(2017年12月26日投稿)
レヴィストロースは南米大陸原住民の神話を主著「Le cru et le cuit」などで解析した。マトグロッソの有力(であった)bororoをはじめ部族の多くはテーマを共有している。それが自然対文化nature et cultureである。構造神話学ではテーマをスキーム(scheme=元々はカントの用語)としている。ここで語られる自然には「美しい天然」「人の踏み入らない豊かな自然の森」など肯定の意は含まない。自然とは介入、訓練のない野放図、放縦な性状と理解しないとレヴィストロースは読めない(神話と音楽8、11月28日の投稿などで解説している)
南米の部族が抱く自然は、火のない真っ暗世界で「mange cru生肉喰らい」に表象される。さらに「inceste母子姦」「父への無礼」「infanticide子殺し」「人の先祖=豚や鳥=返り」が繰り返される。対するculture文化とは、これらの禁忌を繰り返す自然世界への介入で、火を持ち使うこと「mange cuit調理喰い」に代表される。他にinitiation成人式、死者弔い儀礼、祭礼に纏う服飾、謳う楽曲(神話)であり奏でる楽器である。何故これらが介入となるかは、調理喰いを例にとれば「火のない時代、ある女が毒流し漁で捕れた魚を、薫製保存できないから、全て食ってしまった。女は腹をこわし病気の元を垂れ流した=Le cru et le cuitの引用神話5」。
毒流し漁は一網打尽ならぬ一流し全取りで、豊漁間違いなしだが年に一回しか実行できない。自然のままの女は大喰らいするしか対処できない。しかし文化を持つ男が火と共に介入して、大食らいの慣習を改めさせたとの言い伝えである。成人式とは男子を母系集団から隔離する機能を持つ。男子が母から離れないとは一大事で、incesteの起因となる。一年にも及ぶ式の流れが、男子を叩き上げ母系社会から離脱させる。母と子の閉鎖状況に介入する手段です。
自然は放縦の女社会、底流として淀むふしだらさを誡める文化は男の介入だと神話が伝えています(あくまでbororoの神話です)。
ここで現代の日本、この列島弧に共通する神話スキームを見いだせるのか?確かにそれ認められる。「連続」であると投稿子は問いかけたい。
連続とは継続、継続とは進歩、進歩すれば色々なところが改善され、改良が認められるし、これが人の正しい姿であり世の流れでもあるーこうした考えが列島弧を覆い尽くし、そして今も熱病の如く人に世に、猖獗していると投稿子は考えるのです。
連続に対立する概念は停滞、介入です。連続に異議ありと介入したら人の動きも思考も停滞し、進展進歩から阻害されたら人のお仕舞い。日本人ではなくなってしまう、だからみんなでガンバローが熱病の兆候です。
このschmeme、連続と停滞は、bororo族が主張する自然と文化との類似に驚く。連続とは自然であるし連続を止めるのは介入で停滞する。であれば停滞が文化となるのだが、停滞を文化の意味に捉えようとも分からない。一つの命題としてこれを残します。ここで日本神話のパラダイムに入ろう。
写真:昭和30年代、電化製品の初荷。ネットから借用
投稿子は昭和22年の生まれである。物心付いて以来「もはや戦後ではない=昭和33年の経済白書」「所得倍増=池田内閣のスローガン」「三種の神器=テレビ冷蔵庫洗濯機の電化生活」「神武景気=景気がよければ全てよし」「オリンピックの人と人、大阪万博=乗り遅れては遅い」などの標語に馴染んだ。これらに共通する基本テーマ(scheme)が連続である。戦争で灰燼に帰した日本列島、飢えと渇きに苦しむ一億日本人が夢に描いた明るい未来、連続性を保てば保てばそこにたどり着ける。連続の行き着く先の電化生活とは、うだる夏にも氷水で喉を潤し、テレビを見ながらの夕涼みに冷えたビールの一杯。これは昭和30年代の夢でありました。
夢を見た階層とは市民、農民、さらには小金持ちも後に入り込んだ。農民の夢をサンタグム(連辞が訳だが同列とする)に羅列すると進歩の思想が農協的翻訳として浮かび上がる。それは汎村運動、村外の活動、鬼瓦の豪邸、移動手段の充実、教育など思いに至る。それぞれの同列思想にパラダイム(変移)が進展する。例えば移動手段では自転車リアカーを基点にして、最終はベンツ3リッターセダンに到達した。ここでパラダイムが終焉した。これが5ドアの冷蔵庫、ベンツの発展系にロールスロイスあるいはキャディラックはあり得なかった。
農協パラダイムの終焉 2の了 (次回投稿は29日)
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