酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

春・・その優しさに・・

2010-09-15 16:13:55 | 仙台中学校の頃の話
昭和53年9月。仙台市立五橋中学校は文化祭「五橋祭」の真っ最中。僕ら「天文クラブ」の面々は校舎のシンボルともいえるあの「ドーム」の中におりました。
初日、土曜日の午後です。
「午前中に来たのはやたら星に詳しい小学生の集団だけだったね」と、しょうじ君。
「せっかく、この赤道儀(僕ら自慢の?ほとんど自己満足の5cm反射赤道儀)ピカピカに磨いたのにな」と、すがわら君。
「午後に一回、太陽黒点の観測があっぺ、んだども・・雲が出て来たっちゃ」と酔漢。
「雲量8。ここで待ってても、しょうがない。教室さもどろう」と、さかい君。(「ドームの主」過去くだまきをご覧ください)
「教室さぁ戻っても、おそらく閑散としてんだろうな」
「毎年の事だべ。『天文クラブ』だど。人気があるとは思えねぇべ」
僕らは(旧校舎ですが)南校舎2階にあった展示教室へ戻りました。
「昼は、教室で取るか」
「誰か来るなんてないんだし」
とか話ながら教室の扉を開けました。
「酔漢先輩、さかい先輩。同じクラスだという先輩が、一人まってますよ」と後輩が話して来ました。
「さかい、誰か待ち合わせでもしてたのすか?」
「いや、俺は誰とも・・・してねぇぞ」
ふと、写真パネルを見ている女子生徒が一名。
「あれは・・・」
「んだ!」
独特なボーイッシュのようなヘアスタイル。すらりとした長身。
「あれは・・はるこ・・だべ」(当時の呼び名です。「なかむらさん」ではなかったのでした。おなじクラスの女子、そしてもんま君→『珍授業物語に登場してます』も確かそう呼んでおったかと記憶しております)
「珍しいなや、はるこがここさ来るなんて・・」
「どうした風の吹き回しだ」
こちらを向いたはるこ。いつもの笑顔で。(チャーミングという形容がピッタリだった)
「この教室、写真がいっぱいあるなと思って。廊下を歩いていたら、ガラスから向こうが見えなくて、そしたら写真がいっぱい貼ってあるから。模造紙の文だけかと思ったんだ最初・・でも写真でしょ、星・・綺麗だね。月ってこんなんだ!これって、さかい君達が撮ったの?どうやって?」
しまった!さかいに写真の話を振った!はるこお昼取る時間がなくなるぞ。さかい節(五橋OBの皆様、よく聞かされましたヨネ)が始まったら・・・。
「なかむらさん。よくぞ、よくぞ聞いてくれましたぁぁ。この月の写真はですね、こいつで撮ったんですよぉぉ(彼の愛機「ニコンF5」だったと記憶しております)。青根の近くまで行って、三脚で固定して、月齢13日を狙って、この望遠鏡に取り付けてですね。撮ったものなんです。月面には所謂『光条』と言われる光の筋がクレーターから出てましてですね。それが明るさや筋の形が微妙に変化するんですね。月面観測隊(彼が勝手につけた名前でした・・・)としては、月齢によるこの光条の変化をですねぇ。観測しているわけでして・・・」
「はるこ退屈してんでねぇか???」とふと彼女の顔を見ますれば・・・。
さかい君の話を聞き入っているご様子。
「天体写真ってこう撮るんだネ」といつもの笑顔で(本当に笑顔は素敵でした)頷いているのです。
僕は、さかい君の後でだまってその様子を観察?(いえ、一緒に聞いております。これでおそらく二十回目くらい・・)しておりました。
「酔漢君は、何か撮った?」
「俺はこれだけだっちゃ」
「これ、理科の教科書にあったよね」
「オリオン座の軌跡だべ。こいづで撮ったのっしゃ」
「どうやって?」
「家のベランダさ、三脚で固定して親父のカメラ(親父殿はアサペン派でした。愛機はF1でした。キャノンではなかったのです)で、露出を最大。シャッタースピードは開放にして、約1時間そのまま。風のない日でねぇと写せねぇのっしゃ。フィルムはコダックのASA400使った。んだども、はるこ。なしてここさぁ?天体さぁ興味あったのすか?」と酔漢の質問に対して。
「天体もそうだけど、最近写真っておもしろいなぁって・・。ある意味、さっきのさかい君の話でもそうだけど、天文クラブの人達の方が写真部の人達よりカメラ詳しいんだねって思った」
「おめぇ、教室であんまし写真の話してねぇっちゃ」
「本当に最近だもん。でもとりさん(→はっとりさん「モンテローザからの手紙」過去くだまきを参照ください)なんかには時々話てるんだ。じゃぁそろそろお昼だから。私戻るね。科学賞取れたらいいね。ありがとう」
と、彼女は教室を出て行ったのでした。
「酔漢、なかむらさんとは話よくするのか?」
「席が一学期は隣りだったからなや。でも写真だのは話してねぇっちゃ」
「俺もだ。でも、また写真ファンが同じクラスさぁいたのがわかってよかった。ヤクルトファンなら最高だけど」
「やっぱりお前はそこに行きつく・・」
僕らは遅い昼食を取ったのでした。
「何か撮りたいものとかあったのかや?」僕はこう思いながら彼女の笑顔を思い出しながら、弁当をほおばっておりました。

