(2022年7月6日)ジャック・ラカン(精神分析学)セミナーII第7章 « Circuit » 周回を紹介しております。前回投稿は「分析快楽の果 、繰り返し1~4」(ブログ投稿6月17日~24日)。ここではフロイト説の快楽原理 « le principe du plaisir » と 現実原理 « le principe de réalité » の比較をラカン解釈を元にして紹介しました。人間身体を緊張伝達の機械と見て、リビドー(フロイトは性欲を当てるが、幅広い行動欲とする見方も)の亢進で人は快楽に突き進み、愉悦頂点に行き着いた途端、緊張の最下点 « au plus bas de la tension » に戻る、これが快楽原理となります。この緊張情報交流の仕組みを « cybernétique » サイバネチック、下点復帰の機能が« homéostat »として、身体系に固有の機械的働きであるとした。サイバネチック、ホメオスタット共に1948年に発表された(米国ウィナー)定義なので、フロイトはそれ以前(1890年代)に名称はつけず概念を確立して身体系に応用した―がラカンの説明です。
愉悦最上点と緊張下落は行ったり来たりの繰り返し« répétitive »を見せる。この自律系をラカンは « dialectique circulaire »「巡回弁証法」なる言葉で表した。弁証法は含意として「機械的」含みますが、働くのは人体神経系に限るので精神分析家としても抵抗はなし。
一方、現実原理とはどのような運動を見せるのか。これが今回投稿の主題です、ラカンは7章3部106頁の以降112頁までを現実原理の説明に費やしている。
快楽(本来は性的衝動に限定されるが行動欲、広い意味のリビドーとする見方も優勢)を望むも、すぐさまの行動を取らない原理であるとは(精神分析、心理学)で定義される。しかしラカンはこうした解釈に真っ向反対する。この原理を説明する用語 « apprentissage »(修得)の意義の捉え方で、ラカン(およびラカン派とされる集団)と一般精神分析側に対立を認めることできる。
一般側(反ラカン)を主流とすると解釈は;それを教育とする。ラカンが言い換えるとその仕組は« adaptation, par approximation… » 社会規範の採用、あらまし妥協などと説明されるが、これらの意味合いは普通の教育過程です。全く「精神分析的でない」。一方、ラカンが唱える« apprentissage » の仕組みは « トラウマle trauma固定la fixation再侵入la reproduction転移le transfert » と分解される。内省的かつ精神分析学と風合いが似通う仕組みとなっている。証明にMonsieur Gribouilleうっかり氏2度の失敗を挙げている。ここまでが前回投稿、おさらいです。
今回投稿はこの後文(106頁以降)となる。現実原理の作動解説となる。
キルケゴール(1813~1855年デンマークコペンハーゲン)を採り上げるラカンの理由はその学説を紹介するのではなく、彼の生き様と心象風景を解体するためです。写真はネットから
ラカンは自説の証明に3の先人を引き出した。彼らは:
1 プラトン。著作メノンなどで開陳した « réminiscence » 前世の記憶の生得観念説を持ち込む。
2 キルケゴールにお出ましを願う。著作 « Ou bien…ou bien » (あれかこれか)、 « Répétitions » (繰り返し)を引用する。彼の思想を採り上げるのではなく、生き様に焦点を当てフロイトの現実原理の典型例として語る。
3 心理学者Zeigarnik(1901~1988ソ連)の未達成効果。クルト・レヴィン(ドイツゲシュタルト心理学者)の説を心理実験で証明した。
Wikipediaを借りると「人は達成できなかった失敗や中断している事柄のほうを、達成できた成功体験よりも強く覚えているという現象。 ツァイガルニック効果、ゼイガルニク効果とも表記する」。映画予告編を見せると本編を見たくなる、箸を付ける前に皿を下げられると食せばよかったと悔やむーなどの説明に用いられる。未達成の恋愛、振られた相手に未練が残る、これもZeigarnik博士が証明したらしい。
本文、
<Kierckegaard, qui était, comme vous le savez, un humoriste, a bien parlé de la différence du monde païen et du monde de la grâce, que le christianisme introduit. De la capacite à reconnaitre son objet naturel, qui est manifeste chez l’animal, il y a quelque chose dans l’homme. Il y a la capture dans la forme, la saisie dans le jeu, la prise dans le mirage de la vie. C’est à quoi se réfère une pensée théorique, ou théoriale, ou contemplative, ou platonienne, et ce n’est pas pour rien qu’au centre de toute sa théorie de la connaissance, Platon met la réminiscence.>(Séminaire livre II,110頁)
