東日本大震災の後。
「自分の感覚で、この災害を受け止めてどう未来に生かしていくのか」
実際はこんな難しい言葉ではないのですが、家族で話しました。
年下の通う高校は、茅ヶ崎の海岸から、ほんの1km先。海抜は5m。
彼は、友人達と藤沢市のハザードマップの見直しをして、「これまであった津波の避難経路には問題が多い」と学校側に提案。
授業中に起こり得る大津波の避難経路を新しいものにいたしました。
「もっとやっかいなのは、真夏の鵠沼海岸だな。あれだけの人が避難する場所がないんだ」
ライフセーバーでもある彼は、巡回中に「津波警報」が発令された際の、避難マニュアルがないことを今、懸念しております。
これは、彼なりの答えでした。
この年末。
全国47都道府県の鉄道をようやく?制覇したシティラピッドでした。
九州佐賀から、山陰へ。
ここの旅は、また後程お知らせいたしますが、昨年の12月30日に藤沢に戻ってすぐ、年明け3日には、東北へ向かいました。
「また、雪でも見に行くのか?」
「ん?今度は別だよ。ある意味、親父が一番気になっているところかもしれない」
彼の旅には、多くを聞いたりは致しません。
ある意味、自分の方が迷子になってしまいそうな位、複雑な経路をたどって旅をいたしますので。
時間と距離感が「鉄道好き」とそうでない人種とは大きな「ずれ」があると思っております。
愛用の一眼レフを鞄に入れて、3日朝方に家を出ております。
「塩竈のお母さんから電話があってシティラピッドが、塩竃に泊まるんだって」
「なんだ。お袋へは連絡していたんだ」。(塩竈の鮨は、はずさないだろうなぁ・・)
そして1月5日の夜。藤沢に帰って来ました。
「親父、写真を整理したんだ。見るか?」
てっきり、「雪景色」ばかりかと思ったら。
「お前、これは、南三陸・・・・」
「ようやく、行けた。遅くなったけど。自分で見ておきたかったんだ」
「やっぱり鉄道なんだな。これは相変わらずだな」
「仙石線、気仙沼線。BRTの工事の様子が気になった」
「BRT?」
「親父知らないのか?『バス・ラピッド・トランジット』の略で『BRT』なんだ。鉄路を復旧させることは難しい。時間とお金が相当かかる。だけど、地域のアクセスは復興には欠かせない。そこで、鉄路のあったところを道路にして、バス輸送に転換させる。鉄道はJR東日本。バスは宮城交通。だから、俺達(運輸関係者)は『第四種』と言っているんだ」
「・・・・・・・・」
彼から、BRTの講義を受けておりますが、正直、宮城県の方は身近な話題であるのに、案外この事実を知りませんでした。
彼は、彼なりに、プロの視点として、現場を見ておきたい。こうした思いがあったのかと、こう思いました。
「歌津じゃないか」
「そうそう、駅舎は残っていたんだよね」
「歌津、行きたかったなぁ」と、ここで年下が写真をのぞきこんで話しかかけてきます。
「おまぇ、こんなマイナーな(失礼)町にどうして?」
「歌津って言ったら、あれだ。恐竜の化石だ」
「あったなぁ」と。
でもな、少し、進むと、まだ瓦礫の山ばかりが目について。
言葉が出ません。
今だ、復興どころか復旧すらしていない状況。
「高台に移転する構想もあるらしいけど、土地買収など問題が山積み。だから、今ある鉄道路を埋めて、(撤去したり)舗装してバスの運行にする」
そして出来たのが、こうした道路になります。
「駅はバス停みたいにはしないの?」
「駅舎はそのままのところが多いよね。もっとも、気仙沼線なんかは、無人駅がおおいしね。三陸鉄道もそうだよな」
彼の説明が続きます。
「親父、これなんだけど・・・」
写真を進めていくうちに。
「目の当たりにして、本当に言葉が出なかった」
志津川の街の様子。
この瓦礫は、未だ手つかず状態。
