酔漢、小学校4年生。
「みやざきばっぱ」(ばっぱと言っては失礼にあたるとも思うのですが、これは僕らの後の世代がつけた渾名なのでした)が、朝の朝礼中です。
「こんどねぇ・・飛行機から小学校の写真撮るんだよ」
僕ら一斉に「ええええええーーーーーーっつ!」
「はい!静かにして!」
「記念の写真なんだ。今度の水曜、四時間目。半分の児童が校庭に出て、写真撮影なんだ」
「どんな風にして撮るのすか?」
「校庭に人文字作って・・・」
「人文字?何っしゃ?」
「皆して並んで校庭に『二小』ってわかるようにする・・・」
「並んだって、おれ達にはわかんねぇべ!」
とか、かんとか・・教室中大騒ぎ中。
「ナスカの地上絵って知ってる?」
この言葉で全員しーーん。
「ナス?・・・・・・カ?・・・・・茄子・・・・か・・・?」
おい、しんどう。目が遠くを向いてるぞ!
「南米にある、空からでねぇとわなんねぇ絵の、こったすべ!」
「酔漢、よく知ってるねぇ」
「んだってっしゃ!このめぇの『木曜スペシャル』でやってったっちゃ」
「んだ!おれも観たべ!『宇宙人のメッセージ』でねぇかって奴だべ!」
「そうそう、空からじゃなきゃ見えない訳!じゃあ水曜日は体操着と体操帽忘れない事!」
それから、数日後、全校集会が開かれまして、(何せ当時県下二位の児童数)説明が行われました。
校庭に、白線で1972の文字と二小の文字が書いてある。
それに合わせて、該当するクラスは並んで、撮影を待つ。
僕らは、「運動会」とも違う、この行事にわくわくしておりました。
雨天は完全中止でした。
「雨降んねければいいやな!」
これは全員の一致するところです。
我が4年5組は、1972の9の部分。
当日を待ちました。
冒頭の写真、これ枠を切ってまして、原版には酔漢実家がしっかり写っております。
学校まで1分とかからない距離なのでした。
朝6時。天候曇り。
酔漢は朝ご飯前に、校庭に出かけました。
先生が二人、白線を書いておりました。
「何だ!酔漢早ぇんでねぇか!」
担任になる前の「エツジ」が声をかけてくれました。(小学校の頃の5年、6年の担任)
「ほれ!ぼーっとしてねぇで手伝え!」
独特のだみ声は、ごうこ先生。(水泳のコーチでもありました)
「んでも、朝ご飯まだだおん!」と本気で答える酔漢に、「おめぇに悪さされたら、しゃねぇおん!黙って見てろ!」
その作業を見ておりました。
最後、ロープで囲って、立ち入り禁止の札が。放送はこうでした。
「本日、校庭でのロクモンス。ドッヂボールは禁止です!」
そして、4時間目を迎えます。
ごうこ先生から最後の注意。
「いいがぁ!何度も言ってけんど!空見上げんでねぇど!おめぇらの顔が映ってたら、おしょすいかんな!」
とは、言うものの・・・。
「ヘリコプターかや?」
「んだども、エツジはセスナだって言ってたべ!」
整列が終わって、僕ら全員体育座り。
すると、遠くの方から、飛行機のプロペラの音が聞こえて来ました。
「ほれ!来たど!上向くんでねぇど!」
飛行機が低空で飛んで来るのが解ります。
隣のしんどう君に「来たど!」と声かけます。
「こら!酔漢!上向いてんでないの!」すかさず、みやざきばっぱの声が聞こえます。
ブーーーーーン!
飛行機の音がやたら大きく聞こえます。
しかし、その瞬間。
ぶーーーん。
と遠くへ行く音に変わりました。
「ハイ!終了!」
あれ?あれ?・・・・・・・・・あれ?
「終わったのかや?」
「みてぇだど!」
「それじゃ、クラス毎に解散!」
ちょっと待ってくれ!
