(2021年2月1日)本朝たはけ2000年 4
1600年の後、文豪と姪との密通を述べる。
大正の世、今となっては旧聞。語る人の口も絶えつつある。古い世代の方であれば「そんな話を聞いた」と思い出すこともあろうか。実態を抉るつもりなどここではないから、「文豪」とだけする。中野好夫の「文豪」伝(現代日本文学館、文藝春秋社の巻頭)からいくつかを借りる。妻の急死を前に、子二人を抱えた男所帯が成り立たない。姪の二人を呼び寄せ家事、育児を任せた。姉の姪は早々と嫁に出て妹が残る。
「人生の苦悩の始まりは青々とした新緑の映える5月」(明治45年1912年、姪の述懐)。過ちは夜毎、月ごと重なるばかり。しかし不倫は二人だけの秘密に固く守られ、(姪)の両親も含めて完全に守られていた。「他人に知られたら大変と、身近の女の方に覚えられせぬか、と気をつかったことでしたか」(姪)。
妊娠で危機は訪れた。男は日本脱出(大正2年1913年)、姪は無事に子を生む(大正3年1914年)。男はパリに滞在し、一次大戦中のパリから「佛蘭西便り」を朝日に寄稿する。後に出版(大正11年1922年)(Wikipediaなどネット調べ)。
佛蘭西便り初版本 大正11年刊 1円30銭也
彼ら心情を詮索すると、
1 作家も姪も行為を「罪」と自覚していない。ことの始まりが「新緑の5月」ならばそれが不倫に陰る道理がない。葉影の煌きもまばゆいまでの密通だったろうに。「責められ悩まされている」はずの苦悩から、男も姪も逃避する気配を全く見せない。出産を機に一旦は別れたけれど、男の帰国後(大正5年1916年)、すぐさま縒りが戻って再び私通の裏戸が抜ける。ここを正しく語れば、縒りなどそもそも捻れていなかった。世間から避難と示し合わせた3年一時を離れていただけ。
2 逃避する男の理由はバレたから。帰国してからは、ほとぼりが冷めたと密通が再び開いて閉じる帳の隙間もない。
3 姪が「苦悩」と感じたのは「世間体」である。世間だれもが許さないだろうとの慮り、守る秘密のしがらみを苦悩と感じている。しかし「罪」ともまして「穢れ」とも、これっぽしも、姪も男も感じていないと。(後に告白語りの「新生」を発表。世間は事実を受け入れ、畏れていた「不倫」糾弾はなかった)
男の姿勢を「偽善」と中野好夫は決めつける。直に本人を知り生き様に接し、姪との経緯にも実体験で気づいていた者ならではの感興であろう。「新生」で海棠の根を冬囲いする描写で「節子(姪の作品名)は岸本の内部に居るばかりでなく、庭の土にもいた」このサワリ、流石に文豪、庭土にも思いを残す心境を伝えていると読むのだけれど、中野は「もっとも嫌な言葉である」切り捨てた。
(心情を自然やモノに託す言い回しで文豪は他作家を寄せ付けない。それほどに「多感」と言えるしこの機微が作品を、暗さに、色づけている。情けの前に風紀を据える中野には、多感も機微も、これが偽善と切り捨てる勇気あるいは蛮勇か、の持ち主かもしれぬ)
偽善の意味を探ると、男は欲情に駆られ幼い身内の体をむさぼり、しかし作品では慕情に昇華させた。その位相転換を偽善とした。中野の蛮勇をこう読んだ。
はたしてそうだろうか。
近親婚(たはけ)のあらましをまとめる中で小筆は、ある人物との似通いに気づき身が震えた。軽皇子である。身分は違え、境遇とて近似はない。歳の差、関係の有様にも共通は見られない。1600年を隔てもしかし、二人は2の接点で重なる。1はともに日本人、もう一点が男の執着、相方を求める執拗さである。
日本人については後回しにして執着を語る。
男は海棠の根土に去った姪を思い返し、生身が覚える柔肌の触りを己の追憶と噛みしめる。これは情念。太古、貴子若者は鏡に願をかけ姫を浮き上がらせた。共に過ごした褥と家の思い出を燃え上がらせて入水した。これも情。
息が曇るより遠くに行ってくれるな、唇が肌に触れるまでに戻ってくれと乞い、身と身の近さに高震えし、ふれあう生の身生肌の記憶をかみしめて、もはや独り。それでもなおも
姫のぬくもりに皇子の情念が救いを求めた。
男にも求める救いの情けは同じ、救いを偽善と突き放せるのか。
どんな文で男が救いを綴っていたか。佛蘭西便りにそれを探るとこんな一節に出会った、
「小娘達が私に歌を聞かせるほど親しくなりました。パトワ(訛り=引用注)と称えるリモオジュの方言でできた里(人偏がつく)歌の一節をそれらのあどけない口唇から聞いたとき、思わず涙が迫りました」(87頁)
歌を一つ聞いて男が泣いたとは。大仰にすぎるこの反応を解く鍵は「パトワ、口唇」からこぼれる歌にある。姪を思い出したのだ。
姪と男は同郷育ち、しかし男は早くから東京に出て教育を受け、言葉も東京弁に染まっていた。時たまの帰郷に係累らと会えば、姪との接触はあったしその口唇からおおらかに発せられる地の方言も聞いていたはずだ。
鏡に写った姫の面影を皇子が抱いた、リモージュ訛りの少女の歌を聞いて男が涙した。感動するという精神原理が同じく働いた。
(2021年2月1日)本朝たはけ2000年 4の了
追:別の作品(破戒、夜明け…)などを読むと江戸末明治期の会話が方言のまま書き留められる。女性が「俺」と自称しているし「それだずら」、「それ」の強調「それだよ」であるが、などがおおらかに喋られていた。姪が育った明治末期でも状況は変わらずとして、訛りを発するリモージュ少女の唇が、男の涙を誘った次第を探った。
1600年の後、文豪と姪との密通を述べる。
大正の世、今となっては旧聞。語る人の口も絶えつつある。古い世代の方であれば「そんな話を聞いた」と思い出すこともあろうか。実態を抉るつもりなどここではないから、「文豪」とだけする。中野好夫の「文豪」伝(現代日本文学館、文藝春秋社の巻頭)からいくつかを借りる。妻の急死を前に、子二人を抱えた男所帯が成り立たない。姪の二人を呼び寄せ家事、育児を任せた。姉の姪は早々と嫁に出て妹が残る。
「人生の苦悩の始まりは青々とした新緑の映える5月」(明治45年1912年、姪の述懐)。過ちは夜毎、月ごと重なるばかり。しかし不倫は二人だけの秘密に固く守られ、(姪)の両親も含めて完全に守られていた。「他人に知られたら大変と、身近の女の方に覚えられせぬか、と気をつかったことでしたか」(姪)。
妊娠で危機は訪れた。男は日本脱出(大正2年1913年)、姪は無事に子を生む(大正3年1914年)。男はパリに滞在し、一次大戦中のパリから「佛蘭西便り」を朝日に寄稿する。後に出版(大正11年1922年)(Wikipediaなどネット調べ)。
佛蘭西便り初版本 大正11年刊 1円30銭也
彼ら心情を詮索すると、
1 作家も姪も行為を「罪」と自覚していない。ことの始まりが「新緑の5月」ならばそれが不倫に陰る道理がない。葉影の煌きもまばゆいまでの密通だったろうに。「責められ悩まされている」はずの苦悩から、男も姪も逃避する気配を全く見せない。出産を機に一旦は別れたけれど、男の帰国後(大正5年1916年)、すぐさま縒りが戻って再び私通の裏戸が抜ける。ここを正しく語れば、縒りなどそもそも捻れていなかった。世間から避難と示し合わせた3年一時を離れていただけ。
2 逃避する男の理由はバレたから。帰国してからは、ほとぼりが冷めたと密通が再び開いて閉じる帳の隙間もない。
