11日。7時30分頃。起床。NHK「おはようにっぽん」のチャンネル。
前日、店を出たのが22時15分頃。普段は、遅くの起床なのですが、この日は案外早く起きました。
中学を卒業したばかりの年下は休み。高校入学の準備をしなくてはならない時期です。
入学許可を頂いたのが2月でございましたので、本人至ってのんびり過ごしております。
家内も休み。シティラピッド君は、今日は夜勤ではありません。
8時。「おひさま」の放映。
家内が出かけます。
「親父、自転車いいぞお。親父も持ってくれば、ランドナー」
「塩竈からか?車で運ぶか?」
「ツーリング行こうよ」
「まだ、お前には負けない」
「んじゃ、ちょっくら乗ってくる」
彼の愛車は「トレック。ロードバイク」。
ヘルメットを被り(昨年の事故から絶対着装!)グラブをはめて・・。
「恰好だけは、いっちょ前だな」
と、酔漢の言葉を聞かないうちに出かけて行きました。
「昼前には戻るから、江の島までかな?」と。
「さぁて、『くだまき』でも語ろうか」とPCに向かいました。
その時の「くだまき」はこうでした。
「親父殿、与那嶺さんがお亡くなりになりました。」2011-03-11 10:29:02 | 野球の話
「イチロー?与那嶺のデビューにはかなわねぇっちゃ」
これは、親父の言葉。
ジャイアンツ贔屓だった親父は、与那嶺選手が、ことのほか好きだったようでした。
その与那嶺さんがお亡くなりなったばかりでした。
親父との会話を「くだまき」で語った訳です。
「だれ、おめぇ。1イニング3盗塁だど。おめぇ、イチローだってやんねぇべ」
「近代野球じゃ不可能だと思うよ」
「違う、度胸がねぇだけだっちゃ」
コメントを頂戴しておりますが、正にそのところへの疑問。
内野安打で出塁。その後、二盗、三盗、本盗(ホームスチール)をやり遂げております。
捕手のブロック技術が今程ではないとう事を差し引いても、これは偉大であり、今後見る事の出来ないプレーだとも思うのです。
そんな事を思い出しながら、「くだまき」を更新しました。
時間は上記、10時29分に投稿アイコンをクリックしております。
11日。日記。
10時47分。実家、母より着信。
「父法要案内状を先ほど、塩竈郵便局(本塩釜駅前)にて、投函した」と言う。
いつもなら午後に買い物に出かけるのに、今日は早い行動であった。
珍しい。父のこと故、母も急いだのであろうか。
「さっきねぇ、送ったわよ」
「はえぇんでねぇか?」
「午後、雪かもしれないって・・お父さんの事だから・・」
母との会話はおおよそこんな感じであった。
11時。年下帰宅。
「どこまで行ったんだ?」
「その辺回ってた」
「調子はどうなんだ?」
「絶好調!」
「親父、一番印象に残ったルートは?どこ?」
「じゃあ、見てみるか」
という事で、一番お気に入りだった、国道45号線を北上した、ツーリングの話しをいたしました。
「グーグルで見てみるか」
グーグルアースにアクセスしました。
塩竈から国道45号線を北上する上空写真をPCで写しながら、その景色を案内いたしております。
「塩竈から、R45を北上するだろ。松島基地がここだ、この辺りは遮蔽物がないから、海風が強い。この平坦な道で、ピッチを上げると、気仙沼までたどり着けない」
「どうして?」
「三陸特有の地形になるからな、アップダウンが半端じゃない」
「小さな峠があるだろ。(道をたどりながら・・)ここを登り切って、標高差約300mを一気に下る。気仙沼の市街地に入る。景色がよさそうな箇所が多々あるが、これに寄り道していると、大変な目に合う。R45を外れると、途端に、登り。それも急な道ばかりだ」
「なるほど、山ばかりだな、回りは」
「ここから、牡鹿半島の付け根を回って、志津川へ。観洋までもきつい」
「親父はどこまで一気にいったんだ?」
