そぞろに牡蠣の恋しい季節が到来しました。
考えれば、「くだまき」で「牡蠣」そのものを取り上げたことがなくて、改めて「なしてだべ」と今さら思う次第です。
過去「くだまき」では、「ウィスキーの話」であるとか「ソウルフードの話」とか語っておりまして、ところどころに登場いたします「宮城の牡蠣」です。
4年程前に無くなってしまいましたが、北浜に「松木牡蠣店」がありまして、そこに買い物を頼まれた酔漢でした。
「牡蠣かってきてけさいん」と母親から頼まれると、北浜のあの急な階段さえ駆け足になってしまいます。
鍋を一つ持っていきます。冬の寒い午後。
その鍋に剥き立ての牡蠣を入れてもらうわけです。
鍋一杯の剥きたて牡蠣が、幾らしたのかは記憶がないのですが、そのときにお駄賃と称して、口の中に牡蠣を一個入れてもらいます。
これが欲しくて「おつかい」に行くわけです。
なんとも言えない甘い香りが口中に広がります。
冬にしか味わえない海の幸でございました。
ニューヨークに行きましたのが二月の半ば。その寒さは半端ではございません。
「地下鉄57丁目駅」はカーネギーホールの近くでした。その隣の隣「ウェリントンホテル」におりました。
その近くの「オイスターバー」には3回ほど出かけました。
広島出身の奴とよく行きましたが、そこではよく「広島の牡蠣」と「宮城の牡蠣」との比較について、「あーでもなく。こーでもない」と話ました。
そこで出された料理が「牡蠣のウィスキー蒸」スコットランドでは、牡蠣にそのままシングルモルトをかけて頂きます。
これは「スコッチの話」でも語りましたが、「アイラ系モルト」が一番合います。
日本で簡単に手に入ります「ボウモア」はいいのですが、香としては「ラガ・ヴーリン」がいいかも。
ピートの香が強い方が合うような気が致します。
ニューヨークを去らなくてはならない前日。
そのバーのマスターが牡蠣を二個サービスしてくれましたが、これがグロテスクな牡蠣。
「緑色の部分だけがやたらとでかい」(全体面積の三分の二程もありました)
「何っしゃ?」と尋ねまして、答えてくれたのですが、そこを理解できるほど英語力のない酔漢でした。
一緒にいた友人が解説してくれまして。
「どうやら、大西洋の某所から送られた牡蠣」との事。
これがまた甘くて、香も良くて、日本では味わえない牡蠣でした。
名前が分からなくて残念です。
生牡蠣に合う酒。これは「日本酒」が一番。さうら君に聞きたくて、いつも忘れてしまうのですが、「浦霞 禅」は牡蠣の為に誂えたような酒。
酔漢はそう思います。
手前味噌。そうかもしれませんが、この酒と宮城の牡蠣との相性はベスト!
世界中の方々に紹介したいくらい!
ワインのソムリエがそぞろに「牡蠣に合うシャブリ」と話しておりますが。
「ワインという酒そのものが牡蠣とは相性が悪い」こう言っていいと考えます。
ウイスキーと日本酒。要は、「穀物を主とする醸造酒または蒸留酒」が良いのだと思うのです。
ですからビールはその範疇に入ります。
ですが、ビールはさらっと流すのがいいのであって、口の中に何時までも牡蠣と一緒に含んでおりますと、嫌味な香りが鼻についてまいります。
長く楽しむのであれば、ウィスキーか日本酒。
これは譲れません。
長くなりました。
カテゴリーが「仙台中学校の頃の話」です。決して牡蠣の話ではなかったはずですが、深い御縁がここにございます。
9月。僕らの中学校同期会が催されました(何度も語ったところです)。
我が三組。僕らが、気軽に参加出来るのは、彼女のおかげなのです。
「みほちゃん」
彼女は仙台市内にございます老舗の牡蠣店のお嬢様でございます。
彼女は、僕らが気遣いすることなく、同期会の仕事を引き受けているのでした。
「酔漢君はね遠いところからわざわざ来るんだから、何もしなくていいのよ」と、「何か手伝う事はねぇのすか?」と尋ねた酔漢に、いつもこう応えてくれます。
