(7月11日)
前回7月8日では死者に対する生者の姿勢は1認識する、2コキ使うに大別される、おおくの民族部族はいずれかに収束するが、ボロロ族はそれら2形態を併せ持つ独特な部族である<>(270頁)とのレヴィストロースの主張を紹介した。では、ボロロ族の生死観、世界観を覗こう。
文化と自然の2分割の宇宙、ボロロ族もこの対立の思想を持つ。生者が実際に見て感じているこの世は文化側に属し、死者は自然に帰してもはや文化には住まない。ボロロ族は世界を「社会的世界」(univers social)と「物質の世界」(univers physique)に分けている。
社会的とは上下の地域、支族、階層に分割された村落の実体、その機能(例えば婚姻、居住などの規定)を指す(第8回、6月20日に村落の図)。これのみならず村落の脇を流れるヴェルミリョ川とそこの魚、村を基点にして川の反対側の山地に住む鳥類、そして思想としての村落も社会的世界に含まれる。その「思想として」の意味は、投稿子の過去ブログ「猿でも分かる構造主義」を参考に取ると、これはボロロ族が頭に描く「村とはこうあるべきだ」と思想、別の言葉で「表象」となります。ソシュールの記号論は「意味する物」と「意味される物」の対峙ですが、レヴィストロース構造主義は「思想ideologieと物体forme」の対立となります。
彼らが住むKejara村落が物で、思想・表象としての(理想の)村落がそこに共存している、そう信じている。
悲しき熱帯を読む限り、彼らは思想の村では「個人individuel」ではない。「社会的人間personalite」として生きている。ここでの「社会的」とは生まれの地は村の北か南か、西か東か(川の上流か下流か)、支族、階層、階層の中での席次など、これは持って生まれた地位で、その者の「人間性personalite」がそれで決まる。
現実の村の中で個人としての名前、誰それの子、夫などと個人としての地位があり、平素は行動も個人だが、儀礼の場での化粧(ボディペインティング)の色模様、飾り羽根(オウム)の種類と大きさ、踊りの形など「人間性」で取り決められた枠の中で行動する。この人間性は「持って生まれた財産」で貧富の差をこれで計る。
儀礼以外にも集団でのジャガー狩り(葬式の一環として)、儀礼に必須の楽器(楕円形で紐でブンと回し低音の抑揚を奏でる)の材料収集でも「人間性」で行動します。
ボロロが一目置くジャガー。死者がでるとあの世(物質世界)へ貸しが出来たとして、男達は集団でジャガー狩りを組む。しかし滅多にジャガーは射止められる獣ではない。手ぶらで帰る事も多いとか。著書より転載。
もう一つの「物質の世界」は社会的世界のすぐ脇に存在している。そこには地を這う動物と悪霊、死者が住む。地を這う動物とはジャガー、ペッカリー、バクなど四つ足、これらは現実に見えるが、そこに見えない霊も共存しているとボロロは信ずる。
死者は持って生まれた社会的地位をこの物質の世界に持ち込み、自身の位置となる階層に安住する。すなわち死者は人間性を持ち込から特定される霊である。悪霊はもともと人間
だったが、何らかの事情で死の後に物質世界の階層から弾かれている者で、この事情は反社会(asocial)とだけ記載されている。悪霊は自身の位置(階層)を失っているから、個人に特定されない死霊である。
悪霊はBariと呼ばれる呪術師に乗りうつる。不猟、不作などに際しBariwoトランス状態にしてお告げを下す。矢がそれた、弓が壊れた、指を怪我したなども悪霊の仕業と怖れられ。村落全体でBariに寄進して厄払いを施す。
一方、階層に安住している霊とこの世の取り持ちはaroettowaraare=ボロロ語で良き伝道者の意らしい。彼は儀礼の式次第の取り決め、各自の衣装化粧の指導を行う。
ここで前回の死者に対する2通りの姿勢で、ボロロが両方を持ち、それぞれの儀礼次第を伝統としているレヴィストロースの主張に戻れた。
1の認識する死とは墓に入り、死後も個人として特定している。時折この世に現れて善行を施す死者だが、これはaroettowaraareを仲介人として、霊への分け前も施して上手くやっていく。分け前とは現物寄進であるし信仰でもある。
2こき使われる死者とは個人名を持たないが、生者の都合、多くが失敗、困難だが、その事態を解決しろとで呼び出される。Bariが受け持つ悪霊の仕事である。
レヴィストロースは日本を数回訪問して「日本人は神話の世界に生きている」(L’autre cote de la Lune=月の裏側)と感動した。投稿子は梅原猛氏の「悪霊、怨恨説」との近似を感じる。来週は日本人とボロロ族の比較を試みる。
猿でも構造、悲しき熱帯を読む 12の了 (次回は7月14日を予定)
前回7月8日では死者に対する生者の姿勢は1認識する、2コキ使うに大別される、おおくの民族部族はいずれかに収束するが、ボロロ族はそれら2形態を併せ持つ独特な部族である<
文化と自然の2分割の宇宙、ボロロ族もこの対立の思想を持つ。生者が実際に見て感じているこの世は文化側に属し、死者は自然に帰してもはや文化には住まない。ボロロ族は世界を「社会的世界」(univers social)と「物質の世界」(univers physique)に分けている。
社会的とは上下の地域、支族、階層に分割された村落の実体、その機能(例えば婚姻、居住などの規定)を指す(第8回、6月20日に村落の図)。これのみならず村落の脇を流れるヴェルミリョ川とそこの魚、村を基点にして川の反対側の山地に住む鳥類、そして思想としての村落も社会的世界に含まれる。その「思想として」の意味は、投稿子の過去ブログ「猿でも分かる構造主義」を参考に取ると、これはボロロ族が頭に描く「村とはこうあるべきだ」と思想、別の言葉で「表象」となります。ソシュールの記号論は「意味する物」と「意味される物」の対峙ですが、レヴィストロース構造主義は「思想ideologieと物体forme」の対立となります。
彼らが住むKejara村落が物で、思想・表象としての(理想の)村落がそこに共存している、そう信じている。
悲しき熱帯を読む限り、彼らは思想の村では「個人individuel」ではない。「社会的人間personalite」として生きている。ここでの「社会的」とは生まれの地は村の北か南か、西か東か(川の上流か下流か)、支族、階層、階層の中での席次など、これは持って生まれた地位で、その者の「人間性personalite」がそれで決まる。
現実の村の中で個人としての名前、誰それの子、夫などと個人としての地位があり、平素は行動も個人だが、儀礼の場での化粧(ボディペインティング)の色模様、飾り羽根(オウム)の種類と大きさ、踊りの形など「人間性」で取り決められた枠の中で行動する。この人間性は「持って生まれた財産」で貧富の差をこれで計る。
儀礼以外にも集団でのジャガー狩り(葬式の一環として)、儀礼に必須の楽器(楕円形で紐でブンと回し低音の抑揚を奏でる)の材料収集でも「人間性」で行動します。
ボロロが一目置くジャガー。死者がでるとあの世(物質世界)へ貸しが出来たとして、男達は集団でジャガー狩りを組む。しかし滅多にジャガーは射止められる獣ではない。手ぶらで帰る事も多いとか。著書より転載。
もう一つの「物質の世界」は社会的世界のすぐ脇に存在している。そこには地を這う動物と悪霊、死者が住む。地を這う動物とはジャガー、ペッカリー、バクなど四つ足、これらは現実に見えるが、そこに見えない霊も共存しているとボロロは信ずる。
死者は持って生まれた社会的地位をこの物質の世界に持ち込み、自身の位置となる階層に安住する。すなわち死者は人間性を持ち込から特定される霊である。悪霊はもともと人間
だったが、何らかの事情で死の後に物質世界の階層から弾かれている者で、この事情は反社会(asocial)とだけ記載されている。悪霊は自身の位置(階層)を失っているから、個人に特定されない死霊である。
悪霊はBariと呼ばれる呪術師に乗りうつる。不猟、不作などに際しBariwoトランス状態にしてお告げを下す。矢がそれた、弓が壊れた、指を怪我したなども悪霊の仕業と怖れられ。村落全体でBariに寄進して厄払いを施す。
一方、階層に安住している霊とこの世の取り持ちはaroettowaraare=ボロロ語で良き伝道者の意らしい。彼は儀礼の式次第の取り決め、各自の衣装化粧の指導を行う。
ここで前回の死者に対する2通りの姿勢で、ボロロが両方を持ち、それぞれの儀礼次第を伝統としているレヴィストロースの主張に戻れた。
1の認識する死とは墓に入り、死後も個人として特定している。時折この世に現れて善行を施す死者だが、これはaroettowaraareを仲介人として、霊への分け前も施して上手くやっていく。分け前とは現物寄進であるし信仰でもある。
2こき使われる死者とは個人名を持たないが、生者の都合、多くが失敗、困難だが、その事態を解決しろとで呼び出される。Bariが受け持つ悪霊の仕事である。
レヴィストロースは日本を数回訪問して「日本人は神話の世界に生きている」(L’autre cote de la Lune=月の裏側)と感動した。投稿子は梅原猛氏の「悪霊、怨恨説」との近似を感じる。来週は日本人とボロロ族の比較を試みる。
猿でも構造、悲しき熱帯を読む 12の了 (次回は7月14日を予定)