遅すぎる、復興対策に、やはり苛立つ。
「思ったんだけど・・」
「何?」
「鉄道って、国土交通省じゃん。でも、鉄路とか駅舎とかの移転って、他いろいろな権利が混ざり合って、すぐにはいかない事情がある。法的にもそうだしね。親父さぁ、例えば、住宅の高台移転ってあるだろ。復興省がやってる。でも、工場とか商店とか寺とかは、資金が出ない。自前でやれ!ってこと。住んでいる家ばかり高台に移転したからって、街にならないじゃん。全部一緒にできないのかよ!って思う。腹立つ」
珍しく、彼が声を大きくしております。
「全く、その通りだ。行政なんてこんなものか。神戸はもっと早かった。規模も違うんだろうけど、もの事を決めるスピード感が違う。あの頃の方が確かにスムースに行っていた部分はあると思う」
「神戸のときのマニュアルは、私鉄、JR含めて、その復旧マニュアルは、俺の会社にもある。首都直下なんて想像したくないんだけど、仕事は仕事だから」
「お前、志津川って親父と一緒に行ったんだよな」
「じいちゃんとドライブして、社会の自由研究したんだよ。『牡蠣の養殖について』だった。海がきれいで、また来たいってそう思った。じいちゃんと車で寄った岬は見えたんだ。だけど、そんな昔の昔に思えて来て・・」
彼の話が続きます。
「昔の陸前の海が少しでも見えたら・・そしたらね」
「バスの窓から。思わずシャッター切った・・少しでもね、青い海がないとね・・・」
彼は父が元気な内に、この場所に連れていってもらことが、大きな思い出になっているようです。
「ここのタコはうめぇんだど!こんど喰いさぁくっぺな!」
これは叶わぬ事となりました。
BRTシステムが、地域アクセスには、不可欠なものとなっております。
まずは、地域間の交流は、復興には欠かせません。
時刻表。
懐かしい駅名が並びます。
「仙石線なんだけど・・・」
「そう言えば、写真ないなぁ」
「撮影する気力がなかった・・・案外混んでた。『野蒜』『大塚』あたりはね。親父も気にしているとは思ったんだけど・・」
「旅鉄」。
こんな言葉があるのだそう。
彼は、職業もさることながら、やはりここに行きつくわけです。
「親父の友達の息子さんって『鉄』がいるんだって?」
「よく聞くけど」
「クロさん(クロンシュタットさん)どうしているんだろう」
「お前、クロさんの息子は後輩だった・・」(池袋の高校)
「繋がりはなかったけど。クロさんだったらどうしているのかと思って」
気になるところです。
彼のコメントは一昨年の9月が最後でした。
「だからね」
「何?」
「実は、これも目的であって・・」
「これって『ポケモン』?」
「『ポケモン列車』これもね。欠かさないわけでして・・」
「何だぁ。しっかり鉄してきたわけだ」
「乗ったの?」
「しっかりね」
駅の植木まで「ピカチュウ」だったりするわけでして。
もちろん、車内も。こんな感じです。
「この列車。小さなこども達がいっぱいいたろ?」
「それが・・・・・・」
「それが?どうした?」
「俺達同業者がいっぱいで」
そんなわけでした。
こどもが遊ぶ車両もあったそうですが、誰も乗ってなかったみたいでした。
カメラのシャッター音が、車両充に響いている。
こんな様子だったらしいです。(何とも・・・)
「さっきも話したけど。ようやくって感じなんだ。もっと早くに行きたかった」
「自分で確かめて来たかったのか」
「そう。復興と鉄道、そして復旧。鉄道がどうなって行くのか。この先にね」
シティラピッドからの回答。
彼らしいものでした。
それにしましても。
「縦割り行政」。
全く機能していない。
何の為の「復興省」なのだ。
誰が何をどうして決断するのだ。
「省庁の枠なんていらねぇんだ!」
「もう勝手にやらしてくれ!」