「私はね、中学時代楽しかったからね、皆に会えて。だからなんだよ。実家も仙台だし」
友人同士で交わした色紙とか当時の物をカバンに抱えて参加するのでした。
「酔漢君。今年もあえたねぇ。どう塩竈のご実家は無事だった?」
「おらいは何んともねぇ。んだども『みほちゃん』こそ実家(稼業)の方は何っじょなのっしゃ?」
「産地がねぇ、あの通りの被害だったからねぇ。もう地元の生産者の方たちのお見舞いに行ったんだけど、どう言葉をかけていいのか・・・」
彼女はそこから先は何も言わなかったのでした。
「家はね、今料理も方は少しだけでも出しているんだ。牡蠣フライとか。でも冬が来て、生牡蠣は宮城のは出せないだろうな。いつになるんだろう・・」
写真は二枚とも「ひーさん」からお借り致しました。
「ひーさんの散歩道」では牡蠣のことが書かれております。
「松島のカキ養殖と塩釜」
ここには、塩竈で行われておりました、牡蠣養殖の歴史が少しばかり紹介されております。
その歴史を紐解きます。
長い年月が経って養殖が定着しておりました。
簡単にご紹介いたします。
600年代に松島湾野々島で内海庄左衛門が天然に大量のかきが付着しているのを発見し,これを採取するとともに天然産の稚貝を拾い集め適当な海面へ散布し育成したのが始まりと言われています。
1800年代には天然のかきを採取するだけで,その後天然のかきは減少の一途をたどったため,貞山運河入り口の海面に大量に発生する天然稚貝を拾い集め,適地へ移植・保護することを始めました。また,伐採し海中に落ちた木に数年かけてかきが付着していたことから,松の木を海中に立てて稚貝を付着させ,翌年適した場所へ移動し,数年後に採取するようになりました。
1800年代後半には,広島県から教師を招き養殖技術の導入を図りましたが,定着はしませんでした。
その後,塩釜市に宮城県水産試験場が設立され,かき養殖試験が本格化し,従来方式や広島方式からさらに進んだ「す立て棒刺棚」を作り出し,松島湾でのかき養殖が発展していきました。
1900年代前半に神奈川県でかきの垂下式養殖法が開発され,日本各地へ普及していきました。また,種ガキ採苗にかき殻を使った垂下式採苗法が考案され,世界各地へ種ガキを輸出するようにもなりました。
さらに,水深が深い場所での筏式養殖法,延縄式垂下養殖法が次々と開発され,現在行われている宮城県のかき養殖の基礎ができあがりました。
(上記、「宮城県におけるかき養殖の歴史」より抜粋→宮城県ホームページ)
そして、どうしても、忘れてはいけない人物が一人。
「料理の鉄人」はご覧になられた方も多いかと存じますが、その解説者のお一人でございました「岸 朝子先生」のお父様が、陸前の牡蠣養殖に多大な貢献をされておいででございます。
上記にもございます「垂下式養殖方法」は岸先生のお父様「宮城新昌氏」が研究開発したものです。
石巻万石浦にはその碑もあるそうですが、碑が津波で被害にあい、この程建て替えられております。
先月、読売新聞「昭和の証言」に岸朝子先生の手記が掲載されましたが、その記事を拝読して初めて知った酔漢でございました。
「親父、志津川の牡蠣って教科書に載ってる。前にじいちゃんとドライブして、海に浮かんでいる筏が牡蠣養殖の筏だと聞いたんだ」
小学校6年の時、年下が話しておりました。
内容は「おいしい牡蠣を育てる為に森林を大事にする」というものでした。
山が枯れると牡蠣も育たない。
自然の繋がりを人の手を介して大事に育てる。こうした主旨でございました。
「クラスで、行ったことのあるのは俺一人でさ。みんなに説明しろって言われて・・・山があってすぐ海だって話しても、分かってくれなかった」
「リアス式の海岸だからな。山火事なのに船が燃える。そんな地域なんだ」
