「生涯引きこもり」と宣言された私の、超豪華オプション生活

 登校拒否となり、生涯ひきこもりであろうと決めつけられて四半世紀。社会人として生きる記録。#発達障害 #自閉症 #ニート

生きていかなきゃ、いかんのかな

2020-08-14 12:38:42 | 日記

生きてかなきゃ、いかんのかな

 

社会ではALS女性が医師二人にSNSで自殺を依頼し、その医師二人が金をもらってたった10分でその依頼情勢を殺害した。完全犯罪を試みたようだが成立せず、医師たちは逮捕された。

その殺人行為に対し、維新の松井大阪市長や馬場議員などが医師二人への支持を表明し逮捕した警察を批判。船後議員が医師二人を批判したことに対しても「本来安楽死議論を率先して行うべき立場の人が」などと船後議員に暗に死ねと公然と言い張る。という事態を見てきた。

また、れいわ新選組における、大西つねき氏の騒動も、垣間見てきた。高齢者は若者のお荷物だから、とっとと死ね。というのだ。

これはとりあえず難病がたたき台になってはいるが、実は認知症やうつ病を含む精神疾患にもかかることだと、SMS上では話がなされてきた。精神疾患にあえぐ人たちが安楽死を主張し船後議員や木村議員に対して、お前ら障害者に生きる価値無し。安楽死せよ。と公然と自筆で書き込む光景が展開された。

医師二人のうちの一人の妻が元国会議員でソーシャルワーカーを名乗り、逮捕された夫がアスペルガーだの、夫を一切助けないとか、枯れたく無いから浮気するとか、全力で助けるとか、恥ずかしげなく社会福祉士精神保健福祉士の名誉を失墜させる文章をブログにして目立っている光景も見ている。

 

そして私は、といえば、

発達障害、というのはただの「少数派」なのだから、それだけではハンデとは決定的にはならないが、不適切な子育てしかできない家庭に生まれ、愛着障害によって発達凸凹では済まされずおそらく後天的に発達障害となった。

やがて40過ぎにパワハラでうつ病〈適応障害ともいわれる。うつ病と適応障害の弁別は困難と聞いてする〉となり、今まで障害を基本的に開示しないで生きてきた。障害配慮など得られないとわかっているからだ。

老化現象もあってか身体が弱くなり、それに対して栄養療法やヨガ、腹式呼吸など、試せるものはすべて試してみたことは、このブログを見ればわかることだ。しかしそれらは体質改善には貢献しても、人間関係の軋轢や社会変動の激しさには到底間に合わない。ということも述べてきた。

そして今、信頼する主治医から「障害非開示での就職は、お勧めしない」と明言された。

ただの精神科医ではなく、私の状況をよく知る、信頼関係のある人から出た言葉であり、これまでの苦戦もあり、基本的にはそれを受け入れる方向で、今後は生きていかなければならないと思っている。

障害を受け行けて生きてきたつもりだが、さらに職場に障害開示して生きるというのは、要するに経済的に自立できず、国からの経済的保護がないと立ち行かないことを受け入れなければならない。ということである。時には今までの努力を否定され子ども扱いされるような支援を受け入れなければならない。ということでもある。

 

今、お盆を迎える。故郷のことを思い出すと、エリートとして厳しく育てられた自分は、なんとみじめな状況だ。面目が経たない。腹切って死にたい。という強い思いに駆られる。

そう、冒頭で取り上げた、安楽死を願う難病や精神疾患の人たちと心情は同じだ。心身の障害により自分のイメージしていた自分でなくなったことで、死にたくなる心情は、私の心情である。

 

しかしその心情に、理性をもって律しないといけないと私は考えている。

私の場合、宗教的理由というのが最初に出てくる。私は神様が命じる私の人生を生きるべきだと信じている。それは何なのだろうか。わからないが、理性的に考えると自殺する状況ではない。

それから、私には核家族がある。その核家族のためには、私は死ぬべきではないと〈らしい〉。〈らしい〉と書くのは、私は私の心底の心情である希死念慮・自殺願望の思いを何とか制し、核家族からの「生きていてほしい」という声に応じて、心からの死にたいという思いを制して生きているからだ。

 

安楽死議論が進むと、おそらくは百年前のドイツの道に近い形になるものと、予想している。そのナチスの道は最初の対象は小さくても、10年後にはこの世に住むおびただしい人が殺害の対象となる、理性的には恐ろしい価値観だ。

しかし感覚的にはナチスは究極のヒューマニズムであるから、右翼が好むヒューマニズムが推し進められれば、維新の有力政治家たちやアメリカ美容整形学会を除名された著名な美容整形外科医が理想とするような、ナチスが支配したヨーロッパのように「非生産的」とか「反ナチス」とかレッテルを張られた存在が機械的に殺害される世の中が、現在のこの国に近未来の現実としてもたらされるのだと、想像できる。

 

自分が弱ってきて、実に政治的なことで、自分の生死も分かれてくるのだなと感じる。

なにせ、発達障害なる診断は、誠に政治的社会的なものであると、元々思いつつ、「世の中が障害というのなら障害なのだろう」と認めてきた。

人間は社会的生き物だから、仕方がないのだろう。しょうがない。