蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

村山槐多、取って置きのエピソード

2009年12月25日 | 小説
村山槐多ガランスの悦楽(東京渋谷松濤美術館、10年1月24日まで)の訪問ブログ記は09年12月14日に投稿しました。拙ブログとしては珍しくヒットが多い、あの帝劇の妖精涼風真世様を紹介するブログに迫る勢いを見せている。部族民トライブスマンは気分が良いので、部族民通信の愛読者に取って置きの槐多エピソードを紹介します。
村山槐多は1914年に京都府立一中を卒業し上京します。日本美術院の研究生として採用され、画業に励みます。いろいろネットで調べているのですがその正確な月日、住所などが調べきれずですが、うるおぼえ伝聞などを合わせると住居は田端文士村、ここに1918年まで4年近く住んでいた。田端文士村とは大正期に文人、画家など多くが居を構えたのでこう言われている。龍之介朔太郎秀雄らいてふなど颯爽たる文化人がその名を連ねるが、我らが槐多もその一人。
12月14日のブログで紹介した代表作の「バラと少女」(国立近代美術館蔵)が1917年の作品なので田端時代。この作品は曰く付きです、家賃滞納で押しかけてきた大家が家賃のカタに取り上げたとの由来があります。槐多はこれを日本美術院博覧会に出品するつもりでしたが、代わりに「乞食と女」を出品してこれが院賞受賞となりました。これは会場に行けば作品紹介に書いてある。ではネットの何処にも出ていない部族民通信の取って置きとは、
ある日風呂屋の看板に「槐多お断り」のでっかい文字が張り付けられた。村山槐多を入れないぞとの主人の宣言です。理由は2あってまず槐多があまりにも汚いこと。髪はぼさぼさ、手足は真っ黒でフケが首から肩をおおう異様さ、それに異臭。2は他人迷惑な言動、風呂やで裸になっても放吟など他人迷惑なこと甚だしい。他の客と言えば上記の文化人、教養と知性の塊みたいな紳士ばかりで、皆の顰蹙をかってしまった。私は「尿する裸僧」的な言動が実際に起きたとみています。田端を引き払って房総、信州に転居したのも、東京に帰るも代々木に移ったのはこのあたりに理由があると見ています。槐多の作品を理解するのにこのエピソードは重要です。
以上は反骨の美術評論家、洲之内徹氏が35年前に芸術新潮に寄稿した文によります。ネットで「槐多お断り」を探したが出ていない。芸術新潮のバックナンバーを探したが35年前となると無理だった。洲之内氏の「気まぐれ美術館」などあたれば出ているかも知れないが、これが探せず不可だった。

田端の風呂屋で裸で高歌放吟する槐多を小林秀雄(あるいは朔太郎か龍之介、らいてふでは絶対にないが当たり前だ)が苦虫かんで見ている、こんな風景が90年前にあったのだ。
コメント
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