3 姪が「苦悩」と感じたのは「世間体」である。世間だれもが許さないだろうとの慮り、守る秘密のしがらみを苦悩と感じている。しかし「罪」ともまして「穢れ」とも、これっぽしも、姪も男も感じていないと。(後に告白語りの「新生」を発表。世間は事実を受け入れ、畏れていた「不倫」糾弾はなかった)
男の姿勢を「偽善」と中野好夫は決めつける。直に本人を知り生き様に接し、姪との経緯にも実体験で気づいていた者ならではの感興であろう。「新生」で海棠の根を冬囲いする描写で「節子(姪の作品名)は岸本の内部に居るばかりでなく、庭の土にもいた」このサワリ、流石に文豪、庭土にも思いを残す心境を伝えていると読むのだけれど、中野は「もっとも嫌な言葉である」切り捨てた。
(心情を自然やモノに託す言い回しで文豪は他作家を寄せ付けない。それほどに「多感」と言えるしこの機微が作品を、暗さに、色づけている。情けの前に風紀を据える中野には、多感も機微も、これが偽善と切り捨てる勇気あるいは蛮勇か、の持ち主かもしれぬ)
偽善の意味を探ると、男は欲情に駆られ幼い身内の体をむさぼり、しかし作品では慕情に昇華させた。その位相転換を偽善とした。中野の蛮勇をこう読んだ。
はたしてそうだろうか。
近親婚(たはけ)のあらましをまとめる中で小筆は、ある人物との似通いに気づき身が震えた。軽皇子である。身分は違え、境遇とて近似はない。歳の差、関係の有様にも共通は見られない。1600年を隔てもしかし、二人は2の接点で重なる。1はともに日本人、もう一点が男の執着、相方を求める執拗さである。
日本人については後回しにして執着を語る。
男は海棠の根土に去った姪を思い返し、生身が覚える柔肌の触りを己の追憶と噛みしめる。これは情念。太古、貴子若者は鏡に願をかけ姫を浮き上がらせた。共に過ごした褥と家の思い出を燃え上がらせて入水した。これも情。
息が曇るより遠くに行ってくれるな、唇が肌に触れるまでに戻ってくれと乞い、身と身の近さに高震えし、ふれあう生の身生肌の記憶をかみしめて、もはや独り。それでもなおも
姫のぬくもりに皇子の情念が救いを求めた。
男にも求める救いの情けは同じ、救いを偽善と突き放せるのか。
どんな文で男が救いを綴っていたか。佛蘭西便りにそれを探るとこんな一節に出会った、
「小娘達が私に歌を聞かせるほど親しくなりました。パトワ(訛り=引用注)と称えるリモオジュの方言でできた里(人偏がつく)歌の一節をそれらのあどけない口唇から聞いたとき、思わず涙が迫りました」(87頁)
歌を一つ聞いて男が泣いたとは。大仰にすぎるこの反応を解く鍵は「パトワ、口唇」からこぼれる歌にある。姪を思い出したのだ。
姪と男は同郷育ち、しかし男は早くから東京に出て教育を受け、言葉も東京弁に染まっていた。時たまの帰郷に係累らと会えば、姪との接触はあったしその口唇からおおらかに発せられる地の方言も聞いていたはずだ。
鏡に写った姫の面影を皇子が抱いた、リモージュ訛りの少女の歌を聞いて男が涙した。感動するという精神原理が同じく働いた。
(2021年2月1日)本朝たはけ2000年 4の了
追:別の作品(破戒、夜明け…)などを読むと江戸末明治期の会話が方言のまま書き留められる。女性が「俺」と自称しているし「それだずら」、「それ」の強調「それだよ」であるが、などがおおらかに喋られていた。姪が育った明治末期でも状況は変わらずとして、訛りを発するリモージュ少女の唇が、男の涙を誘った次第を探った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます