蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 2

2022年07月08日 | 小説
(2022年7月8日)前回(6日)では<Kierckegaard, qui était, comme vous le savez, un humoriste, a bien parlé de la différence du monde païen...>を引用、拙訳をはさみました。キルケゴールを « humoriste » 諧謔家とする。引用文の後半では彼の考え方を « une pensée » 「とある思考」としているし、形容詞に « théoriale » なる造語を当てている。この語は辞書にはないから「理論みたいなもの」と理解する。ラカンのキルケゴール評価は思想家というより宗教家、信仰実践家である―と見る。


現実原理の一般的解釈を真っ向否定するラカン、その論説にプラトン、キルケゴールを持ち出すなどの筋立ては見事。

本書(セミナーII、110頁。現実原理 principe de réalité の立ち位置はの文などが見える。

引用文でのもう一の注目点は « le monde païen » の実体。直訳は異教徒の世界。実はキルケゴールが「あれかこれか」で展開する« stade esthétique » 、耽美段階がこの異教徒世界にあたる。人は外見(esthétique)を気にかけて行動する。そして行動の起点に存在(=罪)を経験(覚知)するまでに至らない、ここは最下層の世界と規定される。最下に対比される最上層世界は « le monde de la grâce, que le christianisme introduit » キリスト教が導く恩寵の世界。この段階で人は存在(罪)を克服し自由(神の恩寵)を獲得する。キルケゴールの生き方は己が主張するキリスト教実存主義によるとされるが、無信心(異教徒)から信仰の世界への上昇―とラカンは簡潔に正確に述べています(人の生き様段階とサルトル実存主義との比較は本連載投降の後半に)。
もう一点、同引用文の « objet naturel » 正しい対象とはなにか。
認識論である、ラカンは動物を引き合いに出す。その文節の引用は省く、内容は「対象を正しく認識するのは動物にとってお手のもの」である。この意味は、ライオンがシカを見つけたら獲物と正しく、対象の存在意義を認識する。ライオンにとりシカはそれ以上でも以下でもない。この理解が « naturel » で「対象が持つ本来の特性、価値」を見分ける認識となる。この本来が次の語の « quelque chose » と対照される。人は「何か」を動物的認識能力に付け加えている。「対象をその本来naturelとしてみていないと」キルケゴールを例に出してラカンが曰うのだ。
人が外界を認識する(現実原理)の手順は « la capture, la forme, la saisie, le jeu, la prise, le mirage, la vie »には定冠詞(la, le)が被されている。この文脈では、定冠詞は一般性を持つ定冠詞の用い方ではなく、それぞれは「見て認識する個体が感じている、個別の形態、連続性、蜃気楼」と受け止める。この認識では個の人の意識が取り憑く。個が「何か」対象に感じ取り、それは亢進の果に « mirage » 蜃気楼までかすめ眺めてしまう、これが人の「何か」である。
例を挙げよう。君がキルケゴールに劣らず多感だったら。
靖子嬢の顔(カムバセ)を見てなんともキレイ« forme » と感動する« capture »。感動する際にそれ自体の本来の形体に何がしかを加味している « la saisie » のだ。「文子様の若かりしに劣らない」としてないか。そこに連続 « jeu » の罠が隠れている。「さゆり様の鼻筋を彷彿とさせる」と思い込んだら、その顔の本来の特性 « objet naturel »(目と鼻と口の人の面)なんかすっかり忘れ、靖子嬢の背後に隠れる蜃気楼 « le mirage » 見ているのだ。
余計な何かしらが加わる人の外界認識、その発起点にラカンはプラトンの想起説 « la réminiscence »を重ねる。
「人は地上に生きる前に天上で生をおくり、自覚のないまま記憶思考を抱え込む。時にそれを彷彿と思い出す」の意味。メノンでこの仕組を論じている。部族民の付け焼き刃ではなく格式高い辞書からプラトンに入る;
<Platon explique la chute de l’âme humaine qui , après avoir vécu dans le monde d’ « en haut », est tombée dans celui du sensible en unissant à un corp. Cependant, à la vue des choses sensibles, l’âme est capable de rentrer en elle-même pour retrouver, à la manière d’un souvenir oublié, l’essence intelligible contemplée lors de son existence antérieure : c’est la théorie de « réminiscence » >(Nathan版Dictionnaire de philo.から)
訳:天上界で生を過ごした「心âme」は地に降りて感性に取り付き人の中で一体化する。感知されうるモノを見た時に精神は、記憶としては残していないものの、前世での叡智と思弁からなる本質を取り戻すこととなる。これをして« la réminiscence » 想起とする。
人の本質は叡智にあり、その源は天上界を過ごした心にあった。心が体験した風景、判断、思弁思索などが、その人が気の付かないまま心に抱え込み、あるきっかけで「想起」されるのだった。思い起こしするは形態のみではない。思索、思考も天上界からの引き継ぎである。ここがその後のプラトン理論の発展につながる。
Cogitoを人の本質とするデカルト、人が考える力はどこからもたらせられたか。天上界(神)からと決まっている。カントの先験 « Transcendantal » も天上に知の濫觴が求められる(両の哲人はこの点、知の本貫に説明を入れていない)。
君の別個体(アルターエゴ)が天上で生活していたのではない。天上に住まうは« âme » 心なのだ。
ラカン精神分析によるキルケゴール解体 2 の了 (7月8日 次回は11日)
蛇足:君と靖子嬢との因縁とは:天上でとある âme心が靖子嬢に出会った、その感性が君の心に降りてきて、靖子嬢の美形に地上でまたも惚れる。その様を蜃気楼に浮かべてしまうほどベタ惚れ原因は、天上でフラレたから。この世でもフラレてしまうかもしれないから用心。この忠告は部族民ヤッカミ邪心ではない、キルケゴールとプラトン、Zeigarnikがかく教えているのだ
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