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船岡白鳥神社どんと祭2015

2015-01-14 22:44:35 | 之波太:柴田
正月飾りを焚きあげる行事・どんと祭が1月14日夜に行われます。

自宅近くにどんと祭の告知がありました
我が家も初詣に行った、白鳥神社に夕方、正月飾りを持って行き、焚いてきました。

今年は、風もなく正月飾りを火に投げ入れることができました

あまり量が多いと火の粉が上がって危険なので神木(?)近くに置いている正月飾りがあります

参拝客が並んでいます。18時半ごろのことです。その後参拝客がもっと多くなります。

問 どんと祭の起原はいつか。

要説 宮城の郷土誌 仙台市民図書館編 昭和55年によると、

答 1月14日の夕方から15 日の朝にかけて、大崎八幡神社の境内で、各戸で取りはずした門松
や注連縄〔しめなわ〕を大勢の市民が持ち寄って焚く行事を、どんと祭といっています。

この行事は昔、松焚祭〔まつたきまつり〕といっていたもので、どんと祭という呼び方は、明治の
半ば以後、ジャーナリズムが関西風にとってつけたのが一般的になったのだといいます。

このことを「仙台の年中行事」(仙台市産業部編。昭和15年刊)では『この松焚祭は〔藩政時代
よりも〕今日の方が遥かに盛大である。

次にドント祭と云う名称は明治以後上方風に付したジャーナリズムの過誤であるらしく、仙台では
昔からマツタキ祭と云って居る』。
そして「松焚祭」の名称は昭和になっても残っていたことが、「仙台」増訂版(小倉 博。昭和28年
刊)の次の記事に見られます。
『松焚祭門松を取去り、夜、大崎八幡神社境内で焚く。どんど祭ともいふ。鈴を振りながら裸参り
する人もある』。「どんと」という呼び名が、もともと東日本にはなかったものであることを、
「年中行事辞典」(西角井正慶編)は次のように裏付けています。
『とんど 主として小正月に行われる火祭の行事。爆竹の音や火勢を形容するどんど・どんどんなど
いうことばの連想により、「とうどやとうど」というはやしことばをなまって、とんど・どんど・
どんど焼きなどと行事の名称とするようになったものであろう……トンドまたドンドと呼んでいる
のは畿内〔きない〕から中国・四国地方が多く、中国地方では近畿に近い諸県でいう。山梨県の一部
でトンドというのは東の一応の境界らしく……』。
また「日本祭礼行事事典」(宮尾しげを編)を調べても、正月の火祭行事を「とんど」と称して
いるのは、主として西日本に限られています。
東日本では仙台にだけ「どんと」の語があるのは、飛び火的にと言うより寧ろ人為的に移入された
ものであることが確実です。
仙台のどんと祭は、大規模な大崎八幡の境内だけでなく、方々の地域的に手近な神社や寺の境内等
でも行われます。
また、東北の他の地方で行われているように、昔ながらに自家の屋敷内で焼くことも稀にはあります。
大崎八幡のどんと祭の起原を明確にする史料は皆無に近いのですが、それぞれ自家で焼いたのが火祭の
原形であり、いつの頃からか防火と社寺繁栄の一策として、共同化・集中化が進められて今日の盛大さ
に至ったもののようであります。
「郷土の伝承」(宮城県教育会編)の中の「封内年中行事」の項で、昔の松焚祭のことについて次の
ように述べています。「正月十四日 この日七五三縄〔しめなわ〕松飾りを取り払ふて之を清浄の処に
集める。……先ず小豆粥を煮て神に捧げ取り外した松飾りに捧げる。それから家内起き揃って眠い眼を
こすりながらも之を食する。終れば松飾りを地の明神などに納める。
仙台では十四日から暁かけて大崎八幡宮に松焚祭を執行され、途も社もうずまるばかりの盛況で……中
にも数百人の裸参りが神鈴を鳴らして雪を踏んで寒風の中を進むのが威勢よく見られる。
之等を暁詣でといふ……』。また、幕末頃の状況を、嘉永2年(1849)刊の「仙台年中行事大意」
(2 世十返舎一九。「奥羽一覧道中膝栗毛」第4篇巻之下の内)は次のように記しています。
『正月十五日 大崎八幡宮。十四日夜より参詣群集す。この日門松を八幡の社内にて焚失〔たきすつ〕るなり』。
昭和に入ってからこの行事が一段と盛んになるさまを、「仙台の方言」(土井八枝。昭和13年刊)は
『どんど祭 正月十四日の夕刻より十五日の暁にかけて仙台市八幡町の大崎八幡神社に行はれる祭礼。
市民らが松飾りの松、床飾りの〆縄等を持参して焚く火は夕方から翌朝迄絶えず炎々と燃上って壮観である。
近年は一層盛大になり数万の人出がある。』と述べています。
一般にこのような火祭の行事も、稲作儀礼である正月行事の一環でありますので、その起原は遥か古代の
農耕の歴史と共に、極めて古いものの一つであります。
その間時代的に、地方的にさまざまの変形を遂げながら今日まで残存しているのです。
勿論民俗行事ですから本来は旧暦によるものでしたが、明治5年12月3日の改暦を境に、他の民俗行事や
祝祭の大部分のものと同様、次第に新暦行事に切替ったのであります。