中学卒業後、8年がたったある日。酔漢は大学生でした。もっとも、大学入学時には2才年下の今の家内と同級生でしたが。塩釜の自宅へ一本の電話が。
「はい、酔漢でござりす」
「酔漢君久しぶりだね」
「その声はちばさん(中学同級生、なかむらさんとも一緒。合唱部でかなりの美声です。今でも変わってなかったなぁ)。久しぶりだね。どうしたの?」
「やまのべ君と合って、今度中学のクラス会を家でしないかって(家=「かき徳」です)。仙台にいる人集めてんだ。酔漢君は?」
「なんだや、なつかしぃなや。誰くんだすぺ?」
「とりさん(はっとりさん)には声かけたし、るーこ(かおるこさん)や、つじちゃん(なかつじさん)そして、はらだ君(長身のストライカー)(幻のサッカー部→五橋サッカー部の話過去くだまき参照)、やまのべ君とおおみや君も」
「みんなにあいてぇっちゃ」
「じゃぁ待ってるよ」
さて、当日。かき鍋の香が部屋に漂っている中。
「みんな久しぶりだっちゃ」
「おう酔漢久しぶり」
「酔漢君元気だった?」
「お前、まだ大学生してんのか?」と、はらだ君。(おい、いきなり痛いとこ突くなぁ)
「んだ。みんなして社会人だおんな。おれだけ学生のままだっちゃ」
少し遅れた僕は、なかむら(はるこ)さんの隣りに座りました。
「酔漢君、はるこねぇ。カメラマンなんだよ」
「噂には聞いてたけんど、本当だったんだなや」
「まだ駆け出しだよぉぉ」
「でも、今日はカメラ持ってきてないの?」とやまのべ君が突っ込む。(僕らの愛すべき「学級委員」でした)
「ねぇ、持って来ればよかった?酔っ払いの集団でも写真にすれば面白かったかなぁ」
全員爆笑。
しばし、本当においしい「かき料理」をつまみながらしばし談笑。
「酔漢君、今でも星見てるの?」
「はるこ覚えていたのすか?今は花山村で子供達さぁ、星みせてっちゃ」
「今でもやってるんだね」
「写真さぁ撮ったりしねぇけんど。流星とかはよく見えるおん。仙台より暗ぇし、見える星の数はダントツだべ」
「はるこは、何撮ってんのっしゃ?」
「人がやっぱり面白いよね。それといろんなとこに行ってみたい」
彼女の眼が輝いているのを、本当にうらやましく思いました。
「写真集なんかできたら、サインけねぇすか?」
「写真集かぁ・・夢だなぁ。でもいつかできるようになるんだ!」
それから、すぐ彼女がアフリカに渡ったと聞いたのでした。
このときが彼女と会った最後の日でした。
偶然か、この時だれもカメラを持ってきておらず。今にして思えば本当に残念でなりません。携帯にカメラが付くのもその後でした。

