酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

赤レンガの記憶

2013-02-15 11:16:05 | 仙台中学校の頃の話
「赤レンガの記憶」と言う題にいたしました。
「ジャンル」が「中学校の頃の話」としております。
この訳は、申し訳ございませんが、御高覧下さいませ。

東京駅が新しくなりました。
「新しくなった」この言葉は適切ではない。これは承知いたしております。
「本来あるべき姿に戻った」こう申して、それが一番良い表現であることは承知いたしております。
1980年代。「東京駅改装」が叫ばれ、地上13階建てのビルに生まれ変わる。こうした計画がございました。
これが頓挫致します。
喜ぶべきこと。「くだまき」ではこう表現致しましょう。
あの赤レンガの建物が本来の姿になりました。
最初に見た際、これがあの「大和の大きさだった」とこう口に出してしまった酔漢でございます。
東京駅の瓦はスレート。
これは宮城にお住まいの方でしたら、もうご存知ですよね!
石巻からの工場より直送されたものです。
あの震災で工場が被災。
一枚一枚無事だったスレートを復元させての、あの屋根。
県人として誇らしく思いました。
中学同期会が開催されて・・・・。
「皆で東京駅をバックに写真を撮ろう!」との発案は「なんちゃん」。
酔漢と「愛すべき生徒会長氏」は、写真を撮りまくりました。
進入禁止。でも、このロケーションが最高。
中年の酔っ払い宜しく、全員の集合写真。
「なんちゃん」が冊子にして送って下さいました。
ライトバックされた東京駅。でもですね「とうけふすてぇしょん」の方が、祖父の馴染かとも思うのです。
三脚を立てて、全員撮影。
ファインダーを覗きながら、酔漢が思った事。
「大和ってこげな大きだったのすか」
こうでした。

撮影、酔漢。そして、生徒会長君。

「うの君」の声が評定河原のコートに響きます。
「練習。これまで!」
1年生の自主練習でした。
彼はやはり主将の器。だと思いました。
もう夕日が八木山の放送塔にかかってます。
酔漢と「こういち君」他、魯迅の下宿先へ続く、短いけど急な崖渕の階段を登って、バス停まで登ります。
夕日は更に斜めに僕らを照らします。
「高等裁判所前」バス停。
魯迅の碑も、回りの景色も最早、頭に浮かばないほど、きつい練習の後。
「うの君」「きたや君」「あべ君」「ふじた君」「かとう君」・・・・それぞれ、自宅へ徒歩で帰れるわけです。
僕らはバスで仙台駅へ向かわなければなりません。
「バス、何時っしゃ?」
「そろそろ来てもいい頃なんだけど・・」
初夏。日は長い季節。
それでも夕方。
黄昏。
ふと、目の前の高等裁判所がやけに明るい事に気づきます。
「裁判所、明るいっちゃ」
「何で?」
裁判所の赤レンガがオレンジ色になって居る事が分ります。
「裁判所って『赤レンガ』だよね」
「そうだけど・・・」
八木山の夕日を浴びて、赤いはずのレンガがオレンジ色に輝く。
この色の美しさに、目を奪われました。
「どう表現しようか?」
「赤レンガがオレンジレンガになっている」
五月の仙台が一番好きでした。
入梅前の爽やかな風と共に、目に映えるレンガの色。
「うの君」憶えている?
片平に居た君だから何度も見ているよね。

中学同期会。東京開催。丸の内。
「東京駅で集合写真を撮りたくて」発案は「なんちゃん」
カメラは使徒会長君。でもカメラ(彼の愛器「キヤノン」が何故か僕の肩にあったりします)
「酔漢君、天井撮影。お願い!」
それが、猫の写真。
その謂れを聞いた酔漢。
「なるほど・・・」
駅舎の風景は生徒会長君が撮影。
ライトアップされてその姿。
レンガがオレンジ色になっている!!
「あのとき見たレンガの色」
テニスの練習の後に見た、高等裁判所のレンガの色。
中学同期の連中と一緒。でもあの時の記憶が鮮明に蘇りました。

「『いずみ』君のおじいちゃまはレンガを焼いていたんだよ」
「もう昔も事だから・・・」
「いずみ」君は少しはにかんでおります。
隣におりました酔漢。
「レンガって・・・・」
「仙台のレンガ建築物のレンガって長町で作っていた。その工場が『いずみ』君の御実家」
「いずみ奥様」(中学同期同志)と「なんちゃん」の解説を拝聴。
「初めて聞いたすべ!しゃねがったぁぁぁ」
想えば、「宮城県庁」「高等裁判所」。
仙台には「赤レンガの建物」が多く残っていた。
「たられば」は承知。
「今仙台にあれば・・・」
「いずみ君」はお酒は嗜む程度。
呑んだくれの酔漢が隣におります。
しばし、「赤レンガ」の話題。
「ロンドンに行ったら、赤レンガの建築物がかなり残っていて」
「ドイツもそうだって聞いてたっしゃ」(ネタ元、丹治さん)
「夕方の景色が綺麗でね」
「裁判所がオレンジ色になる。俺も観た事ある」
そんな会話でした。

横浜、観光名所「赤レンガ倉庫」

ライトアップされたその姿は、やはりオレンジ色です。

東京駅。
その姿を全部見る事は地上では難しい。
酔漢の癖です。
「大和の大きさとの比較」
小学校最初の頃に読んだ本の解説にはこうありました。
「出来たばかりの頃の東京駅と戦艦大和はほぼ同じ大きさ」
見上げる東京駅。
「大和の記憶」そして「仙台の風景」
何よりも。
石巻で焼かれた「スレート」

長町産レンガ。
何時もの事ながら、「友人との再会」。

2月22日 補足。
映画ロケ用と思われる、海軍省の写真を添付いたします。
「見張り員」さんのブログ「大和の国は桜花爛漫」より。
祖父が毎日通っておりました。



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10 コメント

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評定河原~片平 (うの)
2013-02-15 15:26:12
もちろん憶えてますよ。
中学の3年間、ほぼ毎日のように評定河原のテニスコートまで通ったものでした。今じゃ考えられませんが、当時は元気だったんだね。練習帰りに「片平レジデンス」の自動販売機で(当時はビンの)コーラを飲むのが楽しみでした。
 思い返せば大変な部活だったけど、酔漢殿たち越境組はもっともっと大変な思いをしてたんだよね。子どもだった当時はそこまで思い至りませんでした。
 あの崖っぷちの階段は今も当時のままでです。懐かしくて時々散歩コースに利用しています。
 東北大正門前から片平の通りは、部活の思い出や、追廻でのバレーボール大会に行くときに待ち合わせをして歩いて行った思い出など、とても懐かしくて今も大好きなエリアですよ。
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うの君へ (酔漢です)
2013-02-15 17:33:57
片平レジデンスの自販機。
懐かしいですね。
ぼくも、お世話になりました。
走った後のあの階段は本当にきつかったね。でも後を振り返って、広瀬川を見ると、その美しさもひとしおでした。
夕方の片平。一杯思い出がある事でしょうね。
今はもう無いと思ってました。
尋ねてみます。
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みんな因果 ぜんぶ真実なら どんなものを愛と感じるんだ? (ある友人)
2013-02-16 12:38:59
仙台高裁のある片平の辺りは、かつて武家屋敷だった雰囲気が残っているし、井上ひさし氏の「青葉繁れる」にあるような仙台や、島崎藤村や魯迅が過ごした仙台をイメージさせてくれる所ですよね。そういえば仙台高裁はあの原田甲斐の屋敷跡にあるわけで裁判所と伊達騒動の組み合わせも奇縁といえるかもしれません。
日本建築史では伝説の人物である辰野金吾設計による東京駅が蘇るのは嬉しい話です。私は高校生の頃に辰野氏の手による盛岡の岩手銀行本店をわざわざ見に行きました。意外かもしれませんが私は建築好きなんですよ。二十数年前にはフランク・ロイド・ライト展を今はなき池袋のセゾン美術館まで見にいきました。
東京駅のスレート瓦は正確に言うと「雄勝スレート」ですよね。高級硯にも使われています。明治初期に西洋建築を学んだ人たちがこぞって求め、横浜開港記念館、赤坂プリンスホテル旧館、呉海軍庁舎、北海道庁舎、京都府庁舎、名古屋高裁などなど著名な建築物に使われました。コメントを読んでいて興味のある方は是非ともググってください。
赤煉瓦というと私は津波で甚大な被害を受けた東松島市の野蒜にある築港跡を思い出します。築港の着工は1878年。もしかしたら「いずみ」さんのご先祖も関わっていたかもしれませんね。築港跡は時間が止まったようで大好きな場所だったのですが、東松島市は石巻市とならんで復興が遅れているように思います。生活再建が先で歴史遺物にまで手が回らない状況は理解できますが、いつかまた穏やかなあの風景をと願うばかりです。
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記念撮影したかったわけ (なん)
2013-02-16 22:19:25
1914年に創建された東京駅は、昨年の10月、約100年の時を経て復原されました。ちょうどその半分の年を重ねた私達中学校同期一行は、昨年の忘年会の折、その東京駅を背景に記念写真を撮りました。
屋根の瓦部分には、創建当時、そして戦災後もおもに石巻雄勝町産のスレートが使用され、100年たってもまだまだ現役の質の高さです。
今回このスレートを再現するにあたって、産地である雄勝町の方々の並々ならぬご苦労があったと聞きました。
復原のために一旦お里帰りをしたスレートは再加工され、東京へ送り返す直前、今回の震災に遭い、半分近くが津波にのみこまれました。加工に携わる職人の方々は、自宅を奪われたり、親類を失ったにもかかわらず、ボランティアの手を借りながら散乱するスレートを回収し、汚れを一枚一枚丁寧に洗い流し、ようやく復原にいたったという話は、酔漢くんがおっしゃるとおりです。
このことを聞き、駅舎の屋根を仰ぎ見るたび、単に東京の時代の変遷だけではなく、故郷の復興のシンボルとして、誇らしさも重なり合って見えるのです。