釜石、唐丹の「しんぺい」の叫びが正しいと感じてしまいます。
「自分の感覚で、この災害を受け止めてどう未来に生かしていくのか」
実際はこんな難しい言葉ではないのですが、家族で話しました。
年下の通う高校は、茅ヶ崎の海岸から、ほんの1km先。海抜は5m。
彼は、友人達と藤沢市のハザードマップの見直しをして、「これまであった津波の避難経路には問題が多い」と学校側に提案。
授業中に起こり得る大津波の避難経路を新しいものにいたしました。
「もっとやっかいなのは、真夏の鵠沼海岸だな。あれだけの人が避難する場所がないんだ」
ライフセーバーでもある彼は、巡回中に「津波警報」が発令された際の、避難マニュアルがないことを今、懸念しております。
これは、彼なりの答えでした。
この年末。
全国47都道府県の鉄道をようやく?制覇したシティラピッドでした。
九州佐賀から、山陰へ。
ここの旅は、また後程お知らせいたしますが、昨年の12月30日に藤沢に戻ってすぐ、年明け3日には、東北へ向かいました。
「また、雪でも見に行くのか?」
「ん?今度は別だよ。ある意味、親父が一番気になっているところかもしれない」
彼の旅には、多くを聞いたりは致しません。
ある意味、自分の方が迷子になってしまいそうな位、複雑な経路をたどって旅をいたしますので。
時間と距離感が「鉄道好き」とそうでない人種とは大きな「ずれ」があると思っております。
愛用の一眼レフを鞄に入れて、3日朝方に家を出ております。
「塩竈のお母さんから電話があってシティラピッドが、塩竃に泊まるんだって」
「なんだ。お袋へは連絡していたんだ」。(塩竈の鮨は、はずさないだろうなぁ・・)
そして1月5日の夜。藤沢に帰って来ました。
「親父、写真を整理したんだ。見るか?」
てっきり、「雪景色」ばかりかと思ったら。
「お前、これは、南三陸・・・・」
「ようやく、行けた。遅くなったけど。自分で見ておきたかったんだ」
「やっぱり鉄道なんだな。これは相変わらずだな」
「仙石線、気仙沼線。BRTの工事の様子が気になった」
「BRT?」
「親父知らないのか?『バス・ラピッド・トランジット』の略で『BRT』なんだ。鉄路を復旧させることは難しい。時間とお金が相当かかる。だけど、地域のアクセスは復興には欠かせない。そこで、鉄路のあったところを道路にして、バス輸送に転換させる。鉄道はJR東日本。バスは宮城交通。だから、俺達(運輸関係者)は『第四種』と言っているんだ」
「・・・・・・・・」
彼から、BRTの講義を受けておりますが、正直、宮城県の方は身近な話題であるのに、案外この事実を知りませんでした。
彼は、彼なりに、プロの視点として、現場を見ておきたい。こうした思いがあったのかと、こう思いました。
「歌津じゃないか」
「そうそう、駅舎は残っていたんだよね」
「歌津、行きたかったなぁ」と、ここで年下が写真をのぞきこんで話しかかけてきます。
「おまぇ、こんなマイナーな(失礼)町にどうして?」
「歌津って言ったら、あれだ。恐竜の化石だ」
「あったなぁ」と。
でもな、少し、進むと、まだ瓦礫の山ばかりが目について。
言葉が出ません。
今だ、復興どころか復旧すらしていない状況。
「高台に移転する構想もあるらしいけど、土地買収など問題が山積み。だから、今ある鉄道路を埋めて、(撤去したり)舗装してバスの運行にする」
そして出来たのが、こうした道路になります。
「駅はバス停みたいにはしないの?」
「駅舎はそのままのところが多いよね。もっとも、気仙沼線なんかは、無人駅がおおいしね。三陸鉄道もそうだよな」
彼の説明が続きます。
「親父、これなんだけど・・・」
写真を進めていくうちに。
「目の当たりにして、本当に言葉が出なかった」
