小学生になる息子がいきなり「あちゃ、おちゃ、げんまいちゃ」と叫びながら家に入ってきました。
「なんで、そんな前のマンガギャグ知ってんの?」
「友達のお兄ちゃんが言ってた。昔のマンガだって」
「燃えるお兄さんだよね」
「とうちゃん知ってんだ」
「書いた人、知ってるから」
「ホントに!?」
昭和49年、塩竃市立第二小学校。秋の頃です。「マタンキ!」「マタンキ!」僕等恒例の挨拶でした。そしてすぐ、さとう君がいきなり野球の話を始めました。彼が野球の話をすることなど珍しいことでした。
「今年、中日優勝すんだな。ほとんど決まりでないかい」しんどう君が言いました。
「パリーグはロッテだおんな」
「んだ、来週あたりに決まるんでねえか」
「なんで、さとう君てばや、中日の話ばすんのっしゃ?」と酔漢が聞きました。「こいづ見っとわかっと」と少年ジャンプを広げて見せてくれました。トイレット博士の登場人物「つなみ先生」が中日ファンだったのでした。矢沢選手がチャンスに三振するシーンがあったのですが、(まんがの話)そのときドラゴンズのハッピを着た、つなみ先生が「もうホントニ ヤザワ(やだわの洒落)」と言っているシーンがありました。
「こいず見ても分かっと思うけんど、とりいかずよしは中日ファンなんだと」
「しゃねかった」「で、今日俺の家さ来ねぇか。おもせえもん見せからっしゃ」
放課後、しんどう君と酔漢は藤倉にある、さとう君の家に行きました。「みせてぇ物って何っしゃ?」としんどう君。「見るって言うか、どっちかって聞く方だなや」と言ったさとう君が見せてくれたのは「燃えよ中日ドラゴンズ」のレコードでした。「早速聞くべ」
遠い夜空にこだまする 竜の叫びを耳にして
中日球場つめかけた 僕等をじーんとしびれさす
いいぞ、がんばれドラゴンズ 燃えよドラゴンズ
なぜが、レギュラーのほとんどが歌詞になっている応援歌に僕等はある意味感動いたしました。
1番高木が塁に出て 2番谷木が送りバント 3番井上タイムリー 4番マーチンホームラン
5番矢沢がクリーンヒット 6番木俣が流し打ち 7番広瀬がヒットエンドラン 8番島谷スクイズバント
酔漢は今でも、この坂東英二が歌った一番最初のこの歌を歌えます。最後までネ
さとう君はこの年、ロッテファンが多い教室で、ドラゴンズファンを名乗っていました。
彼の作品「燃える!お兄さん」の「燃える」はこの事が繋がっているのかもしれない。と酔漢は勝手に思うのでした。
「とうちゃん。どこで知り合ったの?」
「小学校の同級生さ。隣の席にいたんだ」
「今はどうしてんの?」
「小学校からは会ってないな。今度塩竃のじいちゃんのとこ行ったら、写真見せてあげるよ。もしかしたら、マンガノートがあるかもしれない」
この話を語ったのが2007年5月です。それから現在に至ります。
教えてあげたわけではないのでした。今は中学2年になっている次男との会話です。先だって復刻版の「燃えるお兄さん」を読んでおりました。
「どうだ」
「笑える!だけど過激だなぁ。今のジャンプにはない作品だよね」
次男はシティラピッド君とは趣味が全く違っております。少し紹介します。
水泳を続けておりまして、短水路平泳ぎで日本新記録を出しました「立石涼君」と同じクラブに通っております。もう十年以上通っております。テニスもやっております。体育会系です。漫画はジャンプの作品他好きでよんでいます。ですから、アニメの世界にもハマッテいます。
「やはりお前もそう思うか」
「おもしろいけどね」
酔漢彼の話す「けどね・・」が引っかかります。
「1990年秋に、少年ジャンプが店頭から消えたんだ。その『燃えるお兄さん』が原因なんだ」
「何があったんだ」
僕は話そうか、迷いました。(今、これを語っている間も迷っている部分がございます・・)
問題になった作品は1990年10月9日発売の週間少年ジャンプ「燃えるお兄さん『サイボーグ用務員さん』」でした。
作品の詳細には触れませんが、この内容が、用務員さんの人権を侵害するものだとして大阪の用務員部会(敬称は略させていただきます。ご容赦くださいませ)が集英社に抗議したものです。
集英社は同号の回収とお詫びを掲載いたしました。
その内容は下記によるものです。
『お詫び』
小社発行「週刊少年ジャンプ」第45号(10月22日号、10月9日発売)に掲載した「燃える!お兄さんサイボーグ用務員さんの巻」は、学校現業職員(学校用務員)さんの仕事を教師の仕事より低く描き、当作品全体が、明らかに差別と偏見そのものでした。
これにより、学校現業職員(学校用務員)さんとそのご家族の方々に、多大なご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫び致します。
これまで、皆様方が、教育現場における職務内容の明確化、職名の民主化、法的位置づけ等のため、長期にわたりご努力を続けられてきたことを、日教組、自治労等のご指摘もあり、恥ずかしながら新たに認識致しました。
これを踏まえて、①自治労大阪府本部現業評議会(用務員部会)の方がたをお招きして、全編集部の責任者を対象とした緊急研修会を行い、②「週刊少年ジャンプ」第51号(11月20日発売)誌上で、お詫びと読者への呼びかけ、回収のお知らせを掲載し、③11月21~23日の読売新聞全国版の「週刊プレイボーイ」の広告スペースをさいて、お詫びの社告を掲載させていただきました。
今後、人権・差別の意味を正しく認識し、出版活動を通じて、平等な明るい社会環境づくりに微力をつくすことを、改めて決意し、努力してまいる覚悟です。
追伸なお、当該号の回収本が、当初の予想をはるかに上まわる数量に達したため、その対応に忙殺され、このご案内が遅れましたこと、重ねてお詫び致します。
株式会杜集英社
週刊少年ジャンプ編集部
過去になり、問題となりました作品を読みました。
なるほど、抗議されていても申し開きの出来ない内容であることは明らかでございました。かなり過激な内容であることは間違いありません。
彼を擁護するような材料は、酔漢にも見当たりません。
僕らと用務員さんの関係。これを少しばかり紹介もしたく、前々回の更新分「テロと名人とリボンの騎士とさとう君 その5の前」として語りました。
僕らのいた塩竈市立第二小学校では用務員である大友さんを尊敬しておりました。
同じ題名で作品化するならば、彼(佐藤 正君)もそうした視点から描けなかったのかと、今にしては思うのでした。
思えば彼は小学校時代「用務員さんが地球を救う」というような漫画を描いておりました。彼もまた「大友さん」のファンだったことは間違いないのです。
塩竈発「稀有のギャグ漫画家 佐藤正」彼の才能を思うと何とも残念な事件であります。
「酔漢、昨日のキンドン聞いたか?俺マンガさぁしたどぉ!」
彼の甲高い声を聞くことが朝の始まりだった小学校6年。7組。エツジが担任。
摩訶不思議な学級だったのです。彼の作品を読むと(特に「燃えるお兄さん」)あの頃の教室の雰囲気が漫画にもなっているのでした。
今、どうしているのか。大変気になる酔漢でございます。
昭和49年。ハーグ事件から始まった「ぼくらの事件」は、大きな記憶を僕らに残したまま、今でも忘れられる事のない記憶として残っているのでした。
そして、塩竈市立第二小学校の校舎の物語の一部でもあったのでした。
「なんで、そんな前のマンガギャグ知ってんの?」
「友達のお兄ちゃんが言ってた。昔のマンガだって」
「燃えるお兄さんだよね」
「とうちゃん知ってんだ」
「書いた人、知ってるから」
「ホントに!?」
昭和49年、塩竃市立第二小学校。秋の頃です。「マタンキ!」「マタンキ!」僕等恒例の挨拶でした。そしてすぐ、さとう君がいきなり野球の話を始めました。彼が野球の話をすることなど珍しいことでした。
「今年、中日優勝すんだな。ほとんど決まりでないかい」しんどう君が言いました。
「パリーグはロッテだおんな」
「んだ、来週あたりに決まるんでねえか」
「なんで、さとう君てばや、中日の話ばすんのっしゃ?」と酔漢が聞きました。「こいづ見っとわかっと」と少年ジャンプを広げて見せてくれました。トイレット博士の登場人物「つなみ先生」が中日ファンだったのでした。矢沢選手がチャンスに三振するシーンがあったのですが、(まんがの話)そのときドラゴンズのハッピを着た、つなみ先生が「もうホントニ ヤザワ(やだわの洒落)」と言っているシーンがありました。
「こいず見ても分かっと思うけんど、とりいかずよしは中日ファンなんだと」
「しゃねかった」「で、今日俺の家さ来ねぇか。おもせえもん見せからっしゃ」