「大船渡まで。流石に計画が甘かった。途中、海がきれいだろうなんて、とんでもない。堤防が高い地域だから、海が見えない。丁度、壁を見ながら走っている感じだ」
「大船渡から釜石。釜石から田老。田老から譜代。そして、田老に少し下って、北上山地を横断するように走って」
「この峠も標高ありそうだな」
「岩同湖(人工)を越えて、ここの白樺林がきれいだった。岩泉へ行って龍泉洞に行って、そこから輪行で汽車で塩竈に戻った」
「すげぇなぁ。親父、何歳の頃?」
「俺が、17歳の夏休みだ」
「俺、とても根性がない」
地震発生の数時間前の記憶です。
何故か、国道45号線を走った事を息子に話していたのです。それも、航空写真を見ながら。
三陸の海を肌で感じた時間でした。
とても、懐かしく思いながら、その時々、それぞれの風景を息子に話しておりました。
「田老の堤防は、ビルだぞ!ビル!もう城壁の中に町があるような、そんな感じだ」
こんな話しもしておりました。
昼過ぎ、昼食。
13時過ぎ、家内は読書とアイロンがけ。
酔漢は昼寝を決め込みました。
「俺また、出かける。親父の話し聞いていたら、また自転車にまたがりたくなった!」
「きをつけるのよ!」
家内の声が寝室に聞こえてきました。
14時32分。携帯着信。メール。丹治さんから。
原文抜粋。
入試の話に投稿しました。ご確認下さい。
書きたいことがあまりにも多く、一回で、書くと本文よりも長くなってしまいそうです。
何回かに分けて投稿します。
なお、紹介したい本文とは、手塚正己著の「軍艦武蔵」(新潮文庫・上下)です。
一昨年の発行ですが、それ以前に発行された本の文庫版。
一冊七百ページと大部な本で、読み応えがあります。まだ下巻の三分の一ほど読んだのみですが、
気づいた点は以下の通りです。
上巻三分の一ほどで浜風の各海戦における沈没艦の乗員救助の実績を紹介。
半端な人数ではない。
上巻最後近くで、シブヤン海戦で主砲方位盤が旋回不能になった理由を考察。
主砲発砲原因説を否定(公試の際は無事だった)。
佐藤太郎著「戦艦武蔵」では憎まれ役だった加藤副長の名誉を回復している。
また主計科、医務科、機関科、内務科など艦の内部の描写に詳しいのも特徴です。
天一號作戦の大和での酔漢君(原文は本名)のお爺様の配置もかくやと思わせるものがありました。
個人の手記では、基本的に著者の配置を中心とした記述にならざるをえません。
生存者に聴き取りを重ね記録を丹念に調べる手堅さは辺見じゅんの「男たちの大和」に通じるものがあります。
これは、やはり作家や、研究者の仕事ですね。
出撃前の外舷塗装にも触れてます。(中略)
酔漢君「いつかレイテを映画に撮りたい」って言ってましたね。
この本、その映画のシナリオを作るにはピッタリだと思いますよ。
「携帯で長文。何してんだべ!」略の部分も相当な字数です。
先週会ったとき、今週の予定は何も話していなかったのでした。
研究室も休みで暇なんだろうか。(研究室で暇は失礼なのですが・・)
丹治さんはどこかに行っているんだろうか。
そんな事を思いながら、布団にくるまりました。
14時47分。←部屋のデジタル時計を確認した時刻。
「地震!」家内の声。
布団より飛び起きる。
縦揺れ。
「お前、茶箪笥から離れろ!」と言いつつ、洋服箪笥を押さえている自分。
横揺れに変化。
「お前、トイレ前。廊下に出ろ」と叫ぶ。
ふと家内を見ると茶箪笥を押さえている。
横揺れが部屋縦方向なので、案外家具は安定している。
「また、宮城じゃないだろうな!」言葉が自然に出た。
電気は幸いついていた。
まだ揺れている。
少し収まったかに思えた瞬間。ぐわぁぁぁんと物凄い横揺れ。
「ダメだ!廊下!」
波打つ部屋の床を這って廊下へ。
少し収まる。
「シティラピッドは?」
「事務所内だったら、大丈夫かと思う」
テレビをつける。
その途端、余震か!