志津川の街の様子。
この瓦礫は、未だ手つかず状態。
遅すぎる、復興対策に、やはり苛立つ。
「思ったんだけど・・」
「何?」
「鉄道って、国土交通省じゃん。でも、鉄路とか駅舎とかの移転って、他いろいろな権利が混ざり合って、すぐにはいかない事情がある。法的にもそうだしね。親父さぁ、例えば、住宅の高台移転ってあるだろ。復興省がやってる。でも、工場とか商店とか寺とかは、資金が出ない。自前でやれ!ってこと。住んでいる家ばかり高台に移転したからって、街にならないじゃん。全部一緒にできないのかよ!って思う。腹立つ」
珍しく、彼が声を大きくしております。
「全く、その通りだ。行政なんてこんなものか。神戸はもっと早かった。規模も違うんだろうけど、もの事を決めるスピード感が違う。あの頃の方が確かにスムースに行っていた部分はあると思う」
「神戸のときのマニュアルは、私鉄、JR含めて、その復旧マニュアルは、俺の会社にもある。首都直下なんて想像したくないんだけど、仕事は仕事だから」
「お前、志津川って親父と一緒に行ったんだよな」
「じいちゃんとドライブして、社会の自由研究したんだよ。『牡蠣の養殖について』だった。海がきれいで、また来たいってそう思った。じいちゃんと車で寄った岬は見えたんだ。だけど、そんな昔の昔に思えて来て・・」
彼の話が続きます。
「昔の陸前の海が少しでも見えたら・・そしたらね」
「バスの窓から。思わずシャッター切った・・少しでもね、青い海がないとね・・・」
彼は父が元気な内に、この場所に連れていってもらことが、大きな思い出になっているようです。
「ここのタコはうめぇんだど!こんど喰いさぁくっぺな!」
これは叶わぬ事となりました。
BRTシステムが、地域アクセスには、不可欠なものとなっております。
まずは、地域間の交流は、復興には欠かせません。
時刻表。
懐かしい駅名が並びます。
「仙石線なんだけど・・・」
「そう言えば、写真ないなぁ」
「撮影する気力がなかった・・・案外混んでた。『野蒜』『大塚』あたりはね。親父も気にしているとは思ったんだけど・・」
「旅鉄」。
こんな言葉があるのだそう。
彼は、職業もさることながら、やはりここに行きつくわけです。
「親父の友達の息子さんって『鉄』がいるんだって?」
「よく聞くけど」
「クロさん(クロンシュタットさん)どうしているんだろう」
「お前、クロさんの息子は後輩だった・・」(池袋の高校)
「繋がりはなかったけど。クロさんだったらどうしているのかと思って」
気になるところです。
彼のコメントは一昨年の9月が最後でした。
「だからね」
「何?」
「実は、これも目的であって・・」
「これって『ポケモン』?」
「『ポケモン列車』これもね。欠かさないわけでして・・」
「何だぁ。しっかり鉄してきたわけだ」
「乗ったの?」
「しっかりね」
駅の植木まで「ピカチュウ」だったりするわけでして。
もちろん、車内も。こんな感じです。
「この列車。小さなこども達がいっぱいいたろ?」
「それが・・・・・・」
「それが?どうした?」
「俺達同業者がいっぱいで」
そんなわけでした。
こどもが遊ぶ車両もあったそうですが、誰も乗ってなかったみたいでした。
カメラのシャッター音が、車両充に響いている。
こんな様子だったらしいです。(何とも・・・)
「さっきも話したけど。ようやくって感じなんだ。もっと早くに行きたかった」
「自分で確かめて来たかったのか」
「そう。復興と鉄道、そして復旧。鉄道がどうなって行くのか。この先にね」
シティラピッドからの回答。
彼らしいものでした。
それにしましても。
「縦割り行政」。
全く機能していない。
何の為の「復興省」なのだ。
誰が何をどうして決断するのだ。
「省庁の枠なんていらねぇんだ!」
