森まさこ法務大臣は「死刑を廃止することは適当ではない」との考えを示した。容認に至った理由には「やむを得ない」と回答する人が80.8%をしめ、「廃止すべき」9.0%を大幅に上回った調査結果を上げている(内閣府調査、2020年1月24日、サンケイ新聞ネットから)。無回答の9%は事実上の容認なので、国民90%が死刑の存続を求めている。
この話題をとりあげるに「何故それほど高い比率」で死刑制度の存続を認めるかを考えたい。
なお、AかBか、こうした論評を広げるには己の立場を明確にする要がある。私自身は90%の中に組み入るを認める。ある特定集団、例えば県の弁護士会、国際人権団体の参加者団などが死刑反対の論を上げているが、そうした立場にはないごく普通の日本人である。
罪の在りかと罰の下し様が彼我で逆転している。
彼とは死刑制度反対を声高に表明している国際機関である。彼らの宗教、信条の基盤はユダヤ・キリスト教である。昨年末の執行(12月26日)の直後、フランス駐日大使(ローランピック)は「不公平、非人道かつ抑止効果がない」を理由に日本政府を非難した。(フランス声明は執行の度に配達されるようだ)。
大使が非難のために取り上げた理由については国内からの反論が根強い。
「公平を期すなら残虐犯人にも死刑を」(昨年末の執行された中国人犯人は一家4人を残虐な手口で快楽殺人)「非人道は犯人の仕業で、死刑はそれに見合う懲罰である」など。
この論争は決して埋まらない。相手側を納得させる倫理をいずれ側も持たない。突き詰めれば論理と倫理を越えた精神の底に彼我は共通性を持たないからである。
先の指摘、罪と罰の認識が彼我で逆転、これを論じよう;
西洋の意識形成にはギリシャの思考、ユダヤ・キリスト教の教条が大きく影響を及ぼした。小筆の意見ではない、学識多くが伝えているから事実と思う。その思想では罪とは何処にあろうか。外界である。
人はそもそも純真無垢であると彼らは信じる。
ミロのヴィーナス、サマトラケのニケなど彫刻を前にするとギリシャ人がいかに人の生きる姿を礼賛していたかを知る。生きる姿こそ正しいとする証である。
ユダヤには裸体礼賛のおおらかさは欠けるけれど、人そもそもの根性は無垢であるとしている。アダムがリンゴを囓った横にそそのかした悪魔が嘲り嗤う。イスカリオテのユダは悪魔が差し出す金に目がくらんでイエスを売った。罪を犯すとは、悪が跋扈する外部からの影響を防ぎきれなかったためだ。ゆえに罪の源は外にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6a/25/70268077f45fa4dfac7f5a354c94465c_s.jpg)
写真:イランの母は殺害者に平手打ちして、死刑執行を止めた。拡大は下に(ネットから採取)
人が犯すけれど由来は悪魔、その罪を神が裁く。
キリスト教は教義の根底に「最後の審判」をおいた。死刑に該当する罪だとしても、罪人が教徒である限り死刑は執行できない。封建時代、密猟領民にも領主は死をもって罰しない。悪行とは無許可伐採、狩猟。これらの罪の戒めは土牢。土牢とは領主館の地下、窓無し石囲いの牢屋で死ぬまで閉じこめられる。善悪の裁断は神にまかせて、罪人を生きる限り収監した。なお土牢で人はすぐに死ぬ、太陽光から隔離される人は弱いのだ。
ヨーロッパではかく、死刑を否定する歴史を持つが、一歩、罪人がキリスト教からはずれたら、堂々と死刑を実行していた。
異教徒には死刑、残虐な火刑が実行される。カタリ派、異端(ユダヤ改宗者)、魔女、地動説の主唱者にカソリックは迷わず火刑で弾圧した。サルトルの言い回し、l’enfer c’est les autres「悪は他者」(戯曲「出口無し」の台詞だとか)人は外の悪の犠牲となる、この信条を現している。
レヴィストロースはこの意味の正反l’enfer c’est nous-même「悪は自分」なる文句を生み出した。自己に潜む悪の横溢を防げない者が罪を犯すとの意味である。西洋こそサルトルの告げるままだが、南米先住民では悪は我と信じていると彼が主張したのだ。小筆はこれを日本に当てた。
