「石切り場さぁ行ってみっか?」
「んでもや、あそこは立ち入り禁止だど!」
立ち入り禁止!だからこそ行ってみたくもなるというものです。
僕ら一向は(一向と言うよりは「一味」と言った感じではございますが・・・)
話が決まりますと、秘密基地があった裏山へと向かいます。
あのぅ、「裏山」というのも、僕らの小学校の裏にありましたから単純に「裏山」なのです。
もう事件多発の裏山なのです。
初めてお聞きする方が多かろうと存じますのでまずは過去の「くだまき」をお聴きくださいませ。
つちのこ?が出た!(矢追純一風) 小学校の頃
まさしく、その現場となった裏山でございます。
さてさて、塩竈再開発も噂されている同山ですが、れっきとした名前がありまして、そこは古い歴史のある山でもあるのです。
「藤倉山」と言います。
藤倉は現在、塩竈市内の住所にもなっております。「うの君のクリニック」も住所は藤倉です。
先だって、ご紹介いたしました旧千賀浦の地図、絵ですが、そこには藤倉とは記載はありません。
明治時代、浦であった藤倉を干拓して、沼にし、「藤倉沼」と呼ばれていたのが、記録にはございます。
朝の散歩には恰好の場所ですが、夏は遠慮したいです。
全長5mはある青大将が住んでます。
酔漢は長男と散歩中に目撃してます。(これも過去にくだまきにしてますが・・)
ここを開発するとなりますと、「何かよからぬことが起きそう・・」と感じたりもいたしますが。
ここから眺める塩竈もなかなか・・。
というわけで、この山について少しばかり。
奥鹽地名集にも「藤倉山」が記載されおております。
藤倉山 上之御林有 御村野山も有、都て松立て多し
この「御林」とは伊達藩直轄の林であったことを裏付ける記載です。
山守が置かれて管理していたという歴史があります。
「松立て多し」松の木が山並みに連なっております。
千賀浦(塩竈列島)をなす代表的な地形であり、自然な姿を残しております。
ちょうど、秘密基地のあった場所には、今は電波増幅のアンテナが立っているわけですが、藪をかき分けて進みますと、絶壁が急に足元に現れます。
流石に、「落ちて怪我をした」という話は今のところ聞いてはおりませんが、大変危ない場所であることは間違いありません。
その山を下って、山伝いに半周しますと、僕らが「神殿跡」と名前を付けました「石切り場」がありました。
そうそう、本日の「くだまき」はここからが本題と相成ります。
(エピソード長くてすみません・・)
「こいずが、スフィンクスでピラミッドのそばにいる石像なんだっちゃ。まぁ狛犬みてぇなもんだべ!」
(絶対にありえない解説だぁ!流石「えつじ」だぁ←小学校の時の担任)
社会の時間だったか記憶は定かではないのですが、「世界の遺跡」という写真集をみんなに見せております担任の「えつじ」です。
その写真を見て、「ただし」がこう発言しました。(「さとうただし」君です。あのアニメの原作者でもあります・・)
「先生!こんなの塩竈さぁあっちゃ!」
「おめぇ、何言ってんだ!ピラミッドが塩竈さぁあるわけねぇべ!」
「そいつは俺も知ってぺ!んでも、似たとこはあっちゃ!」
クラスが急にざわめきだしました。
「ただしぃ、どこや?」
「ほれ!石切り場だ!」
その発言を聞いていた「えつじ」もピン!と来たようでした。
「おめぇら、本当にあそこは危なぇから!行ぐんでねぇど!」
こうして授業は終わったわけです。
で、冒頭に戻ります。
「石切り場さぁ行ぐべ!」
と向かった先が。
です!
僕らの小学校の頃は、まだこんなに荒れてなくて、しっかりしておりました。
流石に、風化が激しく、本当に「危ない!」場所になってます。
でも、「神殿」の雰囲気はありますでしょ!
