(2017年7月8日)
前回(7月1日 第10回)ではボロロ族Kejara村落の形態を語りました。要点は:
1 村落、社会は永遠 2 宇宙と社会を往来する(人、動物、植物など)
3 人は魚から生まれ、死の後は鳥(Arara,野生のオウム)に生まれ変わる。人としてはその生の一形態である。すなわち魚が住むヴェルメリョ川側のTugareで生まれて山側(オウム)のCeraで死ぬ。この死者が住む世界はこの世のすぐ脇にあるーとなります。
生者と死者(Les Vivants et Les Morts=第23章)に入ります。投稿子(ハガミ)の私感ですがこの章は「悲しき熱帯」497頁でのまさに圧巻の20頁(265~284)となります。
レヴィストロースは章の頭で2の命題を上げています。
1 ボロロ族の村落構造はなにと対峙しているのか?
2 ボロロ族の死への考え=すなわち生の考えにもなり、信仰ともつながりますが、それとは何か?
1には簡明な答えが用意されています。
<<La structure du village ne permet pas seulement le jeu raffine des institutions: elle resume et assure les raports entre l’homme et l’univers, entre la societe et le monde surnaturel>>(267頁)
拙訳:この村落の形状は彼らの制度を巧妙に再現しているだけではなく、人と宇宙、社会と超自然の全ての関係をも再現している。
ここまでは分かりやすいのですが、続きに<< entre les vivants et les mort>>拙訳:生きる人と死者との関係をも再現していると続きます。写真はボロロ族の儀礼前、祭りに際しては羽根飾りなどをつけるが、その前なのでペニスケースのみ。この裸身が部族の伝統である、日本でも由緒ある祭りには男はふんどし一丁で御輿を担ぐに似るか。(Le crut et le cuitから転載)
ここでの注意は、分かりやすいとした前半の<宇宙、社会と超自然界の全ての関係>にあります。近代思考の下で教育を受けた身としては宇宙と社会の対峙を、また社会と超自然もしかりで、あるがままの意、人と宇宙、社会とは現実の社会、超自然とは理屈を超えた世界と理解します。それは近代人の理解ですが、その先入観で読み進むと訳が分からなくなる。
1 彼らが思い入れている社会とは現実のKejara村落と空想の“理想としての永遠社会”の双方である。構造主義流に語れば、イデオロギーとしての永遠社会と存在する形態Kejaraとの対峙の構造であり、それを超自然と対立させている。
2 Homme=人の理解も、イデオロギーとしての(死者)と形態の(生きる人)との対峙と 理解して進むとこの章が分かる。Hommeには死者も入れるのです。
ご丁寧にレヴィストロースは上記引用の直後に以下を書いている。
<<il faut que j’ouvre une parenthese a propos des rapports entre les morts et les vivants>>拙訳:死者と生者との関係を「括弧付きで」注釈しないと分かりにくい。
続けて「ボロロ族のこの(死者生者の関係)理解をすれば、世界多くの民族が持つ問題への理解が進む」と。
世界中で問題になっている死者と生者とはいったい何のことか。頁をめくろう。268,9頁に目をおとした。
レヴィストロースは死者に対する生者の態度を
1 認識される死者
2 投資される(こき使われる)死者
に大別した。
1の例としてヨーロッパの「蛇王女」を上げる。ある金持ちが借金を残して死んだ者の遺骸を債権者から買い取って葬った。すると死者が出てきて「難しい場面で手助けするから分け前の半分をよこせ」で契約した。儲けを重ねるが最後に王女を手に入れた。生者は王女を死者と山分けしたくないから、半分を払わなかった。すると王女の下半身は蛇だったーという民話である。
2こき使われる例として「投資する騎士」を上げている。これは一握りの小麦を元手にした貧しい農夫が機知を生かして雄鳥を手に入れ、それを豚、さらに牛と交換して最後に死骸を手に入れる。この死骸を「こき使って」騎士の位と王女を手に入れる民話である。
死者の知恵を借りる、死者を使って富を手に入れる、この2に分けられるが、いずれも死者との2等分の分け前が設定される。(269~270頁)
レヴィストロースは振り返ってヨーロッパではかつて「死者を使う」対峙法だったが、福音書の影響で「死者を認識する」感情が強くなったと説明している。ここが投稿子には理解しにくいのであるが、福音書とはキリストの死、埋葬、復活を語る。キリスト死の贖罪を感じつつ埋葬する過程が「死の認識」の影響を及ぼしたと想像を交えて理解した。
しかし、この死者に対する認識の2様態とボロロの世界観との関連とは何か?次回までに考えます。
猿でも構造、悲しき熱帯を読む 11の了 (次回は7月11日を予定)
前回(7月1日 第10回)ではボロロ族Kejara村落の形態を語りました。要点は:
1 村落、社会は永遠 2 宇宙と社会を往来する(人、動物、植物など)
3 人は魚から生まれ、死の後は鳥(Arara,野生のオウム)に生まれ変わる。人としてはその生の一形態である。すなわち魚が住むヴェルメリョ川側のTugareで生まれて山側(オウム)のCeraで死ぬ。この死者が住む世界はこの世のすぐ脇にあるーとなります。
生者と死者(Les Vivants et Les Morts=第23章)に入ります。投稿子(ハガミ)の私感ですがこの章は「悲しき熱帯」497頁でのまさに圧巻の20頁(265~284)となります。
レヴィストロースは章の頭で2の命題を上げています。
1 ボロロ族の村落構造はなにと対峙しているのか?