訳:キルケゴールは君たち知っての通りで多感、諧謔の人であり異教世界とキリストがもたらす恩寵世界の隔絶を大いに語った。対象をそのものとして把握する能力、これは動物において顕著なわけだが、人はその能力に何かを加える。その何かとは形態を把握する能力であり、それを流れの中で掴み、生きる蜃気楼に重ね合わせることである。この絡繰りが彼の理論の、あるいは理論の皮をかぶった考えの、思弁的あるいはプラトン的理論を採り入れ基準点を形作っている。プラトンはすべて認識の中心にこの « la réminiscence » 想起を置いた。それはそれなりに意味があるのだ。
ラカン精神分析によるキルケゴール解体 1の了(7月6日)
(本連載投稿は全4回となります、次回は7月8日)
愉悦最上点と緊張下落は行ったり来たりの繰り返し« répétitive »を見せる。この自律系をラカンは « dialectique circulaire »「巡回弁証法」なる言葉で表した。弁証法は含意として「機械的」含みますが、働くのは人体神経系に限るので精神分析家としても抵抗はなし。
一方、現実原理とはどのような運動を見せるのか。これが今回投稿の主題です、ラカンは7章3部106頁の以降112頁までを現実原理の説明に費やしている。
快楽(本来は性的衝動に限定されるが行動欲、広い意味のリビドーとする見方も優勢)を望むも、すぐさまの行動を取らない原理であるとは(精神分析、心理学)で定義される。しかしラカンはこうした解釈に真っ向反対する。この原理を説明する用語 « apprentissage »(修得)の意義の捉え方で、ラカン(およびラカン派とされる集団)と一般精神分析側に対立を認めることできる。
一般側(反ラカン)を主流とすると解釈は;それを教育とする。ラカンが言い換えるとその仕組は« adaptation, par approximation… » 社会規範の採用、あらまし妥協などと説明されるが、これらの意味合いは普通の教育過程です。全く「精神分析的でない」。一方、ラカンが唱える« apprentissage » の仕組みは « トラウマle trauma固定la fixation再侵入la reproduction転移le transfert » と分解される。内省的かつ精神分析学と風合いが似通う仕組みとなっている。証明にMonsieur Gribouilleうっかり氏2度の失敗を挙げている。ここまでが前回投稿、おさらいです。
今回投稿はこの後文(106頁以降)となる。現実原理の作動解説となる。
キルケゴール(1813~1855年デンマークコペンハーゲン)を採り上げるラカンの理由はその学説を紹介するのではなく、彼の生き様と心象風景を解体するためです。写真はネットから
ラカンは自説の証明に3の先人を引き出した。彼らは:
1 プラトン。著作メノンなどで開陳した « réminiscence » 前世の記憶の生得観念説を持ち込む。
2 キルケゴールにお出ましを願う。著作 « Ou bien…ou bien » (あれかこれか)、 « Répétitions » (繰り返し)を引用する。彼の思想を採り上げるのではなく、生き様に焦点を当てフロイトの現実原理の典型例として語る。
3 心理学者Zeigarnik(1901~1988ソ連)の未達成効果。クルト・レヴィン(ドイツゲシュタルト心理学者)の説を心理実験で証明した。
Wikipediaを借りると「人は達成できなかった失敗や中断している事柄のほうを、達成できた成功体験よりも強く覚えているという現象。 ツァイガルニック効果、ゼイガルニク効果とも表記する」。映画予告編を見せると本編を見たくなる、箸を付ける前に皿を下げられると食せばよかったと悔やむーなどの説明に用いられる。未達成の恋愛、振られた相手に未練が残る、これもZeigarnik博士が証明したらしい。
本文、
<Kierckegaard, qui était, comme vous le savez, un humoriste, a bien parlé de la différence du monde païen et du monde de la grâce, que le christianisme introduit. De la capacite à reconnaitre son objet naturel, qui est manifeste chez l’animal, il y a quelque chose dans l’homme. Il y a la capture dans la forme, la saisie dans le jeu, la prise dans le mirage de la vie. C’est à quoi se réfère une pensée théorique, ou théoriale, ou contemplative, ou platonienne, et ce n’est pas pour rien qu’au centre de toute sa théorie de la connaissance, Platon met la réminiscence.>(Séminaire livre II,110頁)
訳:キルケゴールは君たち知っての通りで多感、諧謔の人であり異教世界とキリストがもたらす恩寵世界の隔絶を大いに語った。対象をそのものとして把握する能力、これは動物において顕著なわけだが、人はその能力に何かを加える。その何かとは形態を把握する能力であり、それを流れの中で掴み、生きる蜃気楼に重ね合わせることである。この絡繰りが彼の理論の、あるいは理論の皮をかぶった考えの、思弁的あるいはプラトン的理論を採り入れ基準点を形作っている。プラトンはすべて認識の中心にこの « la réminiscence » 想起を置いた。それはそれなりに意味があるのだ。
ラカン精神分析によるキルケゴール解体 1の了(7月6日)
(本連載投稿は全4回となります、次回は7月8日)