「行かなきゃ、分かんないよね」
先だっての新聞記事。「三陸産牡蠣の出荷。例年の一割程度」
養殖に携わる方々の被害の甚大さは、想像がつきます。
津波で生きるのがやっとという状態。
まだ、養殖の復活どころではない状況。お身内を亡くされた方も大勢いらっしゃることでしょう。
「仙台かき徳」様のホームページにはその状況もご紹介されております。
「酔漢君、家でよかった?てっとり早く家に来てもらおうかと思って」
「何いってのっしゃ!『かき徳』の牡蠣料理で同級会だずぺ!こんないい思いさせてもらってっしゃ」
二十年近く前、僕らのクラスの僅かが集まったささやかな同級会。
「エースストライカーのはらだ君」「のべさん」「とりさん」「つじちゃん」集めてくれた「みほちゃん」楽しく呑んでおります。
そして「晴子」もその席におりました。
冬の寒い日に、牡蠣鍋、生牡蠣などなど・・・。
忘れられない同級会となりました。
「家がまた宮城の牡蠣だせるのねぇ・・・いつだろうなぁ・・」
彼女のさみしそうな顔は忘れることが出来ません。
松島の松に雪ふり牡蠣育つ 青邨
生牡蠣と浦霞禅。
「おいしゅうございます」
考えれば、「くだまき」で「牡蠣」そのものを取り上げたことがなくて、改めて「なしてだべ」と今さら思う次第です。
過去「くだまき」では、「ウィスキーの話」であるとか「ソウルフードの話」とか語っておりまして、ところどころに登場いたします「宮城の牡蠣」です。
4年程前に無くなってしまいましたが、北浜に「松木牡蠣店」がありまして、そこに買い物を頼まれた酔漢でした。
「牡蠣かってきてけさいん」と母親から頼まれると、北浜のあの急な階段さえ駆け足になってしまいます。
鍋を一つ持っていきます。冬の寒い午後。
その鍋に剥き立ての牡蠣を入れてもらうわけです。
鍋一杯の剥きたて牡蠣が、幾らしたのかは記憶がないのですが、そのときにお駄賃と称して、口の中に牡蠣を一個入れてもらいます。
これが欲しくて「おつかい」に行くわけです。
なんとも言えない甘い香りが口中に広がります。
冬にしか味わえない海の幸でございました。
ニューヨークに行きましたのが二月の半ば。その寒さは半端ではございません。
「地下鉄57丁目駅」はカーネギーホールの近くでした。その隣の隣「ウェリントンホテル」におりました。
その近くの「オイスターバー」には3回ほど出かけました。
広島出身の奴とよく行きましたが、そこではよく「広島の牡蠣」と「宮城の牡蠣」との比較について、「あーでもなく。こーでもない」と話ました。
そこで出された料理が「牡蠣のウィスキー蒸」スコットランドでは、牡蠣にそのままシングルモルトをかけて頂きます。
これは「スコッチの話」でも語りましたが、「アイラ系モルト」が一番合います。
日本で簡単に手に入ります「ボウモア」はいいのですが、香としては「ラガ・ヴーリン」がいいかも。
ピートの香が強い方が合うような気が致します。
ニューヨークを去らなくてはならない前日。
そのバーのマスターが牡蠣を二個サービスしてくれましたが、これがグロテスクな牡蠣。
「緑色の部分だけがやたらとでかい」(全体面積の三分の二程もありました)
「何っしゃ?」と尋ねまして、答えてくれたのですが、そこを理解できるほど英語力のない酔漢でした。
一緒にいた友人が解説してくれまして。
「どうやら、大西洋の某所から送られた牡蠣」との事。
これがまた甘くて、香も良くて、日本では味わえない牡蠣でした。
名前が分からなくて残念です。
生牡蠣に合う酒。これは「日本酒」が一番。さうら君に聞きたくて、いつも忘れてしまうのですが、「浦霞 禅」は牡蠣の為に誂えたような酒。
酔漢はそう思います。
手前味噌。そうかもしれませんが、この酒と宮城の牡蠣との相性はベスト!
世界中の方々に紹介したいくらい!
