています
大型台風も近着いているようです
旅のお疲れは大丈夫でしょうか ご案じ申し上げます
ひとときなりともおこころにとどめて頂きましたこと感謝でございます
次元の高い平和への思想 正しい姿勢で世のあり方 国を論じられることこそ尊敬致す者でございます
親鸞 啄木同行三人は心に響いております
佳き旅路を祈り上げます
最近と申しますか、近年、体力・気力が低下傾向で、寄る年波には勝てない事を
つくづく味わっております。元々さほど強靭ではありませんが、母を送ってから、
特に体調整わない気が致しております。今度の旅も、少しでも自分の足で歩ける
うちにと思ってのことでした。
カウンセリング講座は30年間してきましたが、啄木講座は5、6年でしょうか。
今よりはずっと、パワーもあり輝いていた頃でしたので、私自身が楽しませて頂いて
おりました。「もう一度、啄木を」というお声を頂いてはいるのですが、スタッフの方々
も同様にお年を召されたり、身辺の用事などがお有だったりして・・・。
また、是非機会を得まして、何とか実現したいと思っております。
お心遣いを心より厚くお礼申し上げます。どうも有難うございました。
勝手に引用させて頂きまして、申し訳ございません。とても心に残りましたので、
どうぞご寛容にお願い申し上げます。「啄木」のことも、お互い期せずして同日に
upとなり、不思議な縁(えにし)を、しみじみと味わさせて頂きました。
これからも、世の多くの人々に何をメッセージすべきか、考えながらの残命の日々を
送りたいと存じております。それでは、今後ともどうぞよろしくご交信(心)を賜りますよ
う切に念っております。どうも有難うございました。