横揺れ。
字幕「宮城震度七。津波警報発令」
「塩竈へ。電話。無理だけどかけてみて」
家内電話するも繋がらず。
14時50分。PCへ向かう。
その途端、携帯へ着信。
14時51分。携帯メール着信。丹治さんより。
内容。原文抜粋。
「ミニ同窓会」(題)
忘れてました。○○さん(原文本名)の近所にいる酔漢君(原文本名)の同期は、旧姓××さんというそうです。
ゴールデンウィークの八幡平ですが、五から八の間に設定すれば、酔漢君の帰塩にとはぶつからないでしょうか。
揺れている最中なのに!なんだ?
と思いつつ、丹治さんが頻繁にメールできる環境にいることが推察できます。
ですが、地震発生時刻の前に作成したメールですので、これだけタイムラグが発生していたわけです。
日記、抜粋。
まずは、どんな手段でも安否を知らせねばなるまい。
ブログの更新を決断した。
宮城の情報も入りやすいかもしれない。
15時15分。本日、二度目。更新。
一同無事であるか
2011-03-11 15:15:28 | 東日本大震災
一同無事であるか。
藤沢も今!揺れています!
無事であることを、ただひたすら願っています!
酔漢。
「年下は?」
「連絡不能だよ」と家内。
「あいつの事だ。心配ない」
「バルコニーには出るな!余震も大きいはずだ!窓越しに火事は見えるか!」
「今のところ煙はでてないよ。サイレンは聞こえるけど」
「テレビは?」
「揺れている仙台の様子は写している。それと津波が3mだって」
「3m?そんなんで済むのか?やばい横揺れ、しかも海底。津波はデカイ!に決まってる!」
「会社は?」
「もう少し、通信手段が出来たら連絡を取る。メールは無事みたいだし」
15時21分。携帯メール着信。丹治さんより。
内容原文抜粋。
「連絡乞う」(題)
水戸行の途中。
新地で地震。
行くも戻るも交通ストップ。
母、松島にあり。
心配です。
15時22分。携帯メール返信。
当方無事。
状況知らせたし。
塩竈の状況、解り次第連絡ス。
「新地ってどこだ?」
「福島じゃない。常磐線に乗ってたってこと?」
「水戸だって、でもなして水戸さぁぁ・?」
15時34分。年下帰宅。
「怖かったぁぁぁ」
「お前どこで?」
「藤沢橋の真ん中。落ちたらまぁ、そん時だな。欄干にしがみついていた」
「近くまでいたんなら、早くもどらんか!」
「回りの様子を見てた。案外落ち着いてる。震源はどこ?」
「宮城沖だ。津波警報が出てる。川には近づくな!」
(家の真下近くを引地川がんがれており、案外海からも近いのでした)
「出かけないよ!でもばあちゃんが・・・」
「まだ連絡がつかない!」
「丹治さんからだけ、無事の知らせがあったよ」
「丹治さん?どこから?」
「福島、どうやら新地という駅らしい。移動中だったようだ、まぁでも無事が最初に確認できて一安心であはる」
テレビでは、津波の襲来を予期してか。海岸の様子を映し出しておりました。
「今のところ大きな潮位の変動はありません」というアナウンス。
ですが。石巻の映像が写ったとき。
「波が沖に向かっているような・・・船が変な揺れ方をしている」
遠くのテレビからも、それは解るのでした。
「津波警報。3m」この表示は変わりません。
「塩竈へは?」
「さっきから、もう何度も。」
「手当たり次第、メールを送信するか」
「それしかないと思う」
家内も、年下も心当たりにあるメールを送信しております。
15時39分。携帯メール送信。部下宛。
内容原文抜粋。
「当方無事」(題)
無事と信じてメールします。怪我ないですか。
お客の怪我等はどうですか。
店内、事故、破損個所があればお知らせください。
客の状態も。
電源は無事でしょうか。
慌てず、店長指示で行動すること。
細かい事も指示を仰ぐことが大事となってます。
まずは店長にメール宛先他、転送願います。
今後の事は、連絡します。
メールは無事に繋がるようです。
これが頼りです。
テレビが映し出す海の映像は、いつもと変わらないものでした。
市の防災無線が「津波警報」を何度も呼びかけておりました。