ワインのソムリエがそぞろに「牡蠣に合うシャブリ」と話しておりますが。
「ワインという酒そのものが牡蠣とは相性が悪い」こう言っていいと考えます。
ウイスキーと日本酒。要は、「穀物を主とする醸造酒または蒸留酒」が良いのだと思うのです。
ですからビールはその範疇に入ります。
ですが、ビールはさらっと流すのがいいのであって、口の中に何時までも牡蠣と一緒に含んでおりますと、嫌味な香りが鼻についてまいります。
長く楽しむのであれば、ウィスキーか日本酒。
これは譲れません。
長くなりました。
カテゴリーが「仙台中学校の頃の話」です。決して牡蠣の話ではなかったはずですが、深い御縁がここにございます。
9月。僕らの中学校同期会が催されました(何度も語ったところです)。
我が三組。僕らが、気軽に参加出来るのは、彼女のおかげなのです。
「みほちゃん」
彼女は仙台市内にございます老舗の牡蠣店のお嬢様でございます。
彼女は、僕らが気遣いすることなく、同期会の仕事を引き受けているのでした。
「酔漢君はね遠いところからわざわざ来るんだから、何もしなくていいのよ」と、「何か手伝う事はねぇのすか?」と尋ねた酔漢に、いつもこう応えてくれます。
「私はね、中学時代楽しかったからね、皆に会えて。だからなんだよ。実家も仙台だし」
友人同士で交わした色紙とか当時の物をカバンに抱えて参加するのでした。
「酔漢君。今年もあえたねぇ。どう塩竈のご実家は無事だった?」
「おらいは何んともねぇ。んだども『みほちゃん』こそ実家(稼業)の方は何っじょなのっしゃ?」
「産地がねぇ、あの通りの被害だったからねぇ。もう地元の生産者の方たちのお見舞いに行ったんだけど、どう言葉をかけていいのか・・・」
彼女はそこから先は何も言わなかったのでした。
「家はね、今料理も方は少しだけでも出しているんだ。牡蠣フライとか。でも冬が来て、生牡蠣は宮城のは出せないだろうな。いつになるんだろう・・」
写真は二枚とも「ひーさん」からお借り致しました。
「ひーさんの散歩道」では牡蠣のことが書かれております。
「松島のカキ養殖と塩釜」
ここには、塩竈で行われておりました、牡蠣養殖の歴史が少しばかり紹介されております。
その歴史を紐解きます。
長い年月が経って養殖が定着しておりました。
簡単にご紹介いたします。
600年代に松島湾野々島で内海庄左衛門が天然に大量のかきが付着しているのを発見し,これを採取するとともに天然産の稚貝を拾い集め適当な海面へ散布し育成したのが始まりと言われています。
1800年代には天然のかきを採取するだけで,その後天然のかきは減少の一途をたどったため,貞山運河入り口の海面に大量に発生する天然稚貝を拾い集め,適地へ移植・保護することを始めました。また,伐採し海中に落ちた木に数年かけてかきが付着していたことから,松の木を海中に立てて稚貝を付着させ,翌年適した場所へ移動し,数年後に採取するようになりました。
1800年代後半には,広島県から教師を招き養殖技術の導入を図りましたが,定着はしませんでした。
その後,塩釜市に宮城県水産試験場が設立され,かき養殖試験が本格化し,従来方式や広島方式からさらに進んだ「す立て棒刺棚」を作り出し,松島湾でのかき養殖が発展していきました。
1900年代前半に神奈川県でかきの垂下式養殖法が開発され,日本各地へ普及していきました。また,種ガキ採苗にかき殻を使った垂下式採苗法が考案され,世界各地へ種ガキを輸出するようにもなりました。
さらに,水深が深い場所での筏式養殖法,延縄式垂下養殖法が次々と開発され,現在行われている宮城県のかき養殖の基礎ができあがりました。
(上記、「宮城県におけるかき養殖の歴史」より抜粋→宮城県ホームページ)
そして、どうしても、忘れてはいけない人物が一人。
「料理の鉄人」はご覧になられた方も多いかと存じますが、その解説者のお一人でございました「岸 朝子先生」のお父様が、陸前の牡蠣養殖に多大な貢献をされておいででございます。
