蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

古い友 5(了)

2012年08月06日 | 小説
サエキの死に顔に安心して翌朝、私は大阪に赴任した。40歳の手前、時期はバブルの最盛期といえば見当はつくかと思います。
大阪ではバブルに遭遇したのですが、経済のすさまじい伸長でした。結局はポシャンと萎んで、それ以前よりも衰退してしまうので破裂が正しいかも知れない。例えば土地建物価格の膨張。私が住んだ豊中春日町のアパート近く、45坪の土地に30坪くらいの新築、1億2千万円には驚いた。それでも買い手が付いて、1月住んで再販売し「濡れ手に粟」で2千万を儲けたとの噂。
私がなじめなかったのは浮かれて騒ぐだけの浪速的風潮ですが、さらに耐えられなかったのは夏の暑さでした。3年で逃げるかに東京に戻った(平成2年、1989年)。無理矢理の戻り、当然に職を失った。葛飾四ツ木で一部屋のアパートを借りて、仕事探しからやり直し。この年にバブルが弾け、仕事の口が減って見つかるまで5年かかった。
新しい職場は平和島の倉庫、物流の管理職。とは言っても必要がなくなれば翌年は更新なしの年契約の身分は変わらずでした。
事務所に友人からタカノの病状を伝える電話が入った。「人工呼吸器をつけている。明日、見舞いにいく」と。
私はその時人工呼吸器なる器具の意味を全く理解せず、飛行機の座席にするすると降りてくる酸素マスクを想像していた。タカノが胃ガンで入院したのは聞いていたので、術後にちょいと呼吸が苦しくなっているから「補助マスクをしている」程度だと聞き流した。
「お前一緒に行かないか」と友人が訊ねたので、私は「明日と言われても無理だ。呼吸器を外せるまでに快復してから見舞いに行く」と答えた。電話先で友人はきっと絶句したのだろう、電話はそのまま静かに切れた。

ベッドに座り込んで天井から降りている酸素マスクを鼻先につけて、週刊誌を読んでいるタカノが、私を見るとマスクを外し「よく来たな」といつもの調子の一言二言が出る。そんな状況を想像した。無知のなせる悲しい誤解でした。

人工呼吸器は呼吸を補助する医療器具で、呼吸が出来ないとは生きるのに必須の不随運動が不可能になっている。脳幹に損傷が入った不可逆の重篤症状を意味する。
友人から電話を受けた日、タカノは死にかけていたのだ。3日後友人から訃報を知らせる電話を受けて、私は自身の無知を恥じ、死に行く友人を見舞わなかった間抜けさと非情を悔やんだ。

タカノは10年15年も病んだのではない。3ヶ月前に定期検診でガンと知らされた。早期発見ならば今の医療では完治は間違いないと、悲壮とは正反対の安心した気分で手術に臨んだ、そう聞いていた。術後の経緯は一向に入ってこなかったが、無事に患部摘出だと勝手に判断して気にかけなかった。最期の別れがあったなら、呼吸器の脇で眠るタカノを見る事になっただろうが、それがかなわず、人生の心残りをまたしても感じ入った。
通夜に駆けつけご母堂から死に顔を見せていただいた。
それはなんとも無念。50を前に死に果てる悔しさを閉じた硬い目と大きく開いた口で語っていた。

死んでからの年を数えるとサエキは25年の前、タカノが15年前。薄れゆく自我と記憶混濁にさまよう死に際、38年前の柴又帝釈天の寅さん写真(=古い友2)を私は見ながら、最期に彼らが何を思ったかを考えた。

きっと人生だろう。人生とは父と母そして子、生まれと成長、学び仕事を選び結婚して家庭をつくる。喜びと悲しみ、いがみ罵り融和して相克を残す、疎外と孤独孤立。一人でそして伴侶と二人で生きた言葉と思いの流れだろう。

寅さん写真のあの一日は帝釈天としだれ桜、鴨せいろとクボタと語りだったれど、死に際に、二人があの1日を思い出したとは思わない。人生で寅さん帝釈天など些細な一日であるし、私だってアルバムを整理しなければ忘れたままだった。
安らかな顔で人生を終えたサエキ、もっと生きたいと死を恨むかのタカノ。二人があの日を思い出さなくても、あの日3人が写真の面で現したのは平和な20歳代であるし、それはきっと思いが湧き出た筈だ。
青春の締めくくりの日、3人とも独身、病む事仕事と家庭の悩みなど知らなかった日。やり切れない生もやり残す人生もあるとは想像もしない一日。あの輝かしい一日は平和な20歳代の締めくくりだった。二人の成仏を願う。

(次回は小さい友、こちらも人生、でも深刻ではない)
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