先週9月12日。仙台駅に降り立ちました。
街のあちこちからJAZZが流れております。
「やっぱすぃ仙台にはJAZZが似合うべ」
と街中をしばらく歩いております。丹治さんの研究室で待ち合わせしておりましたが、まだ時間はあったのでした。
平成22年度「五橋中学校同窓会」そして「昭和53年 卒業同期会」がその日行われる予定なのでした。
「おらいのクラスって誰来んだすぺ」と思いをはせながら会場着。丹治さんと一緒でした。
3年3組の受付へ向かいます。
「ちばさん、久しぶりだなやぁ。酔漢です」
「わぁ、酔漢君、本当に久しぶりだね。遠くからだもんね。元気?コンパル(担任の愛称。美術教師でありながら野球部監督というこれまた名物教師)も来てるよ!」
「先生元気なのすか?大きな病気したって聞いてたからっしゃ。して、6月は、親父死んだばりで出席でぎねぇぐて、悪かったなや」
「みんな逢いたがってたよ。ここに名簿があるから・・」
「3組は案外すぐねぇなや・・。たん君、おのでら君、おかべ君、さじま君、おおみや君・・・女子は・・と。ごとうさんに、えっちゃん、受付してた、ちばみほさん・・と・・あれ?」
「酔漢君どうしたの?」
「はるこは来てねぇのすか?」
「酔漢君、知らなかった?はるこ、はるこはねぇ・・・・天国・・なんだよ」

言葉が出ません

「天国って・・」
「もう五年位経ってる。彼女病気で。子供も三人いたし」
彼女に会いたかった僕は、自分の無精を呪いました。
就職してからというもの、同級生とは連絡を取ってなかったのです。しばらく頭が真っ白になりました。
しかしながら、三十数年ぶりに会う友人たちに懐かしさを感じ、恩師とも会い。楽しい時間を過ごしました。
三次会。国分町某居酒屋。隣りには同級生ちばさんがおります。
酔漢、足りない何かを感じるのでした。
ふと「はるこがいたら・・」と思うのでした。


本文中の写真は彼女の作品です。ご紹介いたします。
偕成社「世界の子どもたち タンザニア サバンナの小さな王様 ラジャブ 写真・文 中村晴子 2頁」からの引用、抜粋です。(1989年8月一刷)
子供達を見る彼女の表情を想像いたします。
やさしい笑顔はそのままにタンザニアの子供達にも伝わったことだろうと思いました。

取材でこまったのは、ラジャブの元気のよさ。とにかく一日中飛びはねているので、ついてあるくのが大変!(中略)「いつもどってくるの」というラジャブたちの言葉に、うしろ髪をひかれながらキウオ村をあとにしました。この本の取材の中で、キウオ村の小さな仲間たちに、生活上の知恵をたくさんおそわりました。アフリカの大地でたくましく生きているみんなに、心から「アサンテ・サーナ(ありがとう)」
(中村晴子 上記 あとがきより抜粋)

今でも、世界のどこかでカメラを担いで、写真を撮り続けているそんな彼女を想像してしまいます。プロ中のプロとなった彼女の話はどんなものだったのだろうか。

中村さん(現、下館さん)。先週同期会が開催されました。君を覚えていない同級生は誰一人おりませんでした。クラス全員、僕と同じ気持ちでした。
本当に長い間ご無沙汰しておりまして申し訳ございませんでした。
ごめんなさい。

