(黄ばんだ白黒写真、アルバムに貼り付けられたまま40年近くも経過した)
1回(7月15日投稿)は梅雨の最中であった。7月17日に関東では梅雨が明け、青の空に白い雲が飛ぶ夏の盛りに入っている。
上掲の写真は古い友2人と投稿子(渡来部)のありし日の姿である。マスクを掛けていない右に立つのが私、27歳の渡来部です。写真を掲載するかしないかでしばらく悩んだ。私の筆力では彼らの若い時の姿など描写できないので掲載すると決めた。マスクを入れるか入れないかでも悩んだ。私本人はマスクなしだけれど、2人には影像プライバシーがある。いや、彼らにはプライバシーはもうないのだ。二人は鬼籍に入っている。
死者の遺影にマスクを掛けるのは逆に死者への冒涜か、いろいろ考えているうちに夏になった。
3人並んだ写真はこれ一枚しかない。撮影の年月、日時は思いだせる。
私(渡来部)は東京の下町、立石で育った。26歳の時ある事情で練馬区に引っ越した。その地の風土が合わなかった。4カ月で下町に戻った。戻ったのは立石ではなく北千住の小さなアパート。
それが昭和49年(1974)27歳。戻りの年を覚えていたから写真の記憶が蘇った。
その年、4月14日は日曜、朝10時に、高校以来の友人から電話を受けた。
「国府台のしだれ桜が見頃だから」千住でくすぶる私に勇気づけを考えてくれたのかも知れない。こもるだけの私は二つ返事で承諾。ついでに「あいつもドーセ暇なんだから」呼ぼうとなった。電話をかけた友はサエキ写真左、中央がドーセ暇なご人のタカノ。(名はいずれも仮称)
「柴又で1時半集合」と決まった。
参道のダンゴ屋さんを冷やかして、帝釈天で笠置衆みたいな御前(映画男はつらいよ)をさがしだして、江戸川土手に出る。矢切の渡しで市川に渡り、国府台で花見、サエキの自宅でコーヒーを愉しむとなった。
上掲写真は参拝の小粋なお姉さんに撮影ボタンを押してもらった。帝釈天境内、時は14時、寅さん風に粋がれるかを競った実況である。サエキとタカノはそれなりに雰囲気があるが、渡来部は「手前生国は葛飾です…」の啖呵切りだが、すこしも寅さんではなかった。
笠置衆の御前様は見つからず、満員の渡しに乗り込んで対岸の市川。頃合い適い満開の八重に一重、花叢を重ねる枝々がしだれてなびいて、渡来部は花吹雪を全身に浴びて、この春うれしい気分にやっと浸れた。花を後にしてサエキの自宅に案内された。国府台の静かな屋敷街、その中央に位置する敷地は200坪を越す。総檜で総瓦、破風の窪み深い昔ながらの造り。通された居間には檜の香りがあふれていた。
サエキは青砥の育ち、出会った高校は江東橋。引っ越したとはその日初めて聞いたので、青砥の家(これも立派な門構えだった)は売ったのかと聞くと「残してある、祖父祖母(ジイサンなどと口語で述べたが)が向こうに住んでいる」との返事だった。「この土地は昔から持っていたので、いずれ所帯持つから上屋を建てた」すなわちこれは27歳の彼の自宅、すこし羨ましかった。
挽き立て香り豊かなコーヒーを出してくれたのが御母堂。「一人では何も出来ないから食事の面倒を見に」青砥から寄ってきたとのことだった。
鈍いのでその時は詮索しなかったが「いずれ所帯」とまで言ったのは、話しは具体的に進んでいると気付くべきだった。新屋で伴侶として住む方は1月後に紹介された。耶蘇系の女子大出、大手の外資製薬会社で働く、思わず目を見張るキャリアレディ。
コーヒー飲んで暇をすると「駅前に旨いそば屋があるから」と誘われた。そば屋は一茶庵、タカノも合わせて3人で「板ワサ、天抜き」でクボタをちびりちびりやって鴨セイロで閉めて、帰りは10時を回った。
サエキは大岡山の工業大学を卒業、コンピュータソフト開発会社に入社した。頭の切れが早かったのは見事で、第一回目のSE試験を一級に合格している。電子交換機のソフト開発、化学プラントのプロセスコントロール、そしてこの時期には国家的プロジェクトともてはやされた「オーギ島」のプロセスコントロールにチーフデザイナーとして参画した。
自身の城としての自宅確保、才媛キャリアレディとの婚約、仕事は順風満帆、来週にコーカン技術者を本場米国のプロコン現場に案内すると張り切っていた。
27歳のサエキのこの環境は、渡来部が営々と40年くらい掛けて達成したい究極目標みたいな高みだ。たとえ目的としたところでたどり着くわけがない。渡来部、今の状況、家と土地、伴侶、仕事をみれば、サエキの27歳に劣っている。
しかしなぜか彼は元気が無かった。春の日曜の半日を共にしたのだが、婚約していた才媛女子との連絡は無かった。(古い友3に続く)