前日、店を出たのが22時15分頃。普段は、遅くの起床なのですが、この日は案外早く起きました。
中学を卒業したばかりの年下は休み。高校入学の準備をしなくてはならない時期です。
入学許可を頂いたのが2月でございましたので、本人至ってのんびり過ごしております。
家内も休み。シティラピッド君は、今日は夜勤ではありません。
8時。「おひさま」の放映。
家内が出かけます。
「親父、自転車いいぞお。親父も持ってくれば、ランドナー」
「塩竈からか?車で運ぶか?」
「ツーリング行こうよ」
「まだ、お前には負けない」
「んじゃ、ちょっくら乗ってくる」
彼の愛車は「トレック。ロードバイク」。
ヘルメットを被り(昨年の事故から絶対着装!)グラブをはめて・・。
「恰好だけは、いっちょ前だな」
と、酔漢の言葉を聞かないうちに出かけて行きました。
「昼前には戻るから、江の島までかな?」と。
「さぁて、『くだまき』でも語ろうか」とPCに向かいました。
その時の「くだまき」はこうでした。
「親父殿、与那嶺さんがお亡くなりになりました。」2011-03-11 10:29:02 | 野球の話
「イチロー?与那嶺のデビューにはかなわねぇっちゃ」
これは、親父の言葉。
ジャイアンツ贔屓だった親父は、与那嶺選手が、ことのほか好きだったようでした。
その与那嶺さんがお亡くなりなったばかりでした。
親父との会話を「くだまき」で語った訳です。
「だれ、おめぇ。1イニング3盗塁だど。おめぇ、イチローだってやんねぇべ」
「近代野球じゃ不可能だと思うよ」
「違う、度胸がねぇだけだっちゃ」
コメントを頂戴しておりますが、正にそのところへの疑問。
内野安打で出塁。その後、二盗、三盗、本盗(ホームスチール)をやり遂げております。
捕手のブロック技術が今程ではないとう事を差し引いても、これは偉大であり、今後見る事の出来ないプレーだとも思うのです。
そんな事を思い出しながら、「くだまき」を更新しました。
時間は上記、10時29分に投稿アイコンをクリックしております。
11日。日記。
10時47分。実家、母より着信。
「父法要案内状を先ほど、塩竈郵便局(本塩釜駅前)にて、投函した」と言う。
いつもなら午後に買い物に出かけるのに、今日は早い行動であった。
珍しい。父のこと故、母も急いだのであろうか。
「さっきねぇ、送ったわよ」
「はえぇんでねぇか?」
「午後、雪かもしれないって・・お父さんの事だから・・」
母との会話はおおよそこんな感じであった。
11時。年下帰宅。
「どこまで行ったんだ?」
「その辺回ってた」
「調子はどうなんだ?」
「絶好調!」
「親父、一番印象に残ったルートは?どこ?」
「じゃあ、見てみるか」
という事で、一番お気に入りだった、国道45号線を北上した、ツーリングの話しをいたしました。
「グーグルで見てみるか」
グーグルアースにアクセスしました。
塩竈から国道45号線を北上する上空写真をPCで写しながら、その景色を案内いたしております。
「塩竈から、R45を北上するだろ。松島基地がここだ、この辺りは遮蔽物がないから、海風が強い。この平坦な道で、ピッチを上げると、気仙沼までたどり着けない」
「どうして?」
「三陸特有の地形になるからな、アップダウンが半端じゃない」
「小さな峠があるだろ。(道をたどりながら・・)ここを登り切って、標高差約300mを一気に下る。気仙沼の市街地に入る。景色がよさそうな箇所が多々あるが、これに寄り道していると、大変な目に合う。R45を外れると、途端に、登り。それも急な道ばかりだ」
「なるほど、山ばかりだな、回りは」
「ここから、牡鹿半島の付け根を回って、志津川へ。観洋までもきつい」
「親父はどこまで一気にいったんだ?」
「大船渡まで。流石に計画が甘かった。途中、海がきれいだろうなんて、とんでもない。堤防が高い地域だから、海が見えない。丁度、壁を見ながら走っている感じだ」
「大船渡から釜石。釜石から田老。田老から譜代。そして、田老に少し下って、北上山地を横断するように走って」
「この峠も標高ありそうだな」
