卒業しても定職にありつけず、ようやくそれらしき職と出会ったのが20代が終わる29歳。前回、柴又で寅さん演技(=古い友2)でうつつをぬかして2年余が経過した。見まねで仕事を覚え30を迎える頃にはやっと人並み、忙しくなった。
学歴もない渡来部がこれほどなら友人達はそれ以上に忙しい有様で、年賀状やたまの電話で近況を語る程度の付き合いとなった。
そのうえ家庭諸般に休日の時間をとられる歳にもなってきている。
30歳代とは仕事、家庭生活で人生の節目をこえる時期だ。今でも、私が30歳代だった30年の昔も、この変化に耐えろと試練が待ちかまえる10年である。
サエキとも疎遠になったが、それが当然で「奴も仕事を山と抱え迅速に処理している」と自然に推測していた。事実、コーカン技師との米国出張でハクをつけ、良家才媛との結婚と人生の節目を着実にたどった。
不調が聞こえてきたのはその年代の半ば。友人から「奥さんとうまくいってない」と聞かされた。「一緒になってすぐに不和が始まった」から、その時すでに別居していた。
この状態でサエキにどのように連絡を入れるのかが思い浮かばなかった。別居事態が友人の言葉に慰められるなどないし、「カミさんに逃げられたって、驚いた」と電話入れるわけにはいかない。思いあぐねているうちに、入院中との続報が湘南のある地名とともに入った。
その名はアルコール依存を治療する専門医療機関の場所であるし、国府台に住むサエキがわざわざ湘南の地に入院におもむくのは、依存症の治療のためでしかないと知るべきだったが、そこに気付かなかった。友人は見舞いを計画し実行した。私は同行しなかった。
千住に住み松飛台(松戸市)に通う私には時間やり繰りが難しいと断ったが、これは言い訳。正しい理由は、依存症とは知らずただ安直から「奴のことだ、ちょっと身体をわるくしたのだ。年齢からしてすぐに快癒するはず」
全く誤解していたのだ。
しばらくして転院の連絡を受けた。場所は飯田橋近辺。今度は医療機関の名称から依存症とは分かった。その時嫌な記憶が蘇った。鴨せいろを楽しんだ一茶庵でのやりとりを思い出したのだ。
クボタでほろ酔い加減の渡来部はサエキとタカノのやりとりを聞いていた。
サエキが「どんなに酒を呑んでも酔わない」と自慢した。
「そんなことはないだろうよ。人は酒に酔うもんだ」とタカノ
いつの間にか「その証拠を見せてやる」となって、サエキが冷えたクボタの4合分をなみなみと大ジョッキに注いで一気に開けた。
「すごい、見事に一気に」とタカノが驚く。サエキは「まあこんな具合、少しも酔わない、この感じで何杯もいける」と涼しい顔が自慢げだった。
酔わない者が飲み続けるとどうなるか。酩酊を求めても覚醒のまま、もっとアルコールをと永遠に飲み続ける。頭脳は明晰のまま、しかし臓器が不可逆の不全を引き起こす、こうした依存症があると知った。
病棟で見たサエキはまったくの別人だった。彼が長く病んでいたと気付いた。