僕もあなたも願ってる
祈る気持ちで待っている
それは一言優勝だ
与那嶺監督の胴上げだ
坂東英二さんが歌いました昭和49年一番最初の「燃えよ中日ドラゴンズ」です。
この年、酔漢小学校六年生。塩竈市立第二小学校六年七組におりました。
この歌。あの漫画家「さとうただし」君の自宅で聞いたのでした。
さとう君の話は「くだまき」には何度も登場させておりますが、当時ロッテ優勝に沸きます、我がクラスにおいて、その宿敵となるべく「中日ドラゴンズ」を応援していた唯一の男でした。
彼がなぜ「中日ファン」になったかと申しますと、彼が大ファンだった漫画家「とりいかずよし」氏が中日ファンだったらしく、彼の漫画を敬愛していますただし君も、その影響をうけたのかと思います。
「セリーグは中日の優勝だべ」
となりまして・・・。
そりゃ、多くの「長嶋ファン」が涙する中。「中日優勝」ではしゃいでいた本人です。
巨人のV10が夢破れ、地元ロッテオリオンズのパリーグ優勝。(近藤重雄さんもメンバーでした)そして、長嶋茂夫の引退。と劇的なプロ野球シーズンでしたので、忘れもしません。
我が親父殿はこれはもう大の巨人ファンでした。
酔漢は現在大きな訳あって(これも一度「くだまき」にしましが)ヤクルトファンでございます。(ワシントンホテルのスパゲッティの威力でございます。大杉さん、ごちそう様でした)ですから、親父殿とは野球の話で盛り上がることもままありました。
酒を飲みながら「野球談義」です。
「ってことは・・親父は巨人の選手でも嫌いな選手がいたんだ」
「巨人の選手は上手い、とか強いとかでねぇんだ。やっぱしや、自分が好きが嫌いかはあんだべ」
「例えば誰っしゃ?」
「んだなぁ(暫く考えている様子)・・広岡はあんまし好きでねがった」
「なしてっしゃ?」
「あんまし笑わねェンだおん。観てておもせぐねぇっちゃ。うめぇこたぁ上手かった。だけんどなぁ」
「あとは?」
「森もな?」
「ライオンズの監督したキャッチャーの森さんすか?」
「何せおれは藤尾が好きだったのっしゃ。藤尾ばみてぇのに、いつの間にか森が正捕手になってたんだべ」
と。選手がいろいろ出てまいりまして。
これを整理いたしますれば。
親父殿の巨人軍ベストはこうなります。
投手 スタルヒン
捕手 藤尾
一塁手 川上
二塁手 千葉
三塁手 長嶋
遊撃手 白石
左翼手 平山
中堅手 与那嶺
右翼手 青田
以上です。
あれ?王がいない。これはどうしてだろう。となります。
「親父、王がいねぇべ?」
「こいづは迷う。んだども。あの戦後の時代さぁ、赤バットだべ。これは衝撃だっちゃ」
「記録では、王なんだべな。でも、記憶の中では川上だ」
ラジオ中継でさかんに「赤いバット」といわれても、想像するのに難しかったと話しておりました。「4番ファースト王は、僕らの世代なんだな」と、その歴史を思います。
「評定河原さぁ巨人来てや。そん時スタルヒンがいたんだ。まんず恰好えがった。練習しか顔ださねがったんんだけんどや。練習でショーみてぇなことしてや。これがまたおもせがった。練習してピッチングすっぺ。球はぇぐてたまげたおんなや」
晩年のスタルヒンでした。その洗練された投球フォームに驚いたそうです。
「中でも一番好きだった選手は?」
「長嶋だべ!これは、これでふつうかもしんねぇけんどや。それともう一人」
「誰すか?」
「与那嶺だっちゃ!」
「なして?」
「おめぇ、例えばや一番打者って『福本』『柴田』今だと『イチロー』か?これらの選手がいるのは、与那嶺がいたからだっちゃ」
この質問に対しての親父殿の言葉が一番力がありました。
「決して手を抜かない。常に全力プレー。足は、はぇし。何せ盗塁がこれほどおもせぇなんてしゃねがった。こいづは与那嶺見てからそう思えたんだ」
また、こうも話してました。
「普通にしてたら、眼鏡かけた月給取りみてぇな感じなのに、フュニフォームさぁ来てバット持ったらまんずすげぇ。」
「投げて打って、だけの野球に小技、盗塁など新しいプレースタイルを日本に持ち込んだ功績」
新聞にはこう書かれております。
実際のプレーは酔漢みたことがございませんが、その進化系を「イチロー選手」とすると、やはり野球に革命を起こした。そう想像するのです。
「巨人を見るまで、社会人野球がおもせがった。『函館オーシャン』が仙台さぁ遠征に来てや、そん時『益田 喜頓』もいたんだ」
「コメディアンのすか?野球やってたのすか?」
「んだ。巨人の前身の名捕手『久慈』と一緒だったっちゃ」
親父殿は戦後すぐの東北の野球を目の当たりにしていたのでした。
そんな親父殿と野球の昔話をいたしますと、必ず登場するのが「与那嶺要」選手だったのです。