「岩同湖(人工)を越えて、ここの白樺林がきれいだった。岩泉へ行って龍泉洞に行って、そこから輪行で汽車で塩竈に戻った」
「すげぇなぁ。親父、何歳の頃?」
「俺が、17歳の夏休みだ」
「俺、とても根性がない」
地震発生の数時間前の記憶です。
何故か、国道45号線を走った事を息子に話していたのです。それも、航空写真を見ながら。
三陸の海を肌で感じた時間でした。
とても、懐かしく思いながら、その時々、それぞれの風景を息子に話しておりました。
「田老の堤防は、ビルだぞ!ビル!もう城壁の中に町があるような、そんな感じだ」
こんな話しもしておりました。
昼過ぎ、昼食。
13時過ぎ、家内は読書とアイロンがけ。
酔漢は昼寝を決め込みました。
「俺また、出かける。親父の話し聞いていたら、また自転車にまたがりたくなった!」
「きをつけるのよ!」
家内の声が寝室に聞こえてきました。
14時32分。携帯着信。メール。丹治さんから。
原文抜粋。
入試の話に投稿しました。ご確認下さい。
書きたいことがあまりにも多く、一回で、書くと本文よりも長くなってしまいそうです。
何回かに分けて投稿します。
なお、紹介したい本文とは、手塚正己著の「軍艦武蔵」(新潮文庫・上下)です。
一昨年の発行ですが、それ以前に発行された本の文庫版。
一冊七百ページと大部な本で、読み応えがあります。まだ下巻の三分の一ほど読んだのみですが、
気づいた点は以下の通りです。
上巻三分の一ほどで浜風の各海戦における沈没艦の乗員救助の実績を紹介。
半端な人数ではない。
上巻最後近くで、シブヤン海戦で主砲方位盤が旋回不能になった理由を考察。
主砲発砲原因説を否定(公試の際は無事だった)。
佐藤太郎著「戦艦武蔵」では憎まれ役だった加藤副長の名誉を回復している。
また主計科、医務科、機関科、内務科など艦の内部の描写に詳しいのも特徴です。
天一號作戦の大和での酔漢君(原文は本名)のお爺様の配置もかくやと思わせるものがありました。
個人の手記では、基本的に著者の配置を中心とした記述にならざるをえません。
生存者に聴き取りを重ね記録を丹念に調べる手堅さは辺見じゅんの「男たちの大和」に通じるものがあります。
これは、やはり作家や、研究者の仕事ですね。
出撃前の外舷塗装にも触れてます。(中略)
酔漢君「いつかレイテを映画に撮りたい」って言ってましたね。
この本、その映画のシナリオを作るにはピッタリだと思いますよ。
「携帯で長文。何してんだべ!」略の部分も相当な字数です。
先週会ったとき、今週の予定は何も話していなかったのでした。
研究室も休みで暇なんだろうか。(研究室で暇は失礼なのですが・・)
丹治さんはどこかに行っているんだろうか。
そんな事を思いながら、布団にくるまりました。
14時47分。←部屋のデジタル時計を確認した時刻。
「地震!」家内の声。
布団より飛び起きる。
縦揺れ。
「お前、茶箪笥から離れろ!」と言いつつ、洋服箪笥を押さえている自分。
横揺れに変化。
「お前、トイレ前。廊下に出ろ」と叫ぶ。
ふと家内を見ると茶箪笥を押さえている。
横揺れが部屋縦方向なので、案外家具は安定している。
「また、宮城じゃないだろうな!」言葉が自然に出た。
電気は幸いついていた。
まだ揺れている。
少し収まったかに思えた瞬間。ぐわぁぁぁんと物凄い横揺れ。
「ダメだ!廊下!」
波打つ部屋の床を這って廊下へ。
少し収まる。
「シティラピッドは?」
「事務所内だったら、大丈夫かと思う」
テレビをつける。
その途端、余震か!
横揺れ。
字幕「宮城震度七。津波警報発令」
「塩竈へ。電話。無理だけどかけてみて」
家内電話するも繋がらず。
14時50分。PCへ向かう。
その途端、携帯へ着信。
14時51分。携帯メール着信。丹治さんより。
内容。原文抜粋。
「ミニ同窓会」(題)
忘れてました。○○さん(原文本名)の近所にいる酔漢君(原文本名)の同期は、旧姓××さんというそうです。
ゴールデンウィークの八幡平ですが、五から八の間に設定すれば、酔漢君の帰塩にとはぶつからないでしょうか。
揺れている最中なのに!なんだ?