「もう勝手にやらしてくれ!」
釜石、唐丹の「しんぺい」の叫びが正しいと感じてしまいます。
ここに書かれた問題点、今朝本日の新聞にて読んだばかりです。とはいえ当の復興庁の職員もまた、忸怩たる思いで批判に耐えていると信じたい。寄せ集めの、政権担当能力のまるで無い政府は退場しました。少しはましになることを期待します。
「歌津魚竜の化石」は、無事だったんですよ。私もてっきり流されたかと思ったんですが、崩れた建物が積み重なった底に残っていたんです。確か東北大かどこかのチームが、修復復元の為に、ほかの展示物と一緒に持ち帰ったはずです。
実は、藤沢を始め、そちらの海沿いの地域を地図や映像で見るたびに、酔漢様のようにお住まいの皆さんには申し訳ないんですが、災害が起きた時はどうなるんだろうと、怖くてたまらないんです。なので、地道に避難誘導を考え直すこと、高台などの避難場所を皆さんが意識されること、とても嬉しく思いました。被災地民と同じ辛い思いをされる人が少しでも減ることを、強く願います。
首都圏だったらもっと早いのでhないかとさえ思えて来ます。
スピード感。
何より解決しなくてはならない問題がまだまだ山積みです。「落ち着いた生活」が何より大事なのですが。
防風林は、住宅地や道路なので少なくなっております。
県も市もそのハザードマップの書き直しを進めているようです。年下は、学校の避難経路を生徒会と一緒に見直す作業を進めて来ました。震災より二か月後に七ヶ浜の惨状を目の当たりにした危機感があったと本人は話しておりました。感じる処があったのだな。と思っております。
「歌津竜」無事でしたか。よかったです。
お知らせありがとうございます。
原発関連以外の情報がどんどん薄れている今、鉄道ファンの方々が一番被災地の現状をご存知かもしれません。秋のNHK杯フィギュアで、鉄道ファンの方とご一緒に観戦したのですが、試合の翌日から、気仙沼線、仙石線沿線を隈なく歩いていらっしゃいました。本来なら、新聞・TVが伝える責任を負っている実状だと思います。
新春、天皇陛下の被災地への変わらぬお気持ちに、感激したのと同時に、進まぬ行政への叱咤も感じました。未曾有の災害なのですから、被災地全体を既存の法規制からの開放特区にして欲しい位です。
そもそも人の生活の場もまた何千年もの暮らしから選ばれた所ですからね。土地や海岸線を人工的に作り替えた大都市に住んでいると忘れがちですが、集落の発生地には産業や交通などそれぞれに必然性がある。それを無視して町づくりをするなら、産業を捨て、生活が出来ないので町を捨ててしまう人が増える。事実、気仙沼市周辺の人口減少には歯止めがかからない。
気仙沼線は用地買収などの問題もありますが、それよりもただでも過疎の地域なのに震災以降は更なる人口減に歯止めがかからず、新たに鉄道を敷設しても将来的に採算がとれない見込みが高い点についてJR側が難色を示しているのです。BRTならば大きな設備投資は必要ないですからね。BRTは鉄道再開までの代替輸送という事になっていますが、地元との交渉が長引いてくれれば、それがいずれ普通に定着し、鉄道を諦めるだろうという算段なのでしょう。ちなみに採算がとれると見込まれる仙石線と常磐線はすでに新ルート案が発表されました。もちろんまだまだ曲折がある事でしょうが。
最後に細かい事ですが、地元のトピックなのであえて指摘しておきますが、厳密にいうと魚竜は恐竜ではありませんよ(笑)
NHK仙台放送局制作の「被災者からの声」という番組を全国で放送してほしい(東北6県で放送)。そうすれば、被災者の方のありのままの思い、本音がわかり、復興への近道になると思うから。
山形県、11歳の小学生が寄せた声です。
昨年2月、名取の閖上に参りました。20年前まで仙台に住んでいたころ、いつもリヤカーを引いて新鮮な野菜を届けてくれた「閖上のおばさん」がご夫婦で津波にのみ込まれて亡くなったと聞いて、お参りに行きました。
空港までアクセス線を使って駅に降り立つと、辺り一面雪に覆われて、こんもりと盛り上がっているがれきの山以外は本当に何もないのです。かつて記憶にある光景はすっかり消え、遠くにはかろうじて防風林だった松林の一部だけが見えました。
駅から日和山へ案内してくれたタクシーの運転手の方が、こう言っていました。
「最初のころは、この無惨な光景を見物に来られるのはとても辛かったです。ようやくがれきの処理が進み、この辺りはまだましなほうですよ。時間が経ち、最近では、徐々に周りの関心が薄れていくのを感じています。地元の人間として、災害の凄まじさとなかなか立ち行かない現状をぜひ知ってほしいんです。」
この言葉を聞き、思わず「今日見たこの光景を、東京へ帰り、ありのまま伝えたいと思います。」とその運転手さんと約束をしました。
今、現在の様子はどうなっているのでしょうか。
避難している人と転居している人の数は現在合わせて32万人あまり、東京ドームの収容人数は約5万人ですから、その6倍以上です
復興交付金が額面上増えても、実際は全額が被災している所に使われているわけではない、シティラビット君が仰るように、諸問題が立ちはだかって思うように復興が進んでいない地域が多い。
一方、地元の行政で働く人々はいまだ休み返上で業務につき、人手不足も相俟って心身共に疲労困憊している様子です。
故郷を遠きにありて思っている我々は、一体どうしたらよいのでしょうか。
シティラビット君はじめ若い方々の声を聞きながら、見聞きしたこの現状を根気強く伝えていくことではないかなと改めて感じました。、
シティラビット君、実際に足を運び、詳細なご報告をありがとうございます。関東に住んでいる我々も、いつ何時地震が起きて被害をうけるかわかりませんよね。年下君の問題意識の高さは、おおいに我々大人が学ぶべきことです。
それにしても鉄道での縦断全国制覇、すごいです!これからも、また発信してください。くだまきお父様、よろしくお願いいたします。
まだほとんど手つかずの「被災地」。復興の遅れは、やがて来る首都圏の「その時」の遅れでもありましょう。
あれからもう二年たちますがそれでもまだ悪夢を見ているような気がしています。
鉄道の打撃が大きいのには今更ながら衝撃です。
何とか人々の足が元に戻ることを祈るばかりですね。
鵠沼海岸。
ずいぶん前いきましたが確かにここで万が一、真夏に津波が・・・と思うとゾッとしますね。
避難対策、早急に講じないと・・・。
しかし・・・、線路の消えたトンネルって不気味な感じですね。でも、何はともあれ一部にBRTも運行し始めたので、地域の人たちも少しはホットしていると思いますよ。
ところで、気仙沼はずいぶん片付けが進んだとは云っても、復興計画の実行はまだまだですが、そんななか去年「みなと祭り」を再開しました。
たまたまCATVが、この実況を放送したので録画して、気仙沼出身の友人に見せたんですが、実家の方には時々帰ってるけど、祭り会場の商港周辺はこのビデオで初めて見たそうです。
怖くて被災地域にはなかなか足が向かないと云っていました。
ちなみにこの友人の実家は、鹿折唐桑駅を挟んで打ち上げられた第十八共徳丸の丁度反対側で、津波は間一髪敷地境いの側溝まで流れ込んだそうです。
車両の中が結構混んでいたそうです。それもあって、写真撮影が出来なかったと申しておりました。
東松島(旧矢本)に住んでいる「もんま君」から年賀状が届きました。
「仙石線の全線復旧が望まれる」
こう記されておりました。