1時間半も校庭にいて、エツジは朝6時から準備して、見たい思いも我慢して・・・・。
撮影はほんの数十秒で終了でした。
「校庭ばぁ旋回すんでねがったのかや?」
「おらいもそう思ってたべ」
「あの音だどや。まっすぐ飛んで来て、まっすぐ帰っていった?」
「んだべな・・・」
お解りかと思いますが、それが冒頭の写真です。
これは、「こまっつあき実家」
自身の書斎の隅から出てきました。
塩竃市立第二小学校。昭和47年の上空写真です。
この写真には、酔漢。そして妹。コメントを下さいます「ゴエモンさん」「ある友人君」もいると思います。
尤も、当時、酔漢とは接点はございません。
そしてこの年、中原誠さんが大山康晴名人を破った年でもありました。
藤倉がまだ宅地開発中。「ひょうたん沼」もありますし、山が多い様子は解ります。
街中は夕方になりますと、独特の香りに包まれて・・。
「うの君」のクリニックのあったあたりは細い路地が入り組んでいて、確か、空地があったような・・。
そんな記憶がございます。
何にもまして、あの木造校舎。
シンボルでもあった「ポプラ」の大木もしっかり二本見えております。
こうしてみますと懐かしい風景です。
「酔漢さんは、あの校舎のどこにいたの?」
6月、ある二小OB(酔漢より8歳程上)の方と一献。
現在は大学の教授であり、シェークスピア研究の第一人者。なにせ、演劇にも卓越したその見解は大変勉強になります。
「あの一番奥の木造校舎。給食室と用務員室(当時の表札のままに表現しております)の真上でした」
「それじゃ、僕のいたときの隣の教室だね」
お会いする切っ掛けは、小学校のお話しをする為ではないのですが、やはりそこは塩竈人同士。小学校の話題になります。
「先生はロクモンスやりました?」(とても、やってそうには見えませんでした・・・が・・)
「やったよねぇ!面白かったよなぁ!」
意外な答えに驚きましたが、あの当時、やはり僕らの遊びは一緒なんだな。こう思いました。
港を抱く磯山上に
太平洋を真下に見つつ
そして、校歌の最後。
来よ!来よ!
共に学ぼう!
「いい校歌だったと思いませんか?酔漢さん・・」
「先生、懐かしいすぺ!」
「くだまき」の原点に戻りました。
高校、恩師より暑中見舞いを拝読。
「だれ!俺は、一番手前の校舎の二階の一番東側の隅。冬は寒かったっちゃ」
そんな会話も思い出しました。
追記
「小学校の頃」に登場致します先生。5年、6年次7組の担任だった「エツジ」が鬼籍に入られたと聞きました。
詳細は酔漢も知り得ません。
当時、奥様も二小の先生でいらっしゃいました。
僕らの担任時にご結婚されておられます。
「バツ当番!だど!」
写真を見ながら、その声も思い出しました。
ここに、僕らが尊敬し大好きだった「阿部悦治」先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
「みやざきばっぱ」(ばっぱと言っては失礼にあたるとも思うのですが、これは僕らの後の世代がつけた渾名なのでした)が、朝の朝礼中です。
「こんどねぇ・・飛行機から小学校の写真撮るんだよ」
僕ら一斉に「ええええええーーーーーーっつ!」
「はい!静かにして!」
「記念の写真なんだ。今度の水曜、四時間目。半分の児童が校庭に出て、写真撮影なんだ」
「どんな風にして撮るのすか?」
「校庭に人文字作って・・・」
「人文字?何っしゃ?」
「皆して並んで校庭に『二小』ってわかるようにする・・・」
「並んだって、おれ達にはわかんねぇべ!」
とか、かんとか・・教室中大騒ぎ中。
「ナスカの地上絵って知ってる?」
この言葉で全員しーーん。
「ナス?・・・・・・カ?・・・・・茄子・・・・か・・・?」
おい、しんどう。目が遠くを向いてるぞ!
「南米にある、空からでねぇとわなんねぇ絵の、こったすべ!」
「酔漢、よく知ってるねぇ」
「んだってっしゃ!このめぇの『木曜スペシャル』でやってったっちゃ」
「んだ!おれも観たべ!『宇宙人のメッセージ』でねぇかって奴だべ!」
「そうそう、空からじゃなきゃ見えない訳!じゃあ水曜日は体操着と体操帽忘れない事!」
それから、数日後、全校集会が開かれまして、(何せ当時県下二位の児童数)説明が行われました。
校庭に、白線で1972の文字と二小の文字が書いてある。
それに合わせて、該当するクラスは並んで、撮影を待つ。
僕らは、「運動会」とも違う、この行事にわくわくしておりました。
雨天は完全中止でした。
「雨降んねければいいやな!」
これは全員の一致するところです。
我が4年5組は、1972の9の部分。
当日を待ちました。
冒頭の写真、これ枠を切ってまして、原版には酔漢実家がしっかり写っております。
学校まで1分とかからない距離なのでした。
朝6時。天候曇り。
酔漢は朝ご飯前に、校庭に出かけました。
先生が二人、白線を書いておりました。
「何だ!酔漢早ぇんでねぇか!」
担任になる前の「エツジ」が声をかけてくれました。(小学校の頃の5年、6年の担任)
「ほれ!ぼーっとしてねぇで手伝え!」
独特のだみ声は、ごうこ先生。(水泳のコーチでもありました)
「んでも、朝ご飯まだだおん!」と本気で答える酔漢に、「おめぇに悪さされたら、しゃねぇおん!黙って見てろ!」
その作業を見ておりました。
最後、ロープで囲って、立ち入り禁止の札が。放送はこうでした。
「本日、校庭でのロクモンス。ドッヂボールは禁止です!」
そして、4時間目を迎えます。
ごうこ先生から最後の注意。
「いいがぁ!何度も言ってけんど!空見上げんでねぇど!おめぇらの顔が映ってたら、おしょすいかんな!」
とは、言うものの・・・。
「ヘリコプターかや?」
「んだども、エツジはセスナだって言ってたべ!」
整列が終わって、僕ら全員体育座り。
すると、遠くの方から、飛行機のプロペラの音が聞こえて来ました。
「ほれ!来たど!上向くんでねぇど!」
飛行機が低空で飛んで来るのが解ります。
隣のしんどう君に「来たど!」と声かけます。
「こら!酔漢!上向いてんでないの!」すかさず、みやざきばっぱの声が聞こえます。
ブーーーーーン!
飛行機の音がやたら大きく聞こえます。
しかし、その瞬間。
ぶーーーん。
と遠くへ行く音に変わりました。
「ハイ!終了!」
あれ?あれ?・・・・・・・・・あれ?
「終わったのかや?」
「みてぇだど!」
「それじゃ、クラス毎に解散!」
ちょっと待ってくれ!
1時間半も校庭にいて、エツジは朝6時から準備して、見たい思いも我慢して・・・・。
撮影はほんの数十秒で終了でした。
「校庭ばぁ旋回すんでねがったのかや?」
「おらいもそう思ってたべ」
「あの音だどや。まっすぐ飛んで来て、まっすぐ帰っていった?」
「んだべな・・・」
お解りかと思いますが、それが冒頭の写真です。
これは、「こまっつあき実家」
自身の書斎の隅から出てきました。
塩竃市立第二小学校。昭和47年の上空写真です。
この写真には、酔漢。そして妹。コメントを下さいます「ゴエモンさん」「ある友人君」もいると思います。
尤も、当時、酔漢とは接点はございません。
そしてこの年、中原誠さんが大山康晴名人を破った年でもありました。
藤倉がまだ宅地開発中。「ひょうたん沼」もありますし、山が多い様子は解ります。
街中は夕方になりますと、独特の香りに包まれて・・。
「うの君」のクリニックのあったあたりは細い路地が入り組んでいて、確か、空地があったような・・。
そんな記憶がございます。
何にもまして、あの木造校舎。
シンボルでもあった「ポプラ」の大木もしっかり二本見えております。
こうしてみますと懐かしい風景です。
「酔漢さんは、あの校舎のどこにいたの?」
6月、ある二小OB(酔漢より8歳程上)の方と一献。
現在は大学の教授であり、シェークスピア研究の第一人者。なにせ、演劇にも卓越したその見解は大変勉強になります。
「あの一番奥の木造校舎。給食室と用務員室(当時の表札のままに表現しております)の真上でした」
「それじゃ、僕のいたときの隣の教室だね」
お会いする切っ掛けは、小学校のお話しをする為ではないのですが、やはりそこは塩竈人同士。小学校の話題になります。
「先生はロクモンスやりました?」(とても、やってそうには見えませんでした・・・が・・)
「やったよねぇ!面白かったよなぁ!」
意外な答えに驚きましたが、あの当時、やはり僕らの遊びは一緒なんだな。こう思いました。
港を抱く磯山上に
太平洋を真下に見つつ
そして、校歌の最後。
来よ!来よ!
共に学ぼう!