遠くはイザナギイザナミから、内に潜まる罪を神道が教えている。イザナミはモガリ穴の奥で腐乱死体になっていた。内に潜む毒気が主の死により恣に身をむしばむ。死んでもなおの懸想を夢見たイザナギも己の悪を抑えきれなかったから地下に潜った。黄泉からの逃げ帰り、イザナギが身のうちの穢れ祓いを試みた。神道儀礼の縁起である。
日本では罪悪は、己の内の悪を制御できなかったためと考えられている。悪を押さえ込むには日頃の鍛錬、潔斎、修行を重ねるしかない。神主にお祓いを受ける儀礼も有効である。それでも罪悪を犯し、死に価するとなったら。己の命で罪を償う、死刑の自己責任論である。
光市、母子殺人の犯人は18歳であった。3人を越す殺害では未成年でも死刑の実例がある。2人なら無期懲役の判決となるか、弁護士を含めおおかたが極刑は予想していなかった。被害者の夫は残虐な殺し方には死刑をと社会運動に引き上げ、判決は死刑が下された。
イラン、母親による死刑の免罪。刑の執行は被害者近親の同意を必要とする(イランの慣習法らしい)。執行の直前、被害者の母は殺害者を許した。死刑は執行されなかった(2014年イラン北部ウシャハル)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/25/70268077f45fa4dfac7f5a354c94465c.jpg)
両者の行動を比べ、いずれが正か邪かを論じるなどは無意味である。論ずべきは執行に民の倫理が反映されているかである。さらに民の倫理を見比べ、一方は他方より「人道的」などとうそぶくことも無意味である。了
なお部族民通信のホームサイトでは地獄は身のうち1,2,3(2019年7月、10月投稿)にて罪のありかと罰の下し方を論じている。
また、昨日(1月25日)投稿した「書く苦しさ...2」は1と合わせてホームサイトに「完全解は目の前1」として投稿した。WWW.tribesman.netにもご訪問を。
この話題をとりあげるに「何故それほど高い比率」で死刑制度の存続を認めるかを考えたい。
なお、AかBか、こうした論評を広げるには己の立場を明確にする要がある。私自身は90%の中に組み入るを認める。ある特定集団、例えば県の弁護士会、国際人権団体の参加者団などが死刑反対の論を上げているが、そうした立場にはないごく普通の日本人である。
罪の在りかと罰の下し様が彼我で逆転している。
彼とは死刑制度反対を声高に表明している国際機関である。彼らの宗教、信条の基盤はユダヤ・キリスト教である。昨年末の執行(12月26日)の直後、フランス駐日大使(ローランピック)は「不公平、非人道かつ抑止効果がない」を理由に日本政府を非難した。(フランス声明は執行の度に配達されるようだ)。
大使が非難のために取り上げた理由については国内からの反論が根強い。
「公平を期すなら残虐犯人にも死刑を」(昨年末の執行された中国人犯人は一家4人を残虐な手口で快楽殺人)「非人道は犯人の仕業で、死刑はそれに見合う懲罰である」など。
この論争は決して埋まらない。相手側を納得させる倫理をいずれ側も持たない。突き詰めれば論理と倫理を越えた精神の底に彼我は共通性を持たないからである。
先の指摘、罪と罰の認識が彼我で逆転、これを論じよう;
西洋の意識形成にはギリシャの思考、ユダヤ・キリスト教の教条が大きく影響を及ぼした。小筆の意見ではない、学識多くが伝えているから事実と思う。その思想では罪とは何処にあろうか。外界である。
人はそもそも純真無垢であると彼らは信じる。
ミロのヴィーナス、サマトラケのニケなど彫刻を前にするとギリシャ人がいかに人の生きる姿を礼賛していたかを知る。生きる姿こそ正しいとする証である。