2 ボロロ族の死への考え=すなわち生の考えにもなり、信仰ともつながりますが、それとは何か?
1には簡明な答えが用意されています。
<<La structure du village ne permet pas seulement le jeu raffine des institutions: elle resume et assure les raports entre l’homme et l’univers, entre la societe et le monde surnaturel>>(267頁)
拙訳:この村落の形状は彼らの制度を巧妙に再現しているだけではなく、人と宇宙、社会と超自然の全ての関係をも再現している。
ここまでは分かりやすいのですが、続きに<< entre les vivants et les mort>>拙訳:生きる人と死者との関係をも再現していると続きます。写真はボロロ族の儀礼前、祭りに際しては羽根飾りなどをつけるが、その前なのでペニスケースのみ。この裸身が部族の伝統である、日本でも由緒ある祭りには男はふんどし一丁で御輿を担ぐに似るか。(Le crut et le cuitから転載)
ここでの注意は、分かりやすいとした前半の<宇宙、社会と超自然界の全ての関係>にあります。近代思考の下で教育を受けた身としては宇宙と社会の対峙を、また社会と超自然もしかりで、あるがままの意、人と宇宙、社会とは現実の社会、超自然とは理屈を超えた世界と理解します。それは近代人の理解ですが、その先入観で読み進むと訳が分からなくなる。
1 彼らが思い入れている社会とは現実のKejara村落と空想の“理想としての永遠社会”の双方である。構造主義流に語れば、イデオロギーとしての永遠社会と存在する形態Kejaraとの対峙の構造であり、それを超自然と対立させている。
2 Homme=人の理解も、イデオロギーとしての(死者)と形態の(生きる人)との対峙と 理解して進むとこの章が分かる。Hommeには死者も入れるのです。
ご丁寧にレヴィストロースは上記引用の直後に以下を書いている。
<<il faut que j’ouvre une parenthese a propos des rapports entre les morts et les vivants>>拙訳:死者と生者との関係を「括弧付きで」注釈しないと分かりにくい。
続けて「ボロロ族のこの(死者生者の関係)理解をすれば、世界多くの民族が持つ問題への理解が進む」と。
世界中で問題になっている死者と生者とはいったい何のことか。頁をめくろう。268,9頁に目をおとした。
レヴィストロースは死者に対する生者の態度を
1 認識される死者
2 投資される(こき使われる)死者
に大別した。
1の例としてヨーロッパの「蛇王女」を上げる。ある金持ちが借金を残して死んだ者の遺骸を債権者から買い取って葬った。すると死者が出てきて「難しい場面で手助けするから分け前の半分をよこせ」で契約した。儲けを重ねるが最後に王女を手に入れた。生者は王女を死者と山分けしたくないから、半分を払わなかった。すると王女の下半身は蛇だったーという民話である。
2こき使われる例として「投資する騎士」を上げている。これは一握りの小麦を元手にした貧しい農夫が機知を生かして雄鳥を手に入れ、それを豚、さらに牛と交換して最後に死骸を手に入れる。この死骸を「こき使って」騎士の位と王女を手に入れる民話である。
死者の知恵を借りる、死者を使って富を手に入れる、この2に分けられるが、いずれも死者との2等分の分け前が設定される。(269~270頁)
レヴィストロースは振り返ってヨーロッパではかつて「死者を使う」対峙法だったが、福音書の影響で「死者を認識する」感情が強くなったと説明している。ここが投稿子には理解しにくいのであるが、福音書とはキリストの死、埋葬、復活を語る。キリスト死の贖罪を感じつつ埋葬する過程が「死の認識」の影響を及ぼしたと想像を交えて理解した。
しかし、この死者に対する認識の2様態とボロロの世界観との関連とは何か?次回までに考えます。
猿でも構造、悲しき熱帯を読む 11の了 (次回は7月11日を予定)