「いい校歌だったと思いませんか?酔漢さん・・」
「先生、懐かしいすぺ!」
「くだまき」の原点に戻りました。
高校、恩師より暑中見舞いを拝読。
「だれ!俺は、一番手前の校舎の二階の一番東側の隅。冬は寒かったっちゃ」
そんな会話も思い出しました。
追記
「小学校の頃」に登場致します先生。5年、6年次7組の担任だった「エツジ」が鬼籍に入られたと聞きました。
詳細は酔漢も知り得ません。
当時、奥様も二小の先生でいらっしゃいました。
僕らの担任時にご結婚されておられます。
「バツ当番!だど!」
写真を見ながら、その声も思い出しました。
ここに、僕らが尊敬し大好きだった「阿部悦治」先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
先輩でいらっしゃいますね。
タイムカプセルが埋められていたのは、人づてに聞いておりましたが、今はどうなっているのでしょうか?
塩竃の風景が本当に変わりました。
女郎山の信号灯の写真をのこしておけば!
後悔いたしました。
仕事の関係で南武線もたまに使います。中原によく出没します。
自宅は鶴見線の沿線にございます。国道より一駅海側になります。
横浜市内とは思えない程ひなびた駅で、道路から直接ホームに上がるような感じなので、朝は楽をしております(笑)
東京から遠ざかる方向に通勤しているせいか、朝晩の電車は、今のところはそんなに辛くはないです。
夏期休暇は帰省しますが、もう少し昼間の暑さが落ち着いたら、自宅周辺を自転車で走ってみようかと思っております。
以前お知らせいただいた「海苔を作っているご友人」
のお家の屋根が写っております。
画面の都合で、こっまつぁき実家はカットせざるを得ませんでした。(涙)
一緒に参加してたかもしれませんね。
妹は記憶がなくて・・・。
あの中学でしたら、どこの写真館でしたのでしょう。
少し気になりました。
その内飛行機のエンジン音だけが聞こえてきて・・・。
「飛行機どんなだったか観たかったなぁ」と言うのが本音です。
流行りだったんですか?
これ卒業アルバムには掲載されていないんですよ。
ですから、小学校同期でも知らない奴が大勢いるかもしれません。
回復しております。
詳細をお伝えできない(この場では・・)のですが。
川崎の海側ですか?
南武線沿線は私もよく知ってます。
「国道」って懐かしい風景に出会えます。が、治安状況がぁぁ。
御連絡、お待ちしております。
流行りでしたよねぇ。
飛行機の音にワクワクさせていた事を思い出しました。
この写真。
偶然見つけました。
キャビネ版でそのまま本棚の奥から出てきました。
航空写真は卒業アルバムの定番でした。
時代は変わり今は、一人一人の顔がはっきり分かるちょい上から集合写真です。
そして、アルバムにはこれまた、定番の住所録は消えました。
個人情報保護の今、PCではGoogleで航空写真が見られる時代、20年前とはかなり違います。
でも自分の家の屋根が写っていると嬉しいんですよね。
息子の卒業アルバムを見て時代の流れを感じました。
ちなみに、個人撮影のポーズは正面ではなく、やや斜めなんですよ。
もっと驚いたのは中学校では卒業式にアルバムはもらえず、夏休み(もう高校生)に写真屋さんに受け取りに行くシステムになっているんです。
航空写真だなんて、流行りの先端を行ってましたね。
航空写真は、高価なようですね。
職場にパイロットがいまして震災前は、燃料代を割り勘で乗せてくれました。腕が劣らないように又は操縦が荒くならないように人を乗せて飛行するそうです。
仙台空港はやられてしまいましたからね。
まぁ、飛行機のエンジン音楽が空襲じゃなくて良かったね。
当時、自分が何処にいたか、今でもはっきり覚えております。穂積の"ホ"の横棒の右角でした。
多分小学校の卒業アルバムには載っていると思いますが、モノの始末が悪いもので、実家の何処かに埋れてしまっております…。今度帰省した折にでも、本格的に捜索しようかと、我が身を振り返って、しみじみ致しました。
以下私信ですので、読み流して頂ければ…。
先月の下旬に神奈川県に引っ越しました。横浜市の職場に移るためです。住まいは川崎寄りの市内に構えました。人生で初めて、海の近くに住むことになりました。
…と言っても、砂浜ではなく、工場が立ち並ぶところのようで、まだそちらまで行ってみたことはありませんが。
毎日暑いので、お身体にはお気をつけて。
私も航空写真を撮った記憶があります。
多賀城地区は上を向くと『鼻の穴が見える!』
と言われましたよ(笑)
思い出し、なんとも言えない気分になりました。
ありがとうございます。
担任だった先生のご冥福をお祈りします。