蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 5

2020年02月03日 | 小説
渡来部須万男からの投稿を続けます。
1968年11月23日の日曜日、11時、快晴。晩秋の空の青さに染まるパリ、道も広場も街路樹も光と影に透き通っていた。アジア系若者がカセット通りに降り立った。その時、風が一陣吹き抜け、若者は冷たさに襟を立てた。再開されたレヴィストロースの講座を聞くためにフランス学院(College de France)に急ぐ。

市民参加の公開講座ながら学期と連動するので10月からの開講が期待された。しかし11月の遅くまで待つ事になった。前の期にしても通例は7月末まで開かれる筈だったが、突然4月に、中断する旨の通告が閉ざされた教室の戸板に張られた。打ち切りと遅い再開、原因は言わずと知れた5月の学生騒動である。
半年が過ぎて再開の公知に待ち望む面々は胸をなで下ろした。

写真はフランス学院の階段教室、公開講座の聴衆。ホームページから。

学院の公開講座は教授(chaire)の義務であると前回述べた。
月に2回、時間は90分。入場希望者に登録、記帳などの義務、制限が一切なし。まして講座料を取るなどケチの臭さは発想にも浮かばない。
講演の進め方がフランスのスタイルである。学部の大教室の講座でも同様である。そのスタイルとは、講師は口頭の説明のみに徹する。彼は語る、語り続ける。分かり難い箇所があろうとも聴衆反応が渋かろうと、ひたすら「口演」で進める。繰り返しを入れたり、込み入ってきたから噛みくだく解説を披露するなど、理解弱者への手助けが一切ない。さらに質疑応答は設けられない。資料配布は絶対にない。
講演者の言い分をもっぱら有り難く聞き賜る、フランス式講座である。
(こんな講座を体験したい方は日仏会館(東京恵比寿)の公開講座に足を運ぶをお薦めする。無料、資料なし、予約と記帳はいまの世情なのであり。フランス式が何とか分かる)

レヴィストロースは日曜午前を選んだ。
日曜なら多く市人が時間を取れる、彼自身もその時間帯に他の用件も特にはなかろうが理由として思い浮かぶ。一方で彼はユダヤ系を父母にもち「無神論者athe」である。日曜午前に教会に参列する習慣を生来、持たない。聴衆者にnon-pratiquant(日曜に教会に通わない)を無言で求めている。

冒頭で襟を立てた若者とは私(渡来部)です。
カセット通りをリュクサンブールに下り、ヴォジラールを左折してサンミシュエルに向かう。エコル通りに出てソルボンヌを目指す。学院はその隣。通い慣れた道のりはおおよそ15分。
開始の10分前に教室に入った。床は広く天井が高い、収容数は数百席か、学術講演では相当に大型の会場、もうほぼ満席、人々の立ち声と息切れに驚いた。
もっとも低い中央には横長の演壇がしつらえてある。その中央に大きな演卓と椅子が一脚ぽつんと置かれ、後ろには長い黒板。手書きでClaude Levi-Strauss, Seance a partir 11 :00、11時からの講演が読めた。

写真は同じくホームページから。改修されて立派になった。

1の列の椅子数は20ほどか、左右の端が3~4席が扇に閉じる。それら列が演壇に対し勾配を上方にとる。近くでの水準は演壇と同等なるも、演壇から離れるほど列は高くなるので、遠くとなれば見下ろせる。2の通路が左右に、椅子列を二股に分断する。この通路が階段をなすが故に階段教室(amphitheatre)と呼ばれる。

すでに市民が多く集まっている。

私(渡来部)は後方の左奥の一席を探り当て、くぐり入って座り込む。その前ざっと教室を見渡した。
聴衆の年齢は30代後半から50代前半が過半と見えた。民間も官界でも仕事場の実際では指導的立場を占める層であし、自信ある姿勢、仕草の男共が目についた。服装はおしなべて、きらびやかさを排するが、日曜午前の時間なりにしっかりした身だしなみを決めている。例えば2列前の男、厚地ツィード上着にその下は色の濃い、紺か紫のシャツにリヨン絹のスカーフ。この装備ならば今の季節、冬のとば口で風は冷たいけれどメトロ(地下鉄)移動に徹すれば、外套の重ね着ヤボは不要だ。厚地ながら外套なしなら、パリ的にシックである。そのツィードと立ち話しの男はシングルのバーバリーを脇に抱え、チェックの上着。頸を巻いたスカーフ生地は色ツヤからアルパカか。腕に抱えるバーバリーはタンス出し卸しだろう、くたびれ塩梅ながら洗いざらしの地の青の照りが映えて、これが小粋。

女は色とりどりである、その一方で色と色の組み合わせの有様には何やらの基準、統一性が窺えた。その配色を探れば、くすみである。
皮側を表にしたムートンコートが流行っていた。長い毛の側が厚い裏地となる。それなら下のブラウスは薄手でも北風をしのげる。そのコートを脱いで無造作に椅子に、もう要らないと放り捨てた薄着女の格好はいかに。薄地ウールがボディコンシャス。その色は強い灰か、うっすらとビアズリー模様が表に乗る。身体露出の代わりに、灰色の裸体を見せつけたのだ。
知り合いであろうか、ひょいと立ち上がり3列前に手を小さく振った。向こうも同じ歳の格好、ベージュ無地のダブルの上着のコートなし、振り返り立ち上がったスカートはタイト、それは無地の濃い臙脂。

右列に学生らしき若い女性が席を取った。
厚手のセーター、ざっくりの織りは黒にも近い濃い青、胸前に大きなインコのアプリケ。栗色(chateigne、ブロンドより濃い)の長い髪を後ろ手で探り、うなじから添えあげて一ふるい落とした。その間に視線流しを私に見せつけたけれど、その仕草は特定意思ではない。身体表現が胸部、さらに臀部で際だつこうした女の歳のころが25、26ならの決まり切った日常の動作である。
道で立ち止まる、相手を見つめる、誰かの前で腰掛けるなどの動作の止まりで、次に移ろうとする一瞬の前、こんな仕草で時を止め身体の表現力を挑発の証しとして、ただ確かめているのだ。

一旦、席を決めて見渡して、知り合いが認められて手を振れば、相手にも悟られる。そちらに歩いて立ち止りボンジュール、あるいはmon vieux ca va ?の挨拶。そして握手、女同士あるいは男と女なら頬ずりをかわす。頬を重ねるからと親密な間ではない、普段の挨拶の一形態である。それから会話に入って二言三言を交わすけれど、別にたいした話題ではない。「ミッシェルが死んじゃった」「ミッシェルて誰」「ネコ」それでもそんな立ち話に花が咲いているから、教室は雑談の坩堝に化した。
席を移動して話し込むなどの配慮は絶対に起こりえない。別にやって来て己の席を誰からも離れて取る。誰か画どこかに来ていると認めたら、近寄って立ち話するだけ。席は共にしないが決まりである。
私も幾人かの同期と手を振り位置確認しただけ。

「日曜の午前」なりの服装と前に申した。その趣旨とは派手さを抑え、それなりの物で着こしめす。この服装の統一性には日曜ミサのしきたりが色濃く残こるかと感じた。
伽藍に向かう代わりに学院、聖堂を階段教室に乗り替え、祭壇を剥がして黒板に張り替え、耶蘇司祭を追い出してレヴィストロースを置いた。するとノッブ(通人、あるいは流行おっかけ)の礼拝が始まろうとしているのか。

時計の針が11時、始まりを刻んだ。 続く

(フランス学院のHPを覗くと公開講座は「教授」のみならず、多くの研究者が開いている。制度が民主的に変わっているかと思う。また土日の講座はもはや無いようだ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする