蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 4

2022年07月13日 | 小説
(2022年7月13日)前回投稿の最終部は「キルケゴールの心情の根底に「段階」がある」、段階について語ります;
ラカン指摘の段階とは「キリスト教的実存主義」の行き着いた人の生き様の3段階に他ならない。それは1 stade esthétique(耽美舞台)  2 stade éthique(倫理舞台) 3 stade religieux(信仰舞台)となります。それぞれの舞台は生き様に基準が設けられている。耽美では人は外観の様、行動の潔さなど目に見える「モノ」を重要とするなど、他の2舞台でもその題目通りに行動する、とキルケゴールが考えている訳です。理想は最終段階であり、そこに至りそれまでも経験し苛まれていた存在(罪)を克服する(自由を得る)に至る。
この考えは思想でも哲学でもなく信心のあるいは宗教の教条、その範疇です。ラカンが精神分析の対象にキルケゴールを採り上げた理由はこの信条とそれを実践する精神に関心があったからです。決してキルケゴールを哲学者として扱っていない。
段階それぞれの特質と次段階へ上昇する契機とは何か。ここを解説しあわせて彼の信条のキリスト教実存主義「罪の実存」を知って頂く機会にもなるかと。私はそこまで展開できないのでNathan版Dictionnaire Philoから引用します。


ラカンとフロイト、ネットから採取、再掲


段階とはなにか;
<La relation, par la Foi, que l’homme entretient avec Dieu, d’une manière singulière et sans passer par l’appareil de la raison, est en effet d’un cheminement en plusieurs étapes, qui correspondent aux épisodes successifs de la vie de Kierckegaard> (同書Kierckegaardの項)信仰に裏打ちされる神との対話とは、特別で理性装置(頭脳)が考えつくものではない。行程を形作るいくつかの段階(étapes) を持ち、それぞれにおいてキルケゴールの生き様となる出来事に結びつく(この解説では罪を自覚しない下層段階でもすでに神との対話が持たれるとなる。実存主義を意識した解説です)。
3に分かれる段階とは; 
1 stade esthétique(耽美舞台)は <Vivre dans l’instant, jouir de chaque moment qui passe, tel est le souci de l’esthéticien>刹那に生き、過ぎゆく瞬間を楽しみ、心配事とは耽美の実践者としての気がかりのみ…。しかしこの段階には陰りが生ずる。<Mais l’inassouvissement du désir toujours renaissant fait éclore une critique…exige le dépassement de ce premier état.不満はひっきりなしに心に疼いて一つの批判が生まれいでる。それが第一段階から逃避するきっかけになる。心に疼く不満とは耽美行為の繰り返したところで(良心から)限界を感じているから。
その不満を実感するために「繰り返し」は必須、次段階へ上昇する契機となる。キルケゴールは自由(信仰)を得るための原初の蹉跌と語るでしょうが、ラカンは « mirage » 幻影(現実原理の一行程)を見るからとしている。上段に落ち着けば自由が得られる、それは « mirage » 、精神分析の視点です。

2 stade éthique(倫理舞台)は<celui de devoir et de la bonne conscience>義務と良心の段階。一方で<Mais la vie de l’honnête homme, avec toutes les désillusions qui s’y attachent =中略= « humour » kierkegaardien conduit finalement au stade religieux > 正しき人の生にはあらゆる幻滅がつきまとう。感性を惑わさせるのは人の知恵 « sagesse humaine » の不安定 « précaire » を挙げる、レギーネ嬢への求婚と突然の破棄の実体験がここに現れている。知恵と倫理では自由は得られない。自由を求め次の段階にケルケゴールが向かう。

3 stade religieux(信仰舞台)は<C’est la situation existentielle du chevalier de la foi, qui se découvre lui-même, non pas acceptant les dogmes de l’Eglise…ou l’existence du péché sera reconnue> それは信仰の実践者(le chevalier=騎士)の実存的立場となります。教会が説く信条など、智の哲学も受け入れず、信仰にすがる。信仰への帰依が己の中から湧き、罪と向き合い自由を得る。
(以上は原本はDictionnaire Philo、著作「あれかこれか」の主題、ラカンの講義中身などを部族民が重層して、勝手に解釈した)
ラカンは続ける、キルケゴールは自由を得られない;
Kierkegaard veut échapper à des problèmes qui sont précisément ceux de son ascension à un ordre nouveau, et il rencontre le barrage de ses réminiscences, de ce qu’il croit être et de ce qu’il sait qu’il ne pourra pas devenir. Il essaie alors de faire l’expérience de la répétition> (110頁) 訳:キルケゴールは問題からの逃避を望んだ。その取り組みがなにより、新しい段階への上昇 « ascension » を約するものであったのだし。そうした存在であるべきこうなってはならないと想起 « réminiscences » が教えるが、障害が必ず立ちはだかる。故に(進歩なし、同じ段階で)蹉跌を繰り返し失敗を重ねる。
著作 « Répétition » 繰り返し、で綴られるベルリン再訪したキルケゴールの苦い体験をラカンは第2舞台での失敗としかく表現した。
引用したDictionnaire Philo.は「実存主義」からの解釈で罪を経験し自由を得る過程を説明するが、ラカンは「想起」を持ち出している。精神分析の手法です。
このラカン解釈ではキルケゴールは「1を経て2の段階」には進めた、3に上昇は至らなかった。用いた言葉 « ascension » からして(部族民)はそうと理解する。この語の意味は上昇よりも「昇天」に近い。大文字で始まる « Ascension » は「昇天祭」キリストが天に帰った日です。その語感を含めて用いているはずだから、これをして第2段階でうごめき、蹉跌を繰り返し第3には上昇できなかった根拠とします。概ねの解釈とも整合するかと。
ラカン精神分析によるキルケゴール解体 4の了(2022年7月13日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする