仙台市立五橋中学校 昭和五十三年卒業生 同期会。
9月10日、市内ホテルで開催されました。
震災のあった今年。
「あいつは無事であっただろうか」
気がかりでございました。
皆の無事を聞き、そして安心したい。
酔漢の本音でございます。
同期会開催が午後7時。先立ちまして、同窓会が催されました。
また、いつものように丹治さんとの待ち合わせ。
ホテルのロビー。
「久しぶりぃぃぃぃ・・・だっちゃ!」
「おう!」
いつもの僕らの挨拶は、これは殆ど三十年以上変わらないもの。
「先輩の学年は誰か来んのすか?」
「かめいが来るって話はあっけど・・わかんねぇな」
と、しばし、ロビーで話しております。
「おらいの学年は同期会があってっしゃ。そこに直接いぐ奴が多いんでねぇかや」
「何人位集まんだ?」
「まだしゃねぇ。去年が百周年記念だったから大勢集まったけんど、どうだかなや・・」
と話ている間に開演間近。
「おう酔漢君!来てたの!」
「さうら君すか!なんだやイギリスから戻って来たばりで・・・」
「そうそう、午前中に着いた」
「相変わらずハ-ドだなや」と。
その後ろから。
「すいかぁぁん!元気ぃぃぃ」の声。
我らが愛すべき生徒会長のご登場。
彼と握手。
そして、うの君。
「ごぶさたぁぁ!『くだまき』読んだ。相変わらずだね」
「晴子の話さぁ、コメントありがとう。もらい泣きしたっちゃ」
閑話休題
彼とのその後の話は「くだまき」本編で語ります。(次々回予定)
僕は、中学時代あまり話すことのなかった彼ですが、今は彼と思いを共有している実感がございます。
不思議なものです。
三十年以上も経ってから・・・。
「酔漢くぅぅん!お久しぶりぃぃ」
「ちばさんでねぇか!」
「元気だった?塩竈のご実家は?」
「家は、さうら君とこより高台さあっから、大丈夫だったっちゃ。それより稼業の方がこれから大変だなや。心配したっちゃ」
彼女の実家は仙台市内、老舗の「牡蠣屋さん」。
「そうなんだよ。これからねぇ」
彼女の不安そうな顔を見て、これから先は聞かなかった酔漢でございました。
同窓会での乾杯。
僕らはビールを注ごうといたしました。が!そこでの一言。
「えっ!ビール?最初からこれで行かなきゃぁぁ!」
と、さうら君がしっかり握っておりますのは。
「浦霞 禅」
「僕がいるのにぃぃ」
「そいづは気づかねがった。実は昨日(この前のブログを是非ご覧ください)『蔵の華』美味しくいただいたっちゃ!」
二日続けての「浦霞」
「やっぱしうめぇぇぇぇ・・・」
という同窓会。
会場を後にして、同期会へ向かった僕ら一行。
当時のクラス別の座席。
はたして、我がクラスと言いますと。
かつさだ君、あっちゃん。ふみちゃん。たん君と、ちばさん。
いつものメンバーと思いきや。本当に懐かしい顔が。
「とりさんでねぇか!なんだや元気すか?」
「酔漢君も・・・何か変わってないね」
「成長が止まってんでねぇか?最近そう思うのっしゃ。でもいつぞやのアルプスの絵葉書は感動したべ」
「そうだ!送ったんだよね」
「モンテローザの写真が見事だっちゃ。まだ実家さぁあって大事にしてんだおん」
この経緯は「くだまき」にしております。
「下駄を鳴らして奴が来た!モンテローザからの手紙 2008年11月27日」
「んでも、とりさん、『日本野鳥の会』の活動はまだやってのすか?」
「まだ、時々、見に行くよ。山にも少し登るんだ」
「自然が好きなのは、変わってねぇなや」
「蒲生干潟がね。今度の津波で・・・まだ行ってないし。行けないし・・」
そうだった、彼女は「蒲生の干潟を守る会」にもいたんだった。
「蒲生干潟」は一体どうなってしまったのだろう。
彼女の思いと共に、干潟の事が少し心に引っ掛かりながら、藤沢へ戻りました。
9月14日。読売新聞。夕刊。酔漢が帰省から戻った翌日の新聞。
「タイミングが良すぎる!」
「あれ?日本一低い山だったんでねかったけか?」
そんな疑問はさておきながら。
そうだ「ひーさんの散歩道」にあったけ。
「元祖日本一低い山:日和山と蒲生干潟」
この記事には在りし日の「日和山」と蒲生干潟の様子が書かれております。
「干潟は本当に元に戻ることがあるのかなぁ」
彼女の言葉を思い出した酔漢でございます。
この冬に飛来する野鳥達は、変貌した風景に驚きはしないだろうか。
そして、日和山をも呑みこんだ(日本一低い山と言うものの・・)津波の大きさを改めて思うのでした。
跡形もない。
夕刊を読みながら、この山へ登った日の高校時代を思い出しました。
自転車を担いでの登頂でした。
同期会には百名近い人数が集いました。
去年参加した者、そうでない者。
「震災があって、みんなどうしているのかなって思って・・」ひろこちゃんがそう言ってました。
幸いにして、震災での犠牲者は無かった様子。
安心したのは事実ですが。
「実家(旧桃生郡)が津波の被害にあって、今両親が二階に住んでるの」まりちゃんの言葉。
宮城にいる以上、そうした人が大勢いることを改めて実感いたしました。
二次会の席。
ふと、我らが愛すべき生徒会長君が酔漢の隣におります。
「おい酔漢、俺たち来年50歳だろ」
「あたりめぇだ。何っしゃ急に」
「この熱気は・・来年50歳の連中か?」
「でも、年は取るもんだべ!」
「だから・・そう考えるとだな。『いい年した中年の飲み会』に見えなくも・・ない・・・な!」
その言葉には大声で笑った、酔漢でした。
国分町を集団で歩いてます。
「嘗ての庭」?ながら、その集団はコンパ帰りの大学生を圧倒するほどのエネルギーを発しております。
「来年もヤ・ル・ゾぉぉぉぉ」
誰ともなく声が上がります。
「よぉぉーーーーしぃぃぃ」
誰ともなく声が上がりました。
9月10日、市内ホテルで開催されました。
震災のあった今年。
「あいつは無事であっただろうか」
気がかりでございました。
皆の無事を聞き、そして安心したい。
酔漢の本音でございます。
同期会開催が午後7時。先立ちまして、同窓会が催されました。
また、いつものように丹治さんとの待ち合わせ。
ホテルのロビー。
「久しぶりぃぃぃぃ・・・だっちゃ!」
「おう!」
いつもの僕らの挨拶は、これは殆ど三十年以上変わらないもの。
「先輩の学年は誰か来んのすか?」
「かめいが来るって話はあっけど・・わかんねぇな」
と、しばし、ロビーで話しております。
「おらいの学年は同期会があってっしゃ。そこに直接いぐ奴が多いんでねぇかや」
「何人位集まんだ?」
「まだしゃねぇ。去年が百周年記念だったから大勢集まったけんど、どうだかなや・・」
と話ている間に開演間近。
「おう酔漢君!来てたの!」
「さうら君すか!なんだやイギリスから戻って来たばりで・・・」
「そうそう、午前中に着いた」
「相変わらずハ-ドだなや」と。
その後ろから。
「すいかぁぁん!元気ぃぃぃ」の声。
我らが愛すべき生徒会長のご登場。
彼と握手。
そして、うの君。
「ごぶさたぁぁ!『くだまき』読んだ。相変わらずだね」
「晴子の話さぁ、コメントありがとう。もらい泣きしたっちゃ」
閑話休題
彼とのその後の話は「くだまき」本編で語ります。(次々回予定)
僕は、中学時代あまり話すことのなかった彼ですが、今は彼と思いを共有している実感がございます。
不思議なものです。
三十年以上も経ってから・・・。
「酔漢くぅぅん!お久しぶりぃぃ」
「ちばさんでねぇか!」
「元気だった?塩竈のご実家は?」
「家は、さうら君とこより高台さあっから、大丈夫だったっちゃ。それより稼業の方がこれから大変だなや。心配したっちゃ」
彼女の実家は仙台市内、老舗の「牡蠣屋さん」。
「そうなんだよ。これからねぇ」
彼女の不安そうな顔を見て、これから先は聞かなかった酔漢でございました。
同窓会での乾杯。
僕らはビールを注ごうといたしました。が!そこでの一言。
「えっ!ビール?最初からこれで行かなきゃぁぁ!」
と、さうら君がしっかり握っておりますのは。
