蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 中

2024年11月17日 | 小説

(2024年11月17日)前文: 9月14日にGooblog 投稿した「精神現象学の紹介」の初回シリーズの最後半部を大きく改訂し、再投稿を試みている。改訂内容は前回(上)で報告している通り「1悟性、知、それぞれに概念と真理の拮抗、弁証法が発動する」。本稿でこの趣旨が更に展開する。精神の単性要素(知、悟性)それぞれの内で弁証法が展開する。悟性には「一つの何か」が備わり、内の弁証過程に湧き出て、精神外のモノ真理を掴む。これを決定力déterminabilitéと後に命名する。精神が外部の真理に肉薄する過程には内なる弁証法と、現象の野での知と悟性の拮抗が演じられていた(2段ロケット)。

前回上の最終文を一部紹介:
「悟性が対象を検分して(彼が知る)知とこの対象は一致しない。対象もその事実に抗わないとする。それはその検査に持ち出した基準が、検査流れにおいてもはや立場を失しなって…」節目検査での不整合を記す文です。

以下本文:脚注Hyppolite : * Un savoir déterminé de la conscience constitue une totalité concrète ; si l'examen montre une disparité entre les deux moments, les deux moments changent en même temps, et la conscience, qui a fait une expérience, est conduite à une autre forme de savoir.
悟性から判断を受ける知は、確固とした総体を形成している。検査により前後節目の間に不整合が発覚すると、2の節目は同時に変化を見せ、悟性はこの経験を体現するのだから、己の知のあり様を変える。

部族民:脚注Hyppoliteの「確固とした総体」の意味は知が内部に弁証法の仕組みを所有するーと理解する。本章後半には基準、概念、実質に新たな考えを導入している。言ってみればそれは2段構えの弁証法を導くためと(部族民は)解釈する。Hyppoliteがそれを「確固…」と言い切る。現象を取り巻く思考の過程に複雑さが増した。
この2段構えとは「モノが思想を宿す」「モノ思想を精神が探り真実に至る」。この説明は現象の野での弁証法で、ここが初段=前回4_2。さらに「現象の知=Hyppolite」および悟性は、それ自身に主体と客体の対立を抱える。(知の)蓋然certitudeと真実vérité=前回 、(悟性の)内に抱える基準、外世界に存在する対象の概念。Hyppoliteがその内部性状を「確固」と指摘する。この確固思考の発露を判断力déterminabilitéとした。

« Ce mouvement dialectique que la conscience exerce en elle-même, en son savoir aussi bien qu'en son objet, en tant que devant elle le nouvel objet vrai en jaillit, est proprement ce qu'on nomme expérience* » (76頁)
悟性が自身としてかく活動し、あわせて知も対象も活動し変化する。悟性の前に新たな真実対象が、これら活動の中から湧き出る。これを経験と言う.
部族民:確固とした節目を経験する知と悟性、決断に導かれ外部世界を探査する悟性。もはや理性が入り込む余地はない(nous n'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche=理性は思考を持ち込めない=前回4_2の句を裏付ける) 
追補:検査は必ず不整合に陥る。しかし知は確固とした総体(内部の弁証法)を持つから総体ごと変遷する(知内部では蓋然と真理、この対峙を経て概念を新たにする)。この変因律は悟性にあっても同じ。両者内部での弁証法は、精神現象にて2段目の弁証法が発起され、悟性が決断をもって裁定する。


弁証法は現象の野で進展する、しかし知と悟性の内部にも弁証法の過程(対立構造)は付帯されている。ヘーゲルが明かす2段ロケット弁証法。


Hyppolite:*L'expérience et la dialectique se trouvent identifiées. ここに弁証法と経験が特定できた。
結語(12頁の導入章の最終頁。多くはこれまでの引用で語られているが、ヘーゲル先生は念をいれる) « L'expérience que la conscience fait de soi ne peut, selon le concept de l 'expérience même, comprendre rien de moins en elle que le système total de la conscience ou le royaume total de la vérité de l’esprit ; cependant, les moments de la vérité s'y présentent dans cette déterminabilité particulière : ils ne sont pas des moments abstraits et purs, mais ils sont comme ils sont pour la conscience, ou comme cette conscience surgit dans son rapport à eux. C'est pourquoi les moments du tout sont des figures de la conscience* » (77頁)
悟性自からが体験する「経験」は、経験の概念の仕組みにより、悟性の体系、あるいは精神真理の王国を含まずに留まるものではない。個別的決定を実践する段階で、いくつもの真実の節目が現れる。それらは抽象的、単に純粋のみの節目ではない。悟性に訴えかけるかの節目、あるいは節目との連携でこの悟性が湧き上がるかとも思える節目である。これをして節目の流れの全ては、悟性の形態といえる。
(含まずに留まらないは2重否定、含み留まるがその意、蛇足ながら)

Hyppolite:*Distinction de la Phénoménologie et de la Logique.現象学の論理学からの区別。(精神活動の中心に悟性を据える。その悟性は「論理」の下僕ではない、弁証法の律則で動く。デカルト、カントなど哲学先人との差を指摘している)
部族民:外部真理を判定する能力déterminabilité、個別の節目でそれを発揮する機会はparticulière個別判断。悟性が節目の独自にあわせparticulière個別判断を実行し、節目の真理が体現される。弁証法発展では悟性が主導権を握る。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 中の了(11月17日)

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