ちなみに、駅舎内ドーム部分に見える彫刻、「猫の写真」の謂れは、われわれの干支である「寅」で、一方角を示しています。
上京の折にはぜひご覧ください。
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ある友人君へ (酔漢です)
2013-02-17 09:14:32
海軍省の写真は、実家にあります。
以前、ご紹介いたしました祖父の東京通信隊での集合写真。掲載すればよかったですね。表紙がまさしく、海軍省全景でした。白黒ですからレンガの色はわかりませんが、あの勇壮な建物はわかります。
あの屋根も雄勝産だとは、聞いてはおりましたが、確証しておりませんでした。ご教授ありがとうございます。
明治時代、野蒜築港が計画されて、その後、七ヶ浜築港の計画へと移ります。戦後、僕らの故郷「塩竃」で実現するわけです。
復興、遅々と進まず。
穏やかな風景。
少なくとも、孫の世代にはよみがえっていてほしい。
そう願います。

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なんちゃんへ (酔漢です)
2013-02-17 09:19:47
その節はありがとうございました。
すばらしい思い出。sの写真集もお手数おかけいたしました。「赤レンガが仙台に・・」こうした思いが、東京駅復活を見たとき、強くなりました。
「猫の写真」は本来ならば「猫写真家君」に任せたほうがよかったかなぁ。謂れを知らなかったものですから、勉強になりました。「いずみ君」の話も始めてで、その歴史の重さも感じました。
東京駅を見るたび、屋根に目が行くようになりました。
この記事、海軍省の写真を掲載して、校正しなおします。祖父の時代「赤レンガ」=「海軍省」だったわけですから。片手落ちでした。
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おはようございます (見張り員)
2013-02-17 09:28:04
赤レンガの東京駅と、中学時代の思い出が見事にシンクロしていますね。赤い煉瓦は夕日に当たると素晴らしいオレンジ色に変化しますね、そしてその色は何故だか懐かしさと温かさを伴って心の奥にともります。

私はまだ新しい東京駅を見ていません(東京住まいなのに!)、でも時々東京駅を通るたびに「この駅の全長は大和と同じ長さ」と思っては感慨を新たにしています。この駅を使う殆どの人には思いもつかなきゃどうでもいいことなんでしょうが・・・

最近はあまり報道もされなくなった感のある震災復興ですがいつになったら本当の復興作業が始まるのでしょうかね?
もう二年になります、そろそろ本気で願いたいのですが現地での状況、どうなんでしょうね???
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Unknown (ジュリーママ(TORI))
2013-02-17 10:08:58
懐かしい裁判所の写真、有難うございます。
当時の片平小は、裁判所と東北大旧キャンパスの赤レンガの建物に挟まれておりました。雪が降った日など、まるで古い外国文学の舞台の景色に見えて、子供ながらに空想の翼を広げたのを思い出します。あのレンがを、いずみ君のお祖父様が作っていらっしゃったとは知りませんでした。
そして東京駅のスレート!!
まさにみちのくの誇りですね。
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見張り員さんへ (酔漢です)
2013-02-19 08:39:41
東京駅は見事ですね。
見張り員さんはよくご存知ですが、祖父のいた海軍省は「赤レンガ」と呼ばれておりました。

「赤レンガ」いい響きに聞こえます。
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TORIさんへ (酔漢です)
2013-02-19 08:41:23
あの雰囲気。わかります。
秋はことさら。
外国文学。丁度、教科書に「舞姫」があって、その写真の風景と確かに似てました。
思い出しました。
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