塔山水図鐔 (鐔の歴史)


塔山水図鐔 山城國伏見住金家
鉄地を薄手の変り形に造り込み、耳際を打返耳に仕立て、地には鎚の痕跡を巧みに残して景色の一部とし、高彫の一部が同じ鉄地による象嵌、ごくわずかに金銀の象嵌を施している。染みの付いた古紙に描かれている墨絵の如き枯れた風合い、金家独特の風情を漂わせる作である。94ミリ。
金家の活躍時代は、銘文にある伏見という城下町の発展に関わりがあり、伏見城の建造された文禄元年より遡ることなく、伏見城の取り壊された元和五年より降ることはないとする見方がある。伏見城の建造される以前の伏見は荒廃した街道筋であったにすぎず、名工がここに工房を構えたとは考えられないとみているのだが、伏見は奈良と京を結ぶ街道筋で、宇治から京へ向かう入り口にも当たり、また宇治川あるいは桂川を経て西に通じているなど、言わば交通の要所であり、人の住まない地であったろうか、疑問である。しかも、金家の作鐔した時代に、現在考えられているほどに金家は超のつく名工として認識されていたのであろうか、あるいはその自覚があったのであろうか。その点が曖昧なままの、単純に銘文からの判断である。
もう一つ、具体的年代研究された例が、金家の鐔に描かれているような飛脚の起こりが元和三年であるという点からの推定。即ち、大坂の商人が江戸とを結んだ飛脚制度の発足以降ということになり、即ち金家の活躍期は江戸時代初期ということになる。これも、飛脚という制度が定まるということは、それ以前にすでに飛脚があり、規制が必要な程度に利用されていたから制度化されたとも考えられる。このように考えれば、金家の活躍時代は少し上がろう。未だ未定といわざるを得ない。


塔山水図鐔 山城國伏見住金家
鉄地を薄手の変り形に造り込み、耳際を打返耳に仕立て、地には鎚の痕跡を巧みに残して景色の一部とし、高彫の一部が同じ鉄地による象嵌、ごくわずかに金銀の象嵌を施している。染みの付いた古紙に描かれている墨絵の如き枯れた風合い、金家独特の風情を漂わせる作である。94ミリ。
金家の活躍時代は、銘文にある伏見という城下町の発展に関わりがあり、伏見城の建造された文禄元年より遡ることなく、伏見城の取り壊された元和五年より降ることはないとする見方がある。伏見城の建造される以前の伏見は荒廃した街道筋であったにすぎず、名工がここに工房を構えたとは考えられないとみているのだが、伏見は奈良と京を結ぶ街道筋で、宇治から京へ向かう入り口にも当たり、また宇治川あるいは桂川を経て西に通じているなど、言わば交通の要所であり、人の住まない地であったろうか、疑問である。しかも、金家の作鐔した時代に、現在考えられているほどに金家は超のつく名工として認識されていたのであろうか、あるいはその自覚があったのであろうか。その点が曖昧なままの、単純に銘文からの判断である。
もう一つ、具体的年代研究された例が、金家の鐔に描かれているような飛脚の起こりが元和三年であるという点からの推定。即ち、大坂の商人が江戸とを結んだ飛脚制度の発足以降ということになり、即ち金家の活躍期は江戸時代初期ということになる。これも、飛脚という制度が定まるということは、それ以前にすでに飛脚があり、規制が必要な程度に利用されていたから制度化されたとも考えられる。このように考えれば、金家の活躍時代は少し上がろう。未だ未定といわざるを得ない。