ユダヤには裸体礼賛のおおらかさは欠けるけれど、人そもそもの根性は無垢であるとしている。アダムがリンゴを囓った横にそそのかした悪魔が嘲り嗤う。イスカリオテのユダは悪魔が差し出す金に目がくらんでイエスを売った。罪を犯すとは、悪が跋扈する外部からの影響を防ぎきれなかったためだ。ゆえに罪の源は外にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6a/25/70268077f45fa4dfac7f5a354c94465c_s.jpg)
写真:イランの母は殺害者に平手打ちして、死刑執行を止めた。拡大は下に(ネットから採取)
人が犯すけれど由来は悪魔、その罪を神が裁く。
キリスト教は教義の根底に「最後の審判」をおいた。死刑に該当する罪だとしても、罪人が教徒である限り死刑は執行できない。封建時代、密猟領民にも領主は死をもって罰しない。悪行とは無許可伐採、狩猟。これらの罪の戒めは土牢。土牢とは領主館の地下、窓無し石囲いの牢屋で死ぬまで閉じこめられる。善悪の裁断は神にまかせて、罪人を生きる限り収監した。なお土牢で人はすぐに死ぬ、太陽光から隔離される人は弱いのだ。
ヨーロッパではかく、死刑を否定する歴史を持つが、一歩、罪人がキリスト教からはずれたら、堂々と死刑を実行していた。
異教徒には死刑、残虐な火刑が実行される。カタリ派、異端(ユダヤ改宗者)、魔女、地動説の主唱者にカソリックは迷わず火刑で弾圧した。サルトルの言い回し、l’enfer c’est les autres「悪は他者」(戯曲「出口無し」の台詞だとか)人は外の悪の犠牲となる、この信条を現している。
レヴィストロースはこの意味の正反l’enfer c’est nous-même「悪は自分」なる文句を生み出した。自己に潜む悪の横溢を防げない者が罪を犯すとの意味である。西洋こそサルトルの告げるままだが、南米先住民では悪は我と信じていると彼が主張したのだ。小筆はこれを日本に当てた。
遠くはイザナギイザナミから、内に潜まる罪を神道が教えている。イザナミはモガリ穴の奥で腐乱死体になっていた。内に潜む毒気が主の死により恣に身をむしばむ。死んでもなおの懸想を夢見たイザナギも己の悪を抑えきれなかったから地下に潜った。黄泉からの逃げ帰り、イザナギが身のうちの穢れ祓いを試みた。神道儀礼の縁起である。
日本では罪悪は、己の内の悪を制御できなかったためと考えられている。悪を押さえ込むには日頃の鍛錬、潔斎、修行を重ねるしかない。神主にお祓いを受ける儀礼も有効である。それでも罪悪を犯し、死に価するとなったら。己の命で罪を償う、死刑の自己責任論である。
光市、母子殺人の犯人は18歳であった。3人を越す殺害では未成年でも死刑の実例がある。2人なら無期懲役の判決となるか、弁護士を含めおおかたが極刑は予想していなかった。被害者の夫は残虐な殺し方には死刑をと社会運動に引き上げ、判決は死刑が下された。
イラン、母親による死刑の免罪。刑の執行は被害者近親の同意を必要とする(イランの慣習法らしい)。執行の直前、被害者の母は殺害者を許した。死刑は執行されなかった(2014年イラン北部ウシャハル)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/25/70268077f45fa4dfac7f5a354c94465c.jpg)
両者の行動を比べ、いずれが正か邪かを論じるなどは無意味である。論ずべきは執行に民の倫理が反映されているかである。さらに民の倫理を見比べ、一方は他方より「人道的」などとうそぶくことも無意味である。了
なお部族民通信のホームサイトでは地獄は身のうち1,2,3(2019年7月、10月投稿)にて罪のありかと罰の下し方を論じている。
また、昨日(1月25日)投稿した「書く苦しさ...2」は1と合わせてホームサイトに「完全解は目の前1」として投稿した。WWW.tribesman.netにもご訪問を。
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