ここに入ったわけです。
まず、大きな声を出します。
ものすごく響きが良いです。
栃木県で「大谷石の採掘跡地」でコンサートなんか開催されているようですが、それ分かります。
ここでどんな石を採掘していたのでしょう。
「奥鹽地名集」ではこう記載されております。
産物
一 岩くと
この「岩くと」とは、岩で出来た竈の事です。
写真をみてお分かりいただけると思いますが、松島を形成している岩石は「凝灰岩」です。
火に強いところから「竈に最適」とされ、盛んに切り出されました。
「塩竈市史 資料編 85ページ『塩釜町方留書』」には、こう記されてます。
岩石、大社の御下にこれを無く候えば、かた岩これ無き物の由にて、釜石或は岩くと等、所々売出し申候
大社の下(一森山周辺か?)でないと、硬い上質な岩が採掘されなかった。こうした意味なのでしょうか。
またこんな話も残されております。
昔、生路(いくじ)の浜をはじめとした塩を焼く海岸に「塩竈石」と呼ぶ石がたくさんありました。
この石は、竈の底に敷いておき、その上で火を焚いて、塩を焼いたときに使われたものです。
それでこの石は、みんな黒い色をしておりました。そして、長い間使っているうちに、この塩竈石には、塩がくっつき、それが、病気を治すのに大変効果があったということです。
「おっかぁ腹が痛ぇ」
子供が腹を押さえて泣いてます。
母親は海岸へ走っていくと、塩竈石を拾ってきました。その石を火であぶり始めました。
ほどよく石が温まった頃に、布で石を包むと、子供のお腹に当てました。
するとどうでしょう。あれほど痛がっていたお腹が、すぐに治りました。
石垣は確かに多かった塩竈の町々です。
佐浦さんの倉もそうですね。
塩竈石なのです。
神社へ向かう燃料店の倉庫は凄いですね。
こうした、建物は簡単に見つかります。
この日の朝の散歩でも、沢山見つけました。
今では、使われることのない建築資材なのですね。
歴史を感じます。
こうした記録もございますし、
近世でしょうか。こうした写真も残されております。
この写真は、おそらく、先の「神殿跡」での風景なのでしょう。
実は、小松崎、今住んでいる実家の下。
そこも、「石切り場」だったのです。
流石に、立ち入り禁止でした。
切り立った、凝灰岩の壁が、見えます。この下、石切り場跡に、水が溜まっていて、あたかも沼地のようでした。
実は、ディズニーランドへ行って、ジャングルクルーズに乗りますと、その度に思い出す風景なのでした。
小松崎~第二小学校~藤倉山~藤倉の住宅地~梅の宮~小松崎自宅。
朝の散歩で辿った歴史でした。
「んでもや、あそこは立ち入り禁止だど!」
立ち入り禁止!だからこそ行ってみたくもなるというものです。
僕ら一向は(一向と言うよりは「一味」と言った感じではございますが・・・)
話が決まりますと、秘密基地があった裏山へと向かいます。
あのぅ、「裏山」というのも、僕らの小学校の裏にありましたから単純に「裏山」なのです。
もう事件多発の裏山なのです。
初めてお聞きする方が多かろうと存じますのでまずは過去の「くだまき」をお聴きくださいませ。
つちのこ?が出た!(矢追純一風) 小学校の頃
まさしく、その現場となった裏山でございます。
さてさて、塩竈再開発も噂されている同山ですが、れっきとした名前がありまして、そこは古い歴史のある山でもあるのです。
「藤倉山」と言います。
藤倉は現在、塩竈市内の住所にもなっております。「うの君のクリニック」も住所は藤倉です。
先だって、ご紹介いたしました旧千賀浦の地図、絵ですが、そこには藤倉とは記載はありません。
明治時代、浦であった藤倉を干拓して、沼にし、「藤倉沼」と呼ばれていたのが、記録にはございます。
朝の散歩には恰好の場所ですが、夏は遠慮したいです。
全長5mはある青大将が住んでます。
酔漢は長男と散歩中に目撃してます。(これも過去にくだまきにしてますが・・)
ここを開発するとなりますと、「何かよからぬことが起きそう・・」と感じたりもいたしますが。
ここから眺める塩竈もなかなか・・。
というわけで、この山について少しばかり。
奥鹽地名集にも「藤倉山」が記載されおております。
藤倉山 上之御林有 御村野山も有、都て松立て多し
この「御林」とは伊達藩直轄の林であったことを裏付ける記載です。
山守が置かれて管理していたという歴史があります。
「松立て多し」松の木が山並みに連なっております。
千賀浦(塩竈列島)をなす代表的な地形であり、自然な姿を残しております。
ちょうど、秘密基地のあった場所には、今は電波増幅のアンテナが立っているわけですが、藪をかき分けて進みますと、絶壁が急に足元に現れます。
流石に、「落ちて怪我をした」という話は今のところ聞いてはおりませんが、大変危ない場所であることは間違いありません。
その山を下って、山伝いに半周しますと、僕らが「神殿跡」と名前を付けました「石切り場」がありました。
そうそう、本日の「くだまき」はここからが本題と相成ります。
(エピソード長くてすみません・・)
「こいずが、スフィンクスでピラミッドのそばにいる石像なんだっちゃ。まぁ狛犬みてぇなもんだべ!」
(絶対にありえない解説だぁ!流石「えつじ」だぁ←小学校の時の担任)
社会の時間だったか記憶は定かではないのですが、「世界の遺跡」という写真集をみんなに見せております担任の「えつじ」です。
その写真を見て、「ただし」がこう発言しました。(「さとうただし」君です。あのアニメの原作者でもあります・・)
「先生!こんなの塩竈さぁあっちゃ!」
「おめぇ、何言ってんだ!ピラミッドが塩竈さぁあるわけねぇべ!」
「そいつは俺も知ってぺ!んでも、似たとこはあっちゃ!」
クラスが急にざわめきだしました。
「ただしぃ、どこや?」
「ほれ!石切り場だ!」
その発言を聞いていた「えつじ」もピン!と来たようでした。
「おめぇら、本当にあそこは危なぇから!行ぐんでねぇど!」
こうして授業は終わったわけです。
で、冒頭に戻ります。
「石切り場さぁ行ぐべ!」
と向かった先が。
です!
僕らの小学校の頃は、まだこんなに荒れてなくて、しっかりしておりました。
流石に、風化が激しく、本当に「危ない!」場所になってます。
でも、「神殿」の雰囲気はありますでしょ!
ここに入ったわけです。
まず、大きな声を出します。
ものすごく響きが良いです。
栃木県で「大谷石の採掘跡地」でコンサートなんか開催されているようですが、それ分かります。
ここでどんな石を採掘していたのでしょう。
「奥鹽地名集」ではこう記載されております。
産物
一 岩くと
この「岩くと」とは、岩で出来た竈の事です。
写真をみてお分かりいただけると思いますが、松島を形成している岩石は「凝灰岩」です。
火に強いところから「竈に最適」とされ、盛んに切り出されました。
「塩竈市史 資料編 85ページ『塩釜町方留書』」には、こう記されてます。
岩石、大社の御下にこれを無く候えば、かた岩これ無き物の由にて、釜石或は岩くと等、所々売出し申候
大社の下(一森山周辺か?)でないと、硬い上質な岩が採掘されなかった。こうした意味なのでしょうか。
またこんな話も残されております。
昔、生路(いくじ)の浜をはじめとした塩を焼く海岸に「塩竈石」と呼ぶ石がたくさんありました。
この石は、竈の底に敷いておき、その上で火を焚いて、塩を焼いたときに使われたものです。
それでこの石は、みんな黒い色をしておりました。そして、長い間使っているうちに、この塩竈石には、塩がくっつき、それが、病気を治すのに大変効果があったということです。
「おっかぁ腹が痛ぇ」
子供が腹を押さえて泣いてます。
母親は海岸へ走っていくと、塩竈石を拾ってきました。その石を火であぶり始めました。
ほどよく石が温まった頃に、布で石を包むと、子供のお腹に当てました。
するとどうでしょう。あれほど痛がっていたお腹が、すぐに治りました。
石垣は確かに多かった塩竈の町々です。
佐浦さんの倉もそうですね。
塩竈石なのです。
神社へ向かう燃料店の倉庫は凄いですね。
こうした、建物は簡単に見つかります。
この日の朝の散歩でも、沢山見つけました。
今では、使われることのない建築資材なのですね。
歴史を感じます。
こうした記録もございますし、
近世でしょうか。こうした写真も残されております。
この写真は、おそらく、先の「神殿跡」での風景なのでしょう。
実は、小松崎、今住んでいる実家の下。
そこも、「石切り場」だったのです。
流石に、立ち入り禁止でした。
切り立った、凝灰岩の壁が、見えます。この下、石切り場跡に、水が溜まっていて、あたかも沼地のようでした。
実は、ディズニーランドへ行って、ジャングルクルーズに乗りますと、その度に思い出す風景なのでした。
小松崎~第二小学校~藤倉山~藤倉の住宅地~梅の宮~小松崎自宅。
朝の散歩で辿った歴史でした。
そしてまさに神殿のような石切り場の跡!行ってみたいですね、私は子供のころからこういう石のある場所に何かそそられるんですよね~(;'∀')。
それにしても最後の写真、ちょっと怖いですね…。
先の震災でも、よく崩壊しなかったなって思いました。近くに家が建っているんですよ。
最後の写真ですね。中に入れないようになっています。湿気がすごいから、地下水が溜まってるのかもしれませんね。
この湧き水が塩竈の歴史を語る上でキーになっているのですが・・・
実は、僕も子供の頃から「怖い場所」なんですよ。
散歩を楽しんでおります。
近代化に終われて消されつつある風景を今のうちに切り取って置くのは大事なことですね。
私も後で写真を撮っておこうと思った建物は震災の影響で壊されてしまいました。
コメントをいただいていたのに気づかず、たった今、拝見致しました…。
メッセージのやり方が分からず、こちらにコメさせていただきました。
本当ですね。もしかしたら・・・「おそばやさん」の看板のあった、あの角の店舗だったかなぁ。
私はあれを撮影しておかなかった事が残念でなりません。チリ地震の津波跡がしっかり壁に残されておりましたので、貴重かな?と思っておりました。
酔漢が、どんな小学生だったのだろう。。(^_^;)
メッセージは、再度のお知らせですが・・。
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となってます。そこをクリックいたしますと、私のメールに繋がりますので、是非お知らせ下さいませ。
コメントお返事遅れてすみませんでした。
夕べ、メッセージを入れてみましたが、ちゃんと届いてますでしょうか…
メッセージ拝受いたしました。
本当にお懐かしうございます。
塩竃の二小で同期の女子とお話が出来た、最初の方ですよ。(ほぼ40年振りですか・・)
みんなどうしているのかなぁ?