放課後、しんどう君と酔漢は藤倉にある、さとう君の家に行きました。「みせてぇ物って何っしゃ?」としんどう君。「見るって言うか、どっちかって聞く方だなや」と言ったさとう君が見せてくれたのは「燃えよ中日ドラゴンズ」のレコードでした。「早速聞くべ」
遠い夜空にこだまする 竜の叫びを耳にして
中日球場つめかけた 僕等をじーんとしびれさす
いいぞ、がんばれドラゴンズ 燃えよドラゴンズ
なぜが、レギュラーのほとんどが歌詞になっている応援歌に僕等はある意味感動いたしました。
1番高木が塁に出て 2番谷木が送りバント 3番井上タイムリー 4番マーチンホームラン
5番矢沢がクリーンヒット 6番木俣が流し打ち 7番広瀬がヒットエンドラン 8番島谷スクイズバント
酔漢は今でも、この坂東英二が歌った一番最初のこの歌を歌えます。最後までネ
さとう君はこの年、ロッテファンが多い教室で、ドラゴンズファンを名乗っていました。
彼の作品「燃える!お兄さん」の「燃える」はこの事が繋がっているのかもしれない。と酔漢は勝手に思うのでした。
「とうちゃん。どこで知り合ったの?」
「小学校の同級生さ。隣の席にいたんだ」
「今はどうしてんの?」
「小学校からは会ってないな。今度塩竃のじいちゃんのとこ行ったら、写真見せてあげるよ。もしかしたら、マンガノートがあるかもしれない」
この話を語ったのが2007年5月です。それから現在に至ります。
教えてあげたわけではないのでした。今は中学2年になっている次男との会話です。先だって復刻版の「燃えるお兄さん」を読んでおりました。
「どうだ」
「笑える!だけど過激だなぁ。今のジャンプにはない作品だよね」
次男はシティラピッド君とは趣味が全く違っております。少し紹介します。
水泳を続けておりまして、短水路平泳ぎで日本新記録を出しました「立石涼君」と同じクラブに通っております。もう十年以上通っております。テニスもやっております。体育会系です。漫画はジャンプの作品他好きでよんでいます。ですから、アニメの世界にもハマッテいます。
「やはりお前もそう思うか」
「おもしろいけどね」
酔漢彼の話す「けどね・・」が引っかかります。
「1990年秋に、少年ジャンプが店頭から消えたんだ。その『燃えるお兄さん』が原因なんだ」
「何があったんだ」
僕は話そうか、迷いました。(今、これを語っている間も迷っている部分がございます・・)
問題になった作品は1990年10月9日発売の週間少年ジャンプ「燃えるお兄さん『サイボーグ用務員さん』」でした。
作品の詳細には触れませんが、この内容が、用務員さんの人権を侵害するものだとして大阪の用務員部会(敬称は略させていただきます。ご容赦くださいませ)が集英社に抗議したものです。
集英社は同号の回収とお詫びを掲載いたしました。
その内容は下記によるものです。
『お詫び』
小社発行「週刊少年ジャンプ」第45号(10月22日号、10月9日発売)に掲載した「燃える!お兄さんサイボーグ用務員さんの巻」は、学校現業職員(学校用務員)さんの仕事を教師の仕事より低く描き、当作品全体が、明らかに差別と偏見そのものでした。
これにより、学校現業職員(学校用務員)さんとそのご家族の方々に、多大なご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫び致します。
これまで、皆様方が、教育現場における職務内容の明確化、職名の民主化、法的位置づけ等のため、長期にわたりご努力を続けられてきたことを、日教組、自治労等のご指摘もあり、恥ずかしながら新たに認識致しました。
これを踏まえて、①自治労大阪府本部現業評議会(用務員部会)の方がたをお招きして、全編集部の責任者を対象とした緊急研修会を行い、②「週刊少年ジャンプ」第51号(11月20日発売)誌上で、お詫びと読者への呼びかけ、回収のお知らせを掲載し、③11月21~23日の読売新聞全国版の「週刊プレイボーイ」の広告スペースをさいて、お詫びの社告を掲載させていただきました。
今後、人権・差別の意味を正しく認識し、出版活動を通じて、平等な明るい社会環境づくりに微力をつくすことを、改めて決意し、努力してまいる覚悟です。
追伸なお、当該号の回収本が、当初の予想をはるかに上まわる数量に達したため、その対応に忙殺され、このご案内が遅れましたこと、重ねてお詫び致します。
株式会杜集英社
週刊少年ジャンプ編集部
過去になり、問題となりました作品を読みました。
なるほど、抗議されていても申し開きの出来ない内容であることは明らかでございました。かなり過激な内容であることは間違いありません。
彼を擁護するような材料は、酔漢にも見当たりません。
僕らと用務員さんの関係。これを少しばかり紹介もしたく、前々回の更新分「テロと名人とリボンの騎士とさとう君 その5の前」として語りました。
僕らのいた塩竈市立第二小学校では用務員である大友さんを尊敬しておりました。
同じ題名で作品化するならば、彼(佐藤 正君)もそうした視点から描けなかったのかと、今にしては思うのでした。
思えば彼は小学校時代「用務員さんが地球を救う」というような漫画を描いておりました。彼もまた「大友さん」のファンだったことは間違いないのです。
塩竈発「稀有のギャグ漫画家 佐藤正」彼の才能を思うと何とも残念な事件であります。
「酔漢、昨日のキンドン聞いたか?俺マンガさぁしたどぉ!」
彼の甲高い声を聞くことが朝の始まりだった小学校6年。7組。エツジが担任。
摩訶不思議な学級だったのです。彼の作品を読むと(特に「燃えるお兄さん」)あの頃の教室の雰囲気が漫画にもなっているのでした。
今、どうしているのか。大変気になる酔漢でございます。
昭和49年。ハーグ事件から始まった「ぼくらの事件」は、大きな記憶を僕らに残したまま、今でも忘れられる事のない記憶として残っているのでした。
そして、塩竈市立第二小学校の校舎の物語の一部でもあったのでした。
心は差別してないけど、表現方法で誤解を招いたということでしょうか。
差別はいけないですけど、最近は言葉だけで、心はどうかなという気がします。
現在は用務員でなく校務技士というのですね。看護婦を看護士にしたり、つまらない言葉狩りにより、いろんなものが冷たい表現になってしまいました。
連載どうもお疲れ様でした。
オイラが物心ついた頃からのことでいえば・・・
世間に波紋を広げ一世を風靡したギャグ漫画家はどこかで壊れてしまう宿命なのかもしれませんね
なにしろ既成概念を破壊することで笑いを敷衍するんだから膨大なエネルギーが必要だし
創作活動には常に自分の中の常識や普通の人の感覚を否定するという
自爆テロにも通じる自己破壊を繰返していかなければ作品ができない・・・
あの天才赤塚富士夫にしても中年以降はアルコールに依存しなけりゃやってられなかったし
オイラの敬愛する吾妻ひでおも軽度の鬱からアル中とホームレス生活の繰返し
江口寿史は「白いワニが来るよ~!」と度々自己崩壊の挙句に完結した連載はほぼ皆無だし
山上たつひこの別ジャンルでの歴史認識への挑戦的な活躍は、自己倒壊へのカウンターブロックにも思えるし
天才少年ともてはやされた10代作家の鴨川つばめ、内崎まさとしも連載1作で行方知れず・・・
赤塚門下の寵児だった土田よしこ、とりいかずよし、古谷三敏も今はギャグ漫画からフェイドアウト
すぐれたギャグ漫画家にはやさしい人が多いので、自分が壊れるか他人を傷つける前に足を洗うか・・・
酔漢さんの級友さとう君ものりに乗って描き続けているうちに
大事なものへの破壊衝動が抑えられなくなったのかもしれませんね・・・
5年生時の担任の女性教師が教室内で繰り返した暴力行為により「給食指導員」の立場となってしまったのです。
漫画とは違って「元教師」と「元教え子」の間にはなんら交流がないまま、私たちは卒業していきました。
男児を10人程黒板前に並ばせ、次々と力いっぱい殴っていた光景を今でも覚えています。日常茶飯事でした。
学級委員だった私を殴ることは出来なかったようですが、殴る行為の原因となった些細な問題、授業中の私語程度でしたが、そういった問題の責任はお前にあると名指しされました。
やがてPTAが動き、校長の審問を受けた私も証言した記憶があります。
以後の私にとっての教師は、仲がよくなっても一歩踏み込んだ関係には至らないようになりました。
中学の同級生はよく教師宅に遊びに行ったりしておりましたが、誘われても断っていました。
先に書いたように中学校では保健室と、あと図書館にしか居場所がなかったような気がします。
すみません。あんましつながりのない書き込みでした。
今打っていたコメントをうっかり消してしまいました。
ショックです。
当時中日ファンとは珍しかったのでは、漫画の影響ですかね。
差別や格差社会は、今問題になっていますが昔からありましたね。
漫画のその内容は知り得ませんが、大阪と言う地域性や団体があったからでしょう。
個人や組織が無い人は耐えてるだけなのですから。
まぁ、ここで言う差別は漫画の件とは、質が違いますがね。
ある意味格差があるのは当然でもありますがね。
教員資格を持った用務員さんがいたとしても、用務員としての採用では教員はできません。
しかし、教員は用務員さんのお手伝いをしてもなんら問題無いでしょう。
まぁ、ここで問題になったのは人権的なことでしょうけど。
「燃えるお兄さん 事件」で閲覧できます。
これを実は公開しようと考えましたが、後の事を考えまして遠慮いたしました。
政治的匂いがかなりきつかったのでございます。
ハーグ事件から燃えるお兄さん事件まで。。。
多くの出来事を見つめていた塩竈市立第二小学校、旧木造校舎だった事をご紹介したく、記事にいたしました。
トム様のテーマにされていることは、僕らの背景には必ず登場するものです。
また、僕らの記憶の中で参考にさせていただければありがたいです。
佐藤正君、実は小学校1・2年時でも同級でした。彼から「チンパン探偵ムッシュバラバラ」の面白さも教えていただいたのでした。
物凄いロックの歌詞でした。
中身はぐずら様と同じ。「鴨川つばめ先生」登場時のショックでした。
ポップ調なギャグ漫画の走りでした同氏ですが、あの絵と発想には大変ショックを受けて、筆を折ることさえ考えたそうです。
「マカロニほうれんそう」も稀代のギャグ漫画でした。佐藤正君からは「つる姫じゃぁ」を紹介されて少女漫画も読みましたが、彼は本当に小学生ながらギャグを追及することが趣味だったのです。ラジオのキンドンもそうでしたし、「ゲバゲバ90分」は欠かさずみておりました。ですが「ドリフ」系にハマッテいた連中とは一線を引いておりまして、「あれのどこがおもせんだべ」というのが彼の口癖でした。
彼のギャグはシュールなところも多数あります。ポップ調なギャグから突然昔ながらのギャグ漫画が登場した「ハイスクール奇面組」。
彼の発想(アシスタント時代)が存分に生かされた作品でもありました。
やはり天才ギャグ漫画家は短命なのでしょうか。彼の運命そして「鴨川つばめ氏」の顛末を思うとそう考えざるをえません。
また、この手は語ろうかと思っております。
「二小はのんびりしている」と最初の挨拶をしました三小から着任したばかりの「宮崎ばっぱ」でした・・・・。
歴史的背景を考えますと難しい。
東北と明らかに風土が違っております。
ですから僕らがある地域を特定するときに使われる言葉も(父は今でも当然のように使います)これを文章にしますと、制約が出てくる事に気づきます。
もっと詳しく掘り下げたいとも考えましたが、政治的な話題にもなりかねませんので、遠慮いたしました。
差別的な意図など毛も先ほどもないことを、予め御断りする次第です。
小生が小学生だった頃、三小では「用務員さん」でした。
ジャンプ事件の後だったと思いますが、『8時だよ、全員集合!』のコントです(学校ものでした)。
出演者の誰だったかが件の科白を口にした途端に流れた、お詫びのテロップ・・・
事件の根の深さと影響の大きさを感ぜずにはおれません。
むずかしい問題です。
小生が用務員のおじちゃんやおばちゃんに御世話になったのは、高校生になってからです。
定期戦前の準備作業、当日のハリボテや大絵の運搬、リーダー台の設営・・・
当時御世話になった皆さんのお顔は、今なお覚えております。
未だに足を向けて寝られません。
作業や練習で残っていると聞えてくる足音、
「応援団、もう帰れよ」の声・・・
耳の底に残ってます。
小生があそこの生徒だった頃は、「三代目裏門校長」を自称する方がいました。
それこそ一年坊主や新任教師なんか足元にも及ばぬ貫禄と権威を持っていたものです。
この間の定期戦の翌日、学校に行ってみたら、
「おお、丹治君」。
思わず振り返ると、当時の守衛さんがニコニコ笑って立ってました。
現役の用務員さんが、突然お亡くなりになられました。生徒代表として弔辞を読み上げました。
文化祭の最中、校内で寝泊りしている僕らに、いつも朝、熱いお茶を持ってきてくれた人でした。丹治様同様、学校行事には必ず手を貸してくださいました。
「流石一高生。我が後輩じゃのう」
青葉繁れるのセリフを思い出しました。