理化学研究所所長「大河内正敏」
高峰譲吉から数えて三代目となります。
貴族議員、造兵学研究主任、子爵と多彩な顔を持っております。
寺田寅彦とは親友。
その寺田は昭和10年の大晦日に亡くなっております。
日本は戦争への泥沼へひた走りその状況は、皆様ご存知の通りです。
開戦前、昭和9年ローマ大学のエンリコ・フェルミがウランに中性子をぶつける(この表現が物理学的に適切であるかまでは酔漢に知識がなく、間違っておりましたらご容赦下さい)実験を行い、ウランから強い放射能が発生したことは確認されております。
それから四年後、昭和13年オットー・ハーンがこれが、放射性バリウムだ出来たことを発表。人類初の核分裂の発見として世界を驚かせます。
フランスではキューり夫妻が原子核に一個の中性子が飛び込んで二つに分裂し同時に二個または三個の中性子が飛び出すことを立証。これは、原子核分裂運動が連鎖性をもっていて、理論的には巨大なエネルギーを解放することを誰しもが認める事となって行きます。
当然、日本でもこれに気づくものがおります。
鳴りをひそめておりました仁科研究所ですが、気づかない訳はありません。
大サイクロトロンの研究を優先させておった仁科は、それらを検証、実験する予算も余裕もなかったのです。
陸軍航空技術研究所所長「安田武雄」陸軍中将は、上記の理論に早くから着目しております。
帝大教授「嵯峨根遼吉」に相談致します。
(先に登場いたしましたが、中曽根が原発開発を最初に相談したのも同教授です。→「接点 ふたりの科学者。それから・・・仁科からの手紙 はじめに・・」をご高覧下さい。
嵯峨根教授の答えは「ウラン爆弾は出現する可能性がある。原料のウラニウムも日本に埋蔵されている可能性がある」というものでした。
安田中将はそれを兵器として開発することを決心いたします。
では、どこに依頼するか。
「理化学研究所内仁科研究室」ここが最先端であることは知っているわけです。
「大河内所長、さっきから一台の車が後をつけているようなんですが」
運転手がバックミラーを気にしながら、大河内に話しかけてきました。
大河内は気にするそぶりも見せず、眠ったふりをしながら座席に坐っております。
果たして、車は理研の敷地まで。
そして、すぐ後に停車致します。
後の車から軍服を着た陸軍将校が降り立ちました。
「理化学研究所所長。大河内子爵ですね」とぶっきらぼうに訪ねます。
「さよう。私が大河内だが」
「陸軍中将安田です。大河内所長に是非ともお話しがしたい。一目のつかないところまで案内してもらいたい」
無礼とは思うものの、火急の用なのであろう。
大河内は、自室へ案内いたします。
「早速なのだが、所長は核分裂によるエネルギーの開放には興味はありませんか!」
「・・・・・・」(やはりこの話題であったか)
「私では何とも答えようがない。仁科君をここに呼ぼう」
暫らくして、仁科が部屋へ入って来ます。
「所長、お呼びですか」
仁科は軍服を着た軍人が理研にいるのは似つかわしくないと思うものの、話を伺うことを決めました。
「こちらは陸軍、安田中将。極秘で君に話しがあるそうだ」
仁科緊張しております。額から汗が噴き出すのを感じます。
「仁科先生。先生の論文は帝大でも話題になりました。ですから、先生に直接ご意見をお聞きいたしたくこちらへ伺った次第。では要件に入ります」
安田が大きく息を呑みこみます。その音が大きく響くように感じました。
「はっきり伺う!日本での原子爆弾開発は可能なのでしょうか」
「原子爆・・・・バク・・・・・ダン!」
「さよう。おそらく各国もその製造に着手するのは時間の問題。我が国が遅れをとるとなれば・・」
仁科、部屋を歩きながら思慮。
数分が経ちました。
「現段階では答えを出すことは出来ません。まだ課題が多く残されております。それが全て未知の領域です。手探りと言っても過言ではありません。しかし・・・」
「しかし・・・とは?」
「爆弾という形にせよ、原子炉の形態をとるにせよ、核エネルギーを取り出すことには非常に興味があります」
「・・・・分かりました・・・お返事を待ってます」
安田は理研を後にいたしました。
仁科が答えを出すのに、二年の月日が経っております。
結果、昭和18年。正式回答として陸軍技術研究所へ書簡を届けております。
今後日本の原爆開発研究は「ニ号研」と呼ばれます。
片仮名のニ。ニシナから取った名称でした。
くだまきに於いて、ニ号研に纏わる話は後程語ります。
頓挫した結果は歴史が知っていることなのですが。
日本が先の大戦で唯一の被爆国であるこは周知の事です。
昭和20年8月6日。広島の悲劇。当日に話しを飛ばします。
仁科がそれを知ったのは翌日7日。
陸軍から大河内、仁科へ電報が届きます。
「至急参謀本部ヘコラレタシ」
出掛ける直前、同盟通信社記者より質問を受けました。
「アメリカが原子爆弾を広島に投下したと発表してますが。どうでしょう」
仁科は冷静に答えます。
「あり得る事」と。
そう一言だけを残して、陸軍の車に乗りました。
同行した大河内は何も話しませんでした。
陸軍では質問攻めにあいます。
「六か月で原爆を製造できないか」
「無理に決まってます。ウランが無ければ話になりません!」
「原爆に対する防禦策は?」
「そんなの簡単に決まってます。飛行機を領空に入れない事です。撃ち落とす他ない」
そんなくだらない会議で決まった事唯一。
「広島へ現地調査」
仁科は放射能の恐怖を知ってます。(知っていると言っても当時、どれ程の影響が人体にあるのか検証されておりません)
広島着。その第一報。
「特殊爆弾である」
8月7日付 宛 玉木英彦 仁科芳雄 拝
玉木君
今度のトルーマン声明が事実とすれば吾々「ニ」号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ、その時期については広島から帰