「浦霞 禅」
「僕がいるのにぃぃ」
「そいづは気づかねがった。実は昨日(この前のブログを是非ご覧ください)『蔵の華』美味しくいただいたっちゃ!」
二日続けての「浦霞」
「やっぱしうめぇぇぇぇ・・・」
という同窓会。
会場を後にして、同期会へ向かった僕ら一行。
当時のクラス別の座席。
はたして、我がクラスと言いますと。
かつさだ君、あっちゃん。ふみちゃん。たん君と、ちばさん。
いつものメンバーと思いきや。本当に懐かしい顔が。
「とりさんでねぇか!なんだや元気すか?」
「酔漢君も・・・何か変わってないね」
「成長が止まってんでねぇか?最近そう思うのっしゃ。でもいつぞやのアルプスの絵葉書は感動したべ」
「そうだ!送ったんだよね」
「モンテローザの写真が見事だっちゃ。まだ実家さぁあって大事にしてんだおん」
この経緯は「くだまき」にしております。
「下駄を鳴らして奴が来た!モンテローザからの手紙 2008年11月27日」
「んでも、とりさん、『日本野鳥の会』の活動はまだやってのすか?」
「まだ、時々、見に行くよ。山にも少し登るんだ」
「自然が好きなのは、変わってねぇなや」
「蒲生干潟がね。今度の津波で・・・まだ行ってないし。行けないし・・」
そうだった、彼女は「蒲生の干潟を守る会」にもいたんだった。
「蒲生干潟」は一体どうなってしまったのだろう。
彼女の思いと共に、干潟の事が少し心に引っ掛かりながら、藤沢へ戻りました。
9月14日。読売新聞。夕刊。酔漢が帰省から戻った翌日の新聞。
「タイミングが良すぎる!」
「あれ?日本一低い山だったんでねかったけか?」
そんな疑問はさておきながら。
そうだ「ひーさんの散歩道」にあったけ。
「元祖日本一低い山:日和山と蒲生干潟」
この記事には在りし日の「日和山」と蒲生干潟の様子が書かれております。
「干潟は本当に元に戻ることがあるのかなぁ」
彼女の言葉を思い出した酔漢でございます。
この冬に飛来する野鳥達は、変貌した風景に驚きはしないだろうか。
そして、日和山をも呑みこんだ(日本一低い山と言うものの・・)津波の大きさを改めて思うのでした。
跡形もない。
夕刊を読みながら、この山へ登った日の高校時代を思い出しました。
自転車を担いでの登頂でした。
同期会には百名近い人数が集いました。
去年参加した者、そうでない者。
「震災があって、みんなどうしているのかなって思って・・」ひろこちゃんがそう言ってました。
幸いにして、震災での犠牲者は無かった様子。
安心したのは事実ですが。
「実家(旧桃生郡)が津波の被害にあって、今両親が二階に住んでるの」まりちゃんの言葉。
宮城にいる以上、そうした人が大勢いることを改めて実感いたしました。
二次会の席。
ふと、我らが愛すべき生徒会長君が酔漢の隣におります。
「おい酔漢、俺たち来年50歳だろ」
「あたりめぇだ。何っしゃ急に」
「この熱気は・・来年50歳の連中か?」
「でも、年は取るもんだべ!」
「だから・・そう考えるとだな。『いい年した中年の飲み会』に見えなくも・・ない・・・な!」
その言葉には大声で笑った、酔漢でした。
国分町を集団で歩いてます。
「嘗ての庭」?ながら、その集団はコンパ帰りの大学生を圧倒するほどのエネルギーを発しております。
「来年もヤ・ル・ゾぉぉぉぉ」
誰ともなく声が上がります。
「よぉぉーーーーしぃぃぃ」
誰ともなく声が上がりました。
酔漢様のお名前を見て、「知ってる」と呟いてしまいました。私は酔漢様より7歳下です。妹様は2学年上で中学校のテニス部の先輩です。もっとも、妹様は私を覚えていないと思いますが。
しかも、ご実家のお向かいさんは昔、海苔を作っていて海苔屋だった我が家と交流があり、そこの娘さんがよく遊んでくれました。その娘さんと酔漢様の妹様はテニスのペアを組んでいたと記憶しています。
酔漢様は多分、遠慮して何も記載しなかった、と思うのですが。
ご実家にお送り先を伺っても大丈夫でしょうか?