そして、今日、塩竈にいる母に君の事を電話で話しました。

「(母の)友人の息子の嫁があなたとおない年で若くして亡くなったんだよ・・・」
数年前に聞いておった、その嫁というのが君の事だったとは。
「一番遠くにいると思っていた同級生が実は一番近くにいた」そして、ご主人が塩竈二小ご出身であることも。

今、キーボードの上に涙が落ちました。

冒頭の写真です。
ご紹介いたします。

Shiogama Art Weeks 2010
「中村ハルコ写真展Haruko Nakamura」
2010年10月13日(水)~24日(土) 入場無料

「光の音Ⅰ海からの贈り物」
場所・ふれあいエスプ塩竈 東北本線塩釜駅より徒歩1分 塩竈市玉川9-1
TEL 022-367-2010
時間10時~18時(土、日は17時まで。18日休館)

「海からの贈り物」
場所・ビルドスペース(旧亀井亭) 仙石線本塩釜駅より徒歩5分 塩竈市港町2-3-11
TEL 080-3198-4018
時間11時~17時 18日休館

関連ブログ他もまたご紹介いたします。
塩竈アートウィークス2010「中村ハルコ写真展in塩竈」
中村ハルコ写真展:その背景と想い

皆様是非お出かけください。
彼女の優しさに触れてください。名前のように「春の笑顔」の似合う同級生でした。   

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16 コメント

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うの様へ (酔漢です )
2011-01-30 17:06:37
三十年以上の時間が過ぎておりました。多くの友人に逢えた時間は貴重なものでした。
あの節はありがとうございました。
うの様が覚えていらしてくれたこと大変うれしく思いました。
帰省した際、馴染のすし屋へ行く道すがら「クリニック」の前を通ります。
「元気なのかなぁ」と思うのですよ。
コメントありがとうございました。
ハルコさんと過ごした時間は、うの様の方が長いのですよね。それだけ多くの思いでが共有できているのですね。
お察しいたします。
塩竈にいらっしゃるのも不思議な縁ですよね。
お会いできる日を楽しみにしております。
また、ここに遊びに来てくださいネ。
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ハルコを想う (うの)
2011-01-29 12:44:20
酔漢殿。同窓会でちょっとお会いしましたね、覚えてますでしょうか?さて、ハルコとのエピソード、不覚にも泣いてしましました。私も彼女に対しては酔漢殿と同じような思いがありました。縁あって塩釜で仕事をするようになり、近所で知り合った方とある披露宴で同席となり、「先生、確か五橋だったよね?」と声をかけられ、「そうですよ」と答えると「じゃナカムラハルコ知ってる?」と聞かれ思わず「知ってるも何も小学校も同じクラスで、仲良かったですよ」と驚いて答えました。すると彼は「彼女、俺の弟の嫁さんなんだよ」って言ったのです。何という偶然に驚きましたが、すぐに彼女の病気のことも聞かされ、言葉を失いました。私も、彼女を含め中学の友人たちと疎遠にしていた自分を恨んだものでした。今回の同窓会をきっかけに、彼女を知る人たちから、昔のいろいろなエピソードを聞いて、彼女との空白の時間を少しずつ埋めておりました。またひとつ、中学時代の彼女の姿を想い浮かべられるお話を紹介していただいてありがとうございました。
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印象に残った写真 (丹治)
2010-12-31 12:40:12
酔漢さん、
中村ハルコさんの写真を見た感想を投稿します。
すっかり遅くなってしまったこと、御容赦下さい。

印象に残るのは・・・
中村さんが
「生命の受継ぎ」「生命の誕生」ということに
ものすごく思い入れの強い方だということです。

ご自身の出産を記録に残す写真を見て、
そのことを強く感じました。

波打ち際に立つ身重の女の人たち、
同じく波打ち際に立つ赤ちゃんを抱いた女の人たち。
これ写っている人物も並び方も同じですね。

あと、解体した後の鳥の骨に、
その背景で料理をしているお婆さん。
これだって考えようによれば、生命の継承です。
「私が生きるためにあなたの命をいただきます」。
おばあさんでなくて鳥の骨に焦点が当っていることが印象的でした。

