蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

…教えるむなしさ…(読み切り)

2020年01月03日 | 小説
令和2年、正月3日。昨年31日から引き続き天気は快晴、夜と朝は冷えるが日中は暖かい。正月らしさに恵まれた天候ならば、肩のこらない話の幾行かを、

>私の心に浮かんだのは…読む楽しさ、書く苦しさ…<

1日夜にその書を開けて(筆者には申し訳ないが拾い読みした後書きに、この句に当たった。書は「絢爛たる悲惨」徳永恂著、作品社、2015年の出版。
徳永氏の経歴を後付けでたどると大学卒業の後、幾つかの大学で教鞭をとった。定年を迎え(20世紀も終わろうとする年に70の歳を迎えたと前書きがあったので、現在は90歳代となろうか)、50年の教壇生活を振り返る心境である。
上に続く言葉は;
「…教えるむなしさ…」
これに引きつけられた。
本年、初めてであった名言を自分なりに解釈したいが;

小筆は教えた経験がない。
あえてそれを「教えた」とするならば、ある教育機関で下働きをした。仕事は教材の配布説明、調整(昨今は黒板に書くなどでは済まないから機器を揃える)、偉い方(正しく教える人)の授業に入る前の「おさらい」。こうした根本整備の仕事から始めて教壇に立つ順位、その(観念的)高さの位置を登る算段を経て、偉くなるのかも知れないが、私にはそうした社会の仕掛けが向いていないと知り、逃げ出した。以来、風吹くや無職の里のわび住まい、こんな話はどうでもよいから「…むなしさ」を語ろう。

教師は常に100を教える。
100と教えて200を覚える逆転を「出藍の誉れ」と「生徒」を褒める。教師は何を感じるか。教師冥利に尽きるか、「してやられた~」生徒に嫉妬するか。50しか理解しなければ頑張れよと励ましていればこの生徒、70~80に達する筈だ、それまでは「歯がゆい」となるか。
では100を教えて10しか返らない。そんな生徒に何を教師は思うのか。「じれったい」、それ以上の空虚感だろうか。すると「クッソたれ~」とヤケクソ気分か。
反応が実数である限りむなしさを感じない。たとえ2にしても1でも、いらだっても教えた成果は残る。それなら「むなしさ」を感じるまでには行かない。それを感じてしまうとは、反応がないからである。100教えても0。高すぎる敷居のせいかと考え直して50しか教えなくとも、0の反応しか戻ってこない。こんな50年だったらむなしさを覚えるであろう。

この名言、
>読む楽しさ、書く苦しさ、教えるむなしさ<は氏の定年退職講演会の壇上でふと「心に浮かんだ」言い回しであった。聴衆には弟子筋、OB、学生で400の椅子がすべてうまっていたとか。「むなしさ」に言及した会場の反応は如何に、本書を開いてください。
なお徳永氏の写真を探したがネット上には見当たらないので、以下「追」を宣伝の替わりにしたためた。

追:ホームサイト(WWW.tribesman.asia)を開設したが一向に訪問数が伸びない。ブログでおおよその情報が得られているから、サイトにまで行き着く要はないと皆様思っているのか。小筆の感興たるや、今のところ若干ながら実数がでているから「歯がゆい」で踏ん張っている。アクセス数をチェックしていて気づいたのだが、経済指標は時折マイナスをはじき出して、気が気でないが、訪問の数字は絶対にマイナスにはならない、その点で政党支持率とにている。部族民ホームサイトは「本日のアクセス3~4」で持ちこたえる。たとえセロと落ちてもマイナス1は出てこないと気づいた。この当たりは弱小野党の支持率にかなり近い。それ故に「むなしく」などはない。

サイトにはサイトらしき情報もあると、年の初めだし、宣伝しておく。
例えば;

毛沢東神話の絡繰りを図式化した。ブログにはまだ説明を入れていないが、部族民通信サイトでは毛沢東神話1にて解説を入れている。毛沢東が紅衛兵になってついでに神となった。


これが拡大写真です。毛沢東神話の絡繰りは明日以降に続く。



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