と思いつつ、丹治さんが頻繁にメールできる環境にいることが推察できます。
ですが、地震発生時刻の前に作成したメールですので、これだけタイムラグが発生していたわけです。
日記、抜粋。
まずは、どんな手段でも安否を知らせねばなるまい。
ブログの更新を決断した。
宮城の情報も入りやすいかもしれない。
15時15分。本日、二度目。更新。
一同無事であるか
2011-03-11 15:15:28 | 東日本大震災
一同無事であるか。
藤沢も今!揺れています!
無事であることを、ただひたすら願っています!
酔漢。
「年下は?」
「連絡不能だよ」と家内。
「あいつの事だ。心配ない」
「バルコニーには出るな!余震も大きいはずだ!窓越しに火事は見えるか!」
「今のところ煙はでてないよ。サイレンは聞こえるけど」
「テレビは?」
「揺れている仙台の様子は写している。それと津波が3mだって」
「3m?そんなんで済むのか?やばい横揺れ、しかも海底。津波はデカイ!に決まってる!」
「会社は?」
「もう少し、通信手段が出来たら連絡を取る。メールは無事みたいだし」
15時21分。携帯メール着信。丹治さんより。
内容原文抜粋。
「連絡乞う」(題)
水戸行の途中。
新地で地震。
行くも戻るも交通ストップ。
母、松島にあり。
心配です。
15時22分。携帯メール返信。
当方無事。
状況知らせたし。
塩竈の状況、解り次第連絡ス。
「新地ってどこだ?」
「福島じゃない。常磐線に乗ってたってこと?」
「水戸だって、でもなして水戸さぁぁ・?」
15時34分。年下帰宅。
「怖かったぁぁぁ」
「お前どこで?」
「藤沢橋の真ん中。落ちたらまぁ、そん時だな。欄干にしがみついていた」
「近くまでいたんなら、早くもどらんか!」
「回りの様子を見てた。案外落ち着いてる。震源はどこ?」
「宮城沖だ。津波警報が出てる。川には近づくな!」
(家の真下近くを引地川がんがれており、案外海からも近いのでした)
「出かけないよ!でもばあちゃんが・・・」
「まだ連絡がつかない!」
「丹治さんからだけ、無事の知らせがあったよ」
「丹治さん?どこから?」
「福島、どうやら新地という駅らしい。移動中だったようだ、まぁでも無事が最初に確認できて一安心であはる」
テレビでは、津波の襲来を予期してか。海岸の様子を映し出しておりました。
「今のところ大きな潮位の変動はありません」というアナウンス。
ですが。石巻の映像が写ったとき。
「波が沖に向かっているような・・・船が変な揺れ方をしている」
遠くのテレビからも、それは解るのでした。
「津波警報。3m」この表示は変わりません。
「塩竈へは?」
「さっきから、もう何度も。」
「手当たり次第、メールを送信するか」
「それしかないと思う」
家内も、年下も心当たりにあるメールを送信しております。
15時39分。携帯メール送信。部下宛。
内容原文抜粋。
「当方無事」(題)
無事と信じてメールします。怪我ないですか。
お客の怪我等はどうですか。
店内、事故、破損個所があればお知らせください。
客の状態も。
電源は無事でしょうか。
慌てず、店長指示で行動すること。
細かい事も指示を仰ぐことが大事となってます。
まずは店長にメール宛先他、転送願います。
今後の事は、連絡します。
メールは無事に繋がるようです。
これが頼りです。
テレビが映し出す海の映像は、いつもと変わらないものでした。
市の防災無線が「津波警報」を何度も呼びかけておりました。
アメリカで「9.11」が起きた当時、リアルタイムでツインタワーが崩壊するのを観ていましたが、あの映像を以前と同じ気持ちではもう観れません。
私は、地震で停電になり、津波の水が来て家の二階から出れなくなったので、三日間は家の周りの景色しか見る事ができませんでした。ラジオで情報を得てはいましたが、のちに新聞が配達されるようになって、初めて被災の様子を写真で見たんです。ショックでした。知らなくて良かったと思いました。見ていたら、希望よりも絶望の方が勝ってしまい、あの当時を乗り越えられなかったかもしれません。
その時の事は、次回に語ろうかと思っております。
しっかり記憶と記録を整理していきたいと思いました。
ですが、いつものくだまきよりガッツが必要なのでした。