あと、夕方の薄暗い時間に遅めのシャッター速度で撮ったからでしょうか。
おばあさんに追いかけられる三羽の鳥の羽のボケ具合が違っていましたね。
おばあさんに近いほど羽のボケ具合が激しかったと思います。
おばあさんの足もボケていたし、動きのある写真ですね。
一番近くの鳥が、前の写真では骨になったのでしょうか。

もう一枚。
写っている女の子は一人だけなのに、
同じポーズで写っている影は二つ。
「二人いるのよ」ということを影で分らせる。
さすがはプロです。
「うまい!!!」と思いました。
僕なら二人とも撮っちゃったでしょうね。
子どもを見守る中村さんのやさしさが感じられます。

それにしてもこの感想、元気な中村さんに聞いてもらいたかったです。
今年の同窓会で、「こちらが中村さん」と紹介する酔漢さん。
「初めまして、丹治と申します」。
「丹治さんは初めてかもしれないけど、私は先輩のことしってます」。
こんなやり取りがあったかもしれませんね。

改めて中村ハルコさんの黄泉路の平安を御祈りします。

今年最後の投稿が、何やらしめっぽくなってしまいました。

酔漢さん、どうか佳い御年を御迎え下さい。
いつかまた僕んちでしこたま飲んで、
"I'm dreaming of a white Oshogatsu!"
か何か歌って二年参りに行きたいね。


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東京に行きます。 (酔漢さん)
2010-09-27 17:42:45
こんばんは。
明日から3日間、東京に行くことになりました。

有楽町のふるさと情報プラザで塩釜の物産を展示・販売するためです。

この場所を借りて、中村ハルコ写真展も宣伝したいと考えています。

パンフレットなどもって行きますので、東京にお住みの友達の方などにご紹介いただければと思います。

よろしくお願いします。
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ひー様へ (酔漢です)
2010-09-22 18:10:53
ご主人(下館先生)と平間さん(写真家)とのトークショー興味があるのですが、今の仕事が佳境に入っている時期ですので帰塩が出来なくなりました。
是非お出かけ下さいませ。
どんな写真展なのでしょうか。
自身が故郷にいないことが残念でなりません。
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林様へ (酔漢です)
2010-09-22 18:07:25
恰好いい人でした。
男子とも対等に遠慮なく話していた彼女でした。こんな形での再会となりましたが、多くの思い出がございます。
塩竈は遠いですよね。
少しでも、彼女の作品に触れて頂ければと思います。
ありがとうございます。

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トム様へ (酔漢です)
2010-09-22 18:02:44
彼女の話は別な視点で「くだまき」にするつもりでおりました。が、早すぎる死に自分でも気持ちの整理に時間が掛かりました。
文化祭での出来事が鮮明でしたので、記事にしました。
もっといっぱい話をしていればと、本当に今更ながらの気持ちです。
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silent-holly様へ (酔漢です)
2010-09-22 17:59:20
お返事遅れました。申し訳ございません。
明日とのコメントでしたので、どの様にご連絡をいたしましょうかと思案しておりました(汗)
本日、丹治様からのご厚意により塩竈市の案内を書簡で頂きました。中村さんの姿が写真になっておりました。
中学時代から変わらぬお姿です。
ありがとうございます。是非ご覧ください。
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楽しみですね (ひー)
2010-09-19 19:09:58
相変わらず、詳細な記憶でその時の様子が窺えます。

運命の一言では片付けられませんが・・・
早かった死ではありますが、彼女のその残した記録と想いを見てきたいと思います。
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10月でしたね (silent-holly)
2010-09-19 15:30:38
明日なんて書いたけれど、写真展は10月でしたね