「川上と中が悪かったって噂はあったけんどな。巨人ばだから追われたんでねぇかって」
それでも。
「与那嶺の恰好よさって、まだ、あれだべ、一イニング三盗塁は記録なんだべ」
そうなのです。四打席連続ホームランは複数人おりましても、「1イニング3盗塁」は、与那嶺選手以外、だれも記録しておりません。
「今とは野球も違ってんだども」との前置きながら。
「与那嶺が今現役だって三割三十盗塁はすんでねぇか?」
そして、「福本は技術の盗塁。柴田はすごみが少したんねぇ。だれ、塁さぁ与那嶺が出っと、投手は変化球をなげねぇ。んだから、川上は楽な打撃が出来る。川上のヒットは与那嶺がお膳立てしていたようなもんだべ」
なるほど、奥が深い見解です。
我が親父殿の巨人好き。例えば、風呂場までラジオを持ちこんでは聞いておる時がございました。
心臓を患ってからは、勝負事を(例えば相撲とかも)避けていたところがありました。
ですが、近年。
「田中(楽天)はなぁ、なんかめんこいなや」と田中投手がお気に入りでもありました。
定岡、江川、中畑、水野。親父が「めんこい」と言った選手を列記しました。
なんか、どこに共通点があるのか、不可思議なところがございます。
与那嶺要さんが先週お亡くなりになりました。
親父の世代には、強烈な印象を残した選手なのでした。
酔漢は監督としての印象が強いです。
過去の選手名鑑を見ますれば、笑顔のない選手写真ばかりにあって、どの写真も歯をみせて笑っているお顔を拝見することができます。
「アメリカ人なんだなぁ」とは思うのですが、その風ぼうは、「どこにでもいる眼鏡のおじさん」(失礼します)的な感じです。
激しいスライディングの写真は有名です。
吹っ飛んだ捕手は真横でしかも、本当に宙に浮いております。ブロックの技術は今と格段に違っておりますことを差し引いても、物凄いスライディングだったと想像できます。
実際に見たかった。
本音です。
オープン戦も佳境に入りました。
今年はどんなドラマが生まれるのか、楽しみでございます。
プロ野球の歴史を少しばかり思いながら。
シティラピッド君から「与那嶺ってどんな感じの選手だった」と質問されました。
「じいちゃんに聞いたら、延々語る内容だぞ」
「そうか、じいちゃんが好きな選手だったんんだ」
親子三代の野球好きでございました。
祈る気持ちで待っている
それは一言優勝だ
与那嶺監督の胴上げだ
坂東英二さんが歌いました昭和49年一番最初の「燃えよ中日ドラゴンズ」です。
この年、酔漢小学校六年生。塩竈市立第二小学校六年七組におりました。
この歌。あの漫画家「さとうただし」君の自宅で聞いたのでした。
さとう君の話は「くだまき」には何度も登場させておりますが、当時ロッテ優勝に沸きます、我がクラスにおいて、その宿敵となるべく「中日ドラゴンズ」を応援していた唯一の男でした。
彼がなぜ「中日ファン」になったかと申しますと、彼が大ファンだった漫画家「とりいかずよし」氏が中日ファンだったらしく、彼の漫画を敬愛していますただし君も、その影響をうけたのかと思います。
「セリーグは中日の優勝だべ」
となりまして・・・。
そりゃ、多くの「長嶋ファン」が涙する中。「中日優勝」ではしゃいでいた本人です。
巨人のV10が夢破れ、地元ロッテオリオンズのパリーグ優勝。(近藤重雄さんもメンバーでした)そして、長嶋茂夫の引退。と劇的なプロ野球シーズンでしたので、忘れもしません。
我が親父殿はこれはもう大の巨人ファンでした。
酔漢は現在大きな訳あって(これも一度「くだまき」にしましが)ヤクルトファンでございます。(ワシントンホテルのスパゲッティの威力でございます。大杉さん、ごちそう様でした)ですから、親父殿とは野球の話で盛り上がることもままありました。
酒を飲みながら「野球談義」です。
「ってことは・・親父は巨人の選手でも嫌いな選手がいたんだ」
「巨人の選手は上手い、とか強いとかでねぇんだ。やっぱしや、自分が好きが嫌いかはあんだべ」
「例えば誰っしゃ?」
「んだなぁ(暫く考えている様子)・・広岡はあんまし好きでねがった」
「なしてっしゃ?」
「あんまし笑わねェンだおん。観てておもせぐねぇっちゃ。うめぇこたぁ上手かった。だけんどなぁ」
「あとは?」
「森もな?」
「ライオンズの監督したキャッチャーの森さんすか?」
「何せおれは藤尾が好きだったのっしゃ。藤尾ばみてぇのに、いつの間にか森が正捕手になってたんだべ」
と。選手がいろいろ出てまいりまして。
これを整理いたしますれば。
親父殿の巨人軍ベストはこうなります。
投手 スタルヒン
捕手 藤尾
一塁手 川上
二塁手 千葉
三塁手 長嶋
遊撃手 白石
左翼手 平山
中堅手 与那嶺
右翼手 青田
以上です。
あれ?王がいない。これはどうしてだろう。となります。
「親父、王がいねぇべ?」
「こいづは迷う。んだども。あの戦後の時代さぁ、赤バットだべ。これは衝撃だっちゃ」
「記録では、王なんだべな。でも、記憶の中では川上だ」
ラジオ中継でさかんに「赤いバット」といわれても、想像するのに難しかったと話しておりました。「4番ファースト王は、僕らの世代なんだな」と、その歴史を思います。
「評定河原さぁ巨人来てや。そん時スタルヒンがいたんだ。まんず恰好えがった。練習しか顔ださねがったんんだけんどや。練習でショーみてぇなことしてや。これがまたおもせがった。練習してピッチングすっぺ。球はぇぐてたまげたおんなや」
晩年のスタルヒンでした。その洗練された投球フォームに驚いたそうです。
「中でも一番好きだった選手は?」
「長嶋だべ!これは、これでふつうかもしんねぇけんどや。それともう一人」
「誰すか?」
「与那嶺だっちゃ!」
「なして?」
「おめぇ、例えばや一番打者って『福本』『柴田』今だと『イチロー』か?これらの選手がいるのは、与那嶺がいたからだっちゃ」
この質問に対しての親父殿の言葉が一番力がありました。
「決して手を抜かない。常に全力プレー。足は、はぇし。何せ盗塁がこれほどおもせぇなんてしゃねがった。こいづは与那嶺見てからそう思えたんだ」
また、こうも話してました。
「普通にしてたら、眼鏡かけた月給取りみてぇな感じなのに、フュニフォームさぁ来てバット持ったらまんずすげぇ。」
「投げて打って、だけの野球に小技、盗塁など新しいプレースタイルを日本に持ち込んだ功績」
新聞にはこう書かれております。
実際のプレーは酔漢みたことがございませんが、その進化系を「イチロー選手」とすると、やはり野球に革命を起こした。そう想像するのです。
「巨人を見るまで、社会人野球がおもせがった。『函館オーシャン』が仙台さぁ遠征に来てや、そん時『益田 喜頓』もいたんだ」
「コメディアンのすか?野球やってたのすか?」
「んだ。巨人の前身の名捕手『久慈』と一緒だったっちゃ」
親父殿は戦後すぐの東北の野球を目の当たりにしていたのでした。
そんな親父殿と野球の昔話をいたしますと、必ず登場するのが「与那嶺要」選手だったのです。
「川上と中が悪かったって噂はあったけんどな。巨人ばだから追われたんでねぇかって」
それでも。
「与那嶺の恰好よさって、まだ、あれだべ、一イニング三盗塁は記録なんだべ」
そうなのです。四打席連続ホームランは複数人おりましても、「1イニング3盗塁」は、与那嶺選手以外、だれも記録しておりません。
「今とは野球も違ってんだども」との前置きながら。
「与那嶺が今現役だって三割三十盗塁はすんでねぇか?」
そして、「福本は技術の盗塁。柴田はすごみが少したんねぇ。だれ、塁さぁ与那嶺が出っと、投手は変化球をなげねぇ。んだから、川上は楽な打撃が出来る。川上のヒットは与那嶺がお膳立てしていたようなもんだべ」
なるほど、奥が深い見解です。
我が親父殿の巨人好き。例えば、風呂場までラジオを持ちこんでは聞いておる時がございました。
心臓を患ってからは、勝負事を(例えば相撲とかも)避けていたところがありました。
ですが、近年。
「田中(楽天)はなぁ、なんかめんこいなや」と田中投手がお気に入りでもありました。
定岡、江川、中畑、水野。親父が「めんこい」と言った選手を列記しました。
なんか、どこに共通点があるのか、不可思議なところがございます。
与那嶺要さんが先週お亡くなりになりました。
親父の世代には、強烈な印象を残した選手なのでした。
酔漢は監督としての印象が強いです。
過去の選手名鑑を見ますれば、笑顔のない選手写真ばかりにあって、どの写真も歯をみせて笑っているお顔を拝見することができます。
「アメリカ人なんだなぁ」とは思うのですが、その風ぼうは、「どこにでもいる眼鏡のおじさん」(失礼します)的な感じです。
激しいスライディングの写真は有名です。
吹っ飛んだ捕手は真横でしかも、本当に宙に浮いております。ブロックの技術は今と格段に違っておりますことを差し引いても、物凄いスライディングだったと想像できます。
実際に見たかった。
本音です。
オープン戦も佳境に入りました。
今年はどんなドラマが生まれるのか、楽しみでございます。
プロ野球の歴史を少しばかり思いながら。
シティラピッド君から「与那嶺ってどんな感じの選手だった」と質問されました。
「じいちゃんに聞いたら、延々語る内容だぞ」
「そうか、じいちゃんが好きな選手だったんんだ」
親子三代の野球好きでございました。
ということは まさかね。1イニング大量得点かなぁ与那嶺監督 ご冥福を お祈り申し上げます。昔 吹上ホールで サインをいただき ありがとうございます。