上記にもございます「垂下式養殖方法」は岸先生のお父様「宮城新昌氏」が研究開発したものです。
石巻万石浦にはその碑もあるそうですが、碑が津波で被害にあい、この程建て替えられております。
先月、読売新聞「昭和の証言」に岸朝子先生の手記が掲載されましたが、その記事を拝読して初めて知った酔漢でございました。
「親父、志津川の牡蠣って教科書に載ってる。前にじいちゃんとドライブして、海に浮かんでいる筏が牡蠣養殖の筏だと聞いたんだ」
小学校6年の時、年下が話しておりました。
内容は「おいしい牡蠣を育てる為に森林を大事にする」というものでした。
山が枯れると牡蠣も育たない。
自然の繋がりを人の手を介して大事に育てる。こうした主旨でございました。
「クラスで、行ったことのあるのは俺一人でさ。みんなに説明しろって言われて・・・山があってすぐ海だって話しても、分かってくれなかった」
「リアス式の海岸だからな。山火事なのに船が燃える。そんな地域なんだ」
「行かなきゃ、分かんないよね」
先だっての新聞記事。「三陸産牡蠣の出荷。例年の一割程度」
養殖に携わる方々の被害の甚大さは、想像がつきます。
津波で生きるのがやっとという状態。
まだ、養殖の復活どころではない状況。お身内を亡くされた方も大勢いらっしゃることでしょう。
「仙台かき徳」様のホームページにはその状況もご紹介されております。
「酔漢君、家でよかった?てっとり早く家に来てもらおうかと思って」
「何いってのっしゃ!『かき徳』の牡蠣料理で同級会だずぺ!こんないい思いさせてもらってっしゃ」
二十年近く前、僕らのクラスの僅かが集まったささやかな同級会。
「エースストライカーのはらだ君」「のべさん」「とりさん」「つじちゃん」集めてくれた「みほちゃん」楽しく呑んでおります。
そして「晴子」もその席におりました。
冬の寒い日に、牡蠣鍋、生牡蠣などなど・・・。
忘れられない同級会となりました。
「家がまた宮城の牡蠣だせるのねぇ・・・いつだろうなぁ・・」
彼女のさみしそうな顔は忘れることが出来ません。
松島の松に雪ふり牡蠣育つ 青邨
生牡蠣と浦霞禅。
「おいしゅうございます」
三養水産、カキを特殊冷凍して解凍するだけで生で食べられるという商品をつくり、こりゃ海外で売ったらスゴイことになりますよ、という話をしていたら、震災が…
でも、万石浦のカキは比較的被害が少なかった模様です。
で、少し下って鳴瀬、矢本、松島のカキ。12月頃に出荷できる、といいますが、1年物を出すのかどうか判断が分かれるところらしいです。
あと、海は今大変肥沃な状態なので、それをクリアできるかどうか。
韓国産のカキもマーケットを席巻してますからね、あれでいいんだ、と消費者が思ってしまったら…ちょっと怖いですね。
というわけで、来月はカキの生産者と販路拡大の研究の為、シンガとタイへ出張してきます!!
ひそかにクライミングシューズ持っていこうとしてますw
コメント致しますね。
さて、なるほど、岸先生はとても宮城に御縁のある方だったのですね。
海外出張。お気をつけて。
何かネタがありましたら是非!
明け番で朝帰って来て、すぐ夕方から泊まりでしたから、買い物に行ったスーパーで出来合いを買ってきたのですが残念ながら山形産でした。
あまりピンとこないのですが?
今回の津波で破滅した宮城の牡蠣ですが、種付けを終え、収穫できるのに4年掛かるとか?
ニューヨークで牡蠣を食べてみたいものです。
ウェリントンホテル・・・・よく聴いた英会話のテープに出てくるホテルです。
有名なホテルですね。
ウェリントンホテルが有名だなんて、帰ってきてから知ったのでした。物凄く古いホテルで、ボロ?だった記憶があります。
このホテルの目の前のデリカテッセンのローストビーフがでかくて旨い。「これがアメリカのローストビーフのサイズかや?」と思っておりましたところ、全米一の大きさだった!
これを知りましたのも、帰国後の事でした。
何も知らずにアメリカに行っておりました(汗)