やがてまたモーツアルト的桜かな 渡辺誠一郎
どんな桜の事を言うのだろうなぁ・・・・。
桜の花は、バラの次に多く撮影しております。ですが、桜にモーツアルトを感じたことはありませんでした。
例えば、神奈川県二宮町の枝垂れ桜の並木を通りますと、まずは「ビバルディ」がBGMに浮かんでくるわけです。
そこで、もう発想のチーパーさ?がバレテしまっておるわけです。
さて、冒頭は、「お隣のおじさま」(と、「くだまき」ではいたします)俳人「渡辺誠一郎」さんの句集「数えてむらさきに」よりお借りいたしました。
モーツアルト的な桜・・・・・
「やはり桜の木の下には、人の屍があるんじゃないかって・・・・最近そう感じてしまってねぇ」
俳句の展示会の会場、「お隣のおじさま」は、こう話しておられました。
そういえば、確か大学時代「ある友人」君が、キャンパスの桜を見て(ちょうど、学生食堂へ向かう道すがら・・)こう言ってたのを思い出しました。
「酔漢ねぇ、桜って人が埋まっている上に咲くやつが一番きれいに咲くそうだ・・」って。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
梶井基次郎 桜の樹の下には
酔漢の頭には、この梶井基次郎の詩が真っ先に浮かびました。
いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲うたずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。(中略)――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
そして最後はこう結んでおります。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。
「酔漢、どうした?」
「いやね、梶井基次郎だったんだろ。さっきの台詞って」
「そうかぁ・・・でも俺『梶井基次郎』あまり好きじゃないんだよなぁ・・」
(どうして?と聞くのは、あきらめております・・・)
「他に、『桜の樹の下の死体』って・・・・誰かいたか?『横溝』は、なしだぜ!」
「酔漢、おれが良く話題にしてるのは?」
「誰だっけ?」
「坂口安吾だよ」
そういえば・・・・「桜の樹の満開の下」・・・。
「違うぜ、『桜の森の満開の下』だろう!映画好きな酔漢君がノーチェック?」
ノーチェックと指摘されれば、そうなのだけれど、どうも・・・・。
男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。彼は怖れていませんでした。
そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう? なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。
坂口安吾 桜の森の満開の下
酔漢は、「ふれあいエスプ」の手すりに寄りかっかっております。
遠くで取材を受けておられます「お隣のおじさま」の話を聞きながら、大学時代での会話を思い出しておりました。
あのときの桜は・・・どんな桜だったろうか・・・・。
鬼房の鎖骨に落ちる桜かな 渡辺誠一郎
この句集の表紙「平間至」さんの作品です。
白黒の中に、桜の色が凝縮されていて・・・上記の句への一つの回答ではなかろうか・・。
酔漢、エスプの中を彷徨しているような感じがいたしました。
「桜・・・・塩竈桜・・・・・今年はどんな顔を見せてくれるのだろうか」
奥塩の春はまだまだ先です。しかし、どうしても桜が恋しくなってしまいました。
「塩竈桜が美しいのも、その樹の下には・・」
「どうして、他の土地では上手く育たないのだろうか」
一森山の「桜の森の満開の下」には、確かに。
独り言を言いながら、ふれあいエスプのドアを開けると。
北風が吹きこんできて。
「なんだべ!寒いごだやな」と。これは本当に声に出してしまいました。
そういえば、昨年年末、読売新聞「四季」長谷川櫂氏、選の句。
釘箱の中から匂う冬の海 渡辺誠一郎
この句の紹介は二度目ですが、釘箱から冬の海へ意識を飛ばせる感覚がとても懐かしく感じてしまった酔漢です。
桜ばかり思い浮かべたのは、エスプ(展示場)の中が、春のように暖かかったからなのでしょう。
今朝、塩竈の最低気温が氷点下となりました。
「おはようございます、今朝は寒いですね」
「お隣のおじさま」とのいつもの会話です。
「数えてむらさきに」
「紫色」この春探してみましょうか・・。
それにしても「モーツァルト的な桜」か。何とも面白いレトリックだ。
「的」であるっていうのはそのような性質であって、そのものではないってこと。「モーツァルト的」も「モーツァルト」ではない、それらしき何かだからこそ面白い。
もしかしたら梶井基次郎にしても坂口安吾にしても、桜は「××的」な何かだったのかもねえ。それを視覚的にイメージした時、死体として幻視したのかな。確かに輪廻の輪の中で、現世の儚さを思えば、様々な執着や欲は死体に見えるかもしれない。
一方、「モーツァルト的」ならば、モーツァルトの音数の多さのように華やかで、猥雑なほどの軽快さをもたらすものなのだろうね。小林秀雄いわくの悪魔が発明した音楽という面もあるだろうけど、ここは一般論で(笑)
まあいずれにしても桜は桜。まさに「花に憂き世の咎はあらじ」かな。
近所にいながら行って見られませんでしたが、久しぶりの職場はいかがでした?
おたがいに無理せず、ボチボチいきましょうね。
お店で見かけたら声かけますので、よろしく♪
身体の方は何とか復調しております。
さて、君との会話を思い出した次第。
やはり基次郎は今でもお好きではないのですね。でも、君から聞いた安吾の話は、面白くて、僕のもっていた坂口安吾のイメージが変わりました。(君ほどよんでないけど・・)
渡辺さんの句集を紐解きながら、感じる事が多いなぁと思っているところです。
桜の句で思い出すのは、昭和16年の京大事件で逮捕された、神奈川県横浜市の俳人「秋元不死夫」の句で。
風死して翼休める谷桜 かな。
ぐずらさんもご無理なさいませぬよう、お過ごし下さいませ。
さて、16日よりお店におります。
是非、またお声お掛け下さいね。
お待ちいたしております。
酒はモーツアルトを聞いて発酵し熟成・・・・
桜はモーツアルトを聞いて風とダンスをする。
塩釜出身者の有名人は聞きますが。
それに比べ・・・ここは何もない・・・
あれから、復職後も無事に過ごしております。
ぐずらさんがお買い物に来てくださったっり・・・。
あれから、誠一郎さんとお話をいたしましたが。
「酔漢さん、モーツアルト的桜もご自身で自由に想像して良いのです」
と話されておられました。
何とも、奥が深いです。