酔漢さんたちの学生時代は素晴らしい思い出がいっぱいですね
写真展、楽しみです
返信する
友を思う気持ち ()
2010-09-18 22:33:24
「中村ハルコさん 写真」という言葉は新聞かどこかで目にしていました。

酔漢さんの文章でそれが生きたものになりました。
涙が出そうです。

10月は行事が多いけれど時間を作って塩竃で
写真と向かい合って来たいです。
返信する
Unknown (トムくん)
2010-09-18 18:31:01
プロカメラマンへのきっかけが自分たちの写真だったかもしれないというのは感動的でした。
44歳で亡くなられたのは早過ぎたですね。
酔漢さんの優しさあふれる文章に打たれました。
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こんばんは (silent-holly)
2010-09-18 00:41:12
お久しぶりです

ぱるえさんのブログで酔漢さんのコメントを読んでおじゃましました。

中村ハルコさんの写真展のポスター、何気なく見ておりましたが、同級生でいらしたのですね。
明日、見に行ってきますね
返信する
鈴木貴之様へ (酔漢です)
2010-09-16 10:46:30
お返事ありがとうございます。先にコメントをしてくださいました丹治さんは塩竈在住で、僕や下館晴子さんより一つ上の五橋卒業生です。また、丹治さんのお母様は下館さんのお母様と懇意にされているともお聞きいたしました。私の母も同様でした。
写真展を今、多くの友人達に紹介しているところです。
塩竈に自身がおりますれば。それが叶わないのも残念でなりません。
盛会であることを、湘南の地より祈念いたしております。
返信する
ありがとうございます。 (鈴木貴之)
2010-09-16 09:55:50
おはようございます。

中村ハルコさん。

すがわらじゅんいちさんという方を通しての、写真での出会いだったのですが、何か不思議な縁に発展しています。

私はすがわらじゅんいちさんサイドからのこの写真展(塩釜アートウィークス2010)の意味をご紹介したのですが、酔漢さんからの視点からもぜひ私のブログでも紹介させていただきたいと思います。

一つの写真展が、何か大きなものに発展しそうな予感がします。

私もこの写真展が成功するように頑張ります。
ぜひ、酔漢さんさんも今後ともお力をお貸し下さい。

よろしくお願いします。
返信する
ご冥福を祈ります (丹治)
2010-09-15 16:44:53
時分の知っている人に先立たれるほどやり切れぬことはありません。
これは自分よりも年上だとか年下だとかいう問題ではありません。

去年の夏、弟と同期の友人(高校の後輩)が亡くなりました。
同窓会の飲み会で顔を合せてから、半月と経っていなかったのです。

あと旧制高校の寮の「自治」ということが何なのか、ある人の本を読んではっきりと分りました。
何年か前、初めて参加した東京寮歌祭でその方の出身校の先輩に「○○さんはおいでになってませんか」と尋ねたら、
「あいつは死んだ。元気だったら、君の話を聞いて喜んだはずだ」。

ある時期は一緒に過しても、人はそれぞれの人生を過ごします。
「消息を尋ねよう、尋ねよう」と思っていも、忙しさ、慌しさにまぎれて果せぬことはままあるものです。

酔漢さん、
ご自分を「無情だ」などと責めてはいけません。
たまたま消息を尋ねなかっただけで、
酔漢さんは中村さんのことをちゃんと覚えている出ないですか。

人は二度死ぬといいます。
一度目は生物学的な死。
これは誰しも逃れることができません。
二度目の死とは、その人が忘れ去られてしまうことです。
人々の記憶から消え去らぬ限り、人は永遠に生き続けるのです。

その意味で、中村さんは二度目の死を迎えることはありません。
五橋の卒業生で中村さんという写真家がいたのだということを、
これからも語り継いでゆきましょう。
それが中村さんへの何よりの供養になると思います。

一人の仲間を亡くしてしまった昭和五十三年卒業の皆さんの胸中、
察するに余りあります。
そして「中村さんの黄泉路の安かれ」と、
心からお祈り致します。
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