ご迷惑でなければ、ですが。
実は、行こうと思ってました。
気になっていたのです。
無くなりましたね。写真を見て涙が出てきました。
記録しておいて良かったです。
記録しておこうと思った建物や風景はあの地震で無くなってしまいました 。 やはり思ったときにすぐ写真を撮るべきでした。
同期会は、話が弾みますね。
3年間クラスが一緒にならない者も多いものですが、当然顔は知っています。だから他人では無いのですね。
年月は同じ時間を共有した者を昔の中学生に 戻らせてくれたのかも知れませんね。
声をかけましたが、吠えられましたぁぁ。
犬は好きで、実家では秋田犬を飼ってました。
今、実家は、母の一人暮らしです。
元気ですよ。
お気遣いありがとうございます。
妹は今、千葉にて子育てに夢中の日々ですヨ。
事後、ご容赦下さい。
想像はしておりましたが、新聞記事を見て、声が出ませんでした。
読売夕刊は宮城では読めなかったと記憶しています。
宮城の人達も案外知らないのではないか。こう考えました。
ひーさんの記事をじっくり拝読し、やはりさりげない風景の記録が、時として大きな意味を持つことを、改めて知りました。
五橋中の同窓会&同期会は楽しそうだっちゃねぇ~
さてさて、酔漢さん達が国分町で盛り上がっていたその頃、オイラと家族はガレキも片付き
あたり一面なんにも無くなった菖蒲田公園駐車場で「復興まつり」の盛大な花火を見上げてましたよ ^o^v
そうそう、大阪天保山に次ぐ日本第二位の低山だった蒲生の日和山…
【標高6.05m、明治42年(1909)頃地元民有志により築造。天保山は標高4.53m、天保2~4年(1831~3)頃航路浚渫残土で築造】
地震と津波で跡形も無く消えちゃいましたね…
海風と八合目辺りに鎮座してた川口神社のたたずまいがなかなかの風情だったけど…残念 _ _;
ところで、このことは国土地理院が公開しているウェブサイト
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震による被災地の空中写真(http://saigai.gsi.go.jp/h23taiheiyo-ok/photo/photo_dj/index.html)」
で空からも確認できますよ。該当する写真は、
http://saigai.gsi.go.jp/h23taiheiyo-ok/photo/sendai/thumb/C03/CTO-2010-4-C03_0089.jpg と
http://saigai.gsi.go.jp/h23taiheiyo-ok/photo/sendai/thumb/C03/CTO-2010-4-C03_0090.jpg
ちなみに、代ヶ崎、吉田、花渕の写真は同じく
http://saigai.gsi.go.jp/h23taiheiyo-ok/photo/sanrikukaigan/thumb/C32/12019.jpg です。
お元気でいらっしゃるご様子に安心いたしました。仕事がとてもハードではないかと思っておりました。
上記アドレスのご紹介、ありがとうございました。
翌日の航空写真に声が出ません。
何度も見ていた風景になってしまいました。
頭を振って、かつての風景を思いだそうとしている自分です。
同期会は、「どうして、今さら中学に帰属している自分がいるのだろう」
大声で笑いながら自問を繰り返しておりました。50近くなってから、多くの旧友に会うことが出来、また、新しい出会いもありました。
新鮮な気持ちを持つことができました。
ぐずらさんとひーさんも同窓会が御縁と聞きました。
次回、そんな出会いを語ろうかと思っております。