蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカンとレヴィストロースの接点 番外 表紙はモンテーニャ

2022年03月25日 | 小説
(2022年3月25日)本書表紙はルネッサンス期パドヴァ派巨匠モンテーニャ(1431~1506年マントヴァ,硬質な線描、彫刻的な人体把握などイタリア・ルネサンスの画家たちのなかでも異色の作風を示す=Wikipedia) の作Le Calvaire(キリストが磔刑となった丘、ゴルゴダともルーブル所蔵)作になるものです。聖書福音書マルコ伝l’Evangile selon Saint Marc, L’ensevelissement刑死から埋葬の事情をあたると、


本書の表紙


<Joseph d’Arimathie, membre notable du Conseil qui attendait lui aussi le Royaume de Dieu, s’en vint hardiment trouver Pilate et demanda le corps de Jésus. Pilate s’étonna qu’il fût déjà mort et, ayant fait appeler le centurion, il lui demanda s’il était déjà mort. Informé par le centurion il octroya le corps à Joseph. Celui-ci, ayant acheté un linceul, descendit Jésus de la croix, l’enveloppa dans le linceul et le déposa dans une tombe qui avait été taille dans le roc>(聖書、エルサレム聖書研究会編、Cerf出版)
訳:アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。ヨセフは亜麻布を買い求めておいた、そこで、イエスをとりおろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。(ネットサイト、マルコによる福音書から、一部改)


本画の全体

全体画をネットから採取した。背景にエルサレム市街、そびえる岩山がLe Calvaire、頂きに至る道はキリストが十字架を背負い登った苦難の坂。中央の石舞台は、背景丘の頂上という設定。左端の洞窟はキリスト遺骸を安置した岩屋となるが、刑場の真横にあったとの記述はない。一幅の画に福音書が記録している受難から刑死の場すべてを描き見せている。
人々を観察しよう。
神の子は死んだ、神の王国は絶たれたと悲しむ人々に対比して、架上キリストを横にして一震えの嘆きを見せない無関心の人々に分かれる。
画右の騎士は茨冠のキリストを見上げる。放心しているかの後ろ様にこの瞬間、この場を覆う異変が見て取れる。中央の盾を構える兵士、軍装から百人隊の中隊長か、やはり見上げる目の向きの緊張振りに落胆が漂う。誰が何を失ったか、彼も気づいたのだ。画の左、嘆きに狂わんばかりの男、風体からして使徒の一人であろうか。それぞれが悲しみを超えた落胆を見せている。
中央の女性たちは更に深い悲しみに沈む、崩れる落ちる憔悴の体を両脇で支えられる老女は聖母マリア、涙垂らす後の女はマグダラのマリアである。
彼ら彼女らの所作、振る舞いには悲しさを越える絶望が滲む。苦しみの刹那に諦めの入り混じり、虚無放心の姿を見ると、見放されたのはキリストではない、人々が神に捨てられたと、これら人々が気づいた。


悲しむ聖母マリア、マグダラのマリア

一方、無関心の人々とは。十字架下でサイコロ賭けに興じる歩卒3人、後景には刑執行も終わり兵営に戻らんとする騎士、兵士たち。画下には槍を手にして自慢気に、誰やらに話しかける兵卒。架下で槍を持つ兵士ならばロンギヌス、それが持つ槍は聖槍「ロンギヌスの槍」である。ヨハネが引き連れた従者の一人に槍を見せびらかし「百人隊長が許しても、儂があの腹に槍を突かなければ降ろせない」と語っている。
磔刑受刑者の死を確認するに降架前、腹を抉る手順が設けられていた。聖書正典には語られていないが外典(ピラト伝など)でロンギヌスがキリストの脇腹を抉って、傷口から白い液体がほとばしったと伝わる。長く身体苦痛を受ける刑者は腹腔にリンパ液を溜める、白濁液のほとばしりは解剖学的に正しい。一般には知られていない身体変化のこの記述をして、キリスト磔刑は事実、その証左とする方もいるとか。
ヨセフの交渉がまとまれば、キリストを架からともかく降ろせる。
しかしそれは一人二人の仕事ではない。釘を抜いたら神の子を落ちるままに、架からドスンと地に投げるなどできはしまい。左の肩を一人が抱える間、右の釘を外して右肩を抱える者が必要。崩れてならぬと胴を背から支える者も。止める釘を抜いたら脚を抱える者。降ろされたキリストを地にて受け取る側にはLinceul屍衣、亜麻布を広げる者、それら作業を指図する者。4~5の者がこの作業で必要だろう。ジョセフはこれら合わせて5人の従者に梯子二丁と屍衣を抱えさせ、Calvaireゴルゴダの丘に連れてきた。
中央の本書表紙を飾る3人の男。



羽飾り兜の男が百人隊長(centurion)右に髭を蓄える青服はヨセフ、その奥に顔だけ見えるピラト。福音書の筋では早すぎる処刑を疑うピラトが隊長を呼び出したとあるが、画ではピラトが刑場に出向いている。ヨセフは布を広げている。これが聖骸を包む布の解釈が正道だが、何やら気配がおかしい。布は亜麻に見えない、薄い赤色と照りからして上級毛織のようだ。ヨセフの手付きは贈り物を差し出すかのよう、隊長は端を握り「これを儂に呉れるのだな」確認を入れる口元に見える。遺骸を買う交渉である。ピラトの訝しげな目つきにも納得が行く(彼にしてもお礼をたっぷりもらっている、ヨセフが隊長に差し出す贈り物の品定めをしている)と読んだのだが。
架上のキリスト、その周囲の人々の動き。放心、悲しみ、自慢、無関心、そして金銭交渉。この風景こそ神が見捨てた地上である。しかし全体画に戻り上を見よう。空は青い、白い雲がたなびく。これはCieuxである(空cielの複数形、神の居場所、天国の意味)。遥かの高み、そこには到達できないけれど神の国が見えているのだ。
ラカンは敬虔な耶蘇教徒と知る。当著作の表紙をLe Calvaireで飾った背景に、何がしかの寓意が潜むと勘ぐり草稿を打ち始めたが、能わず作品紹介にとどまった。了
(次回は3月28日 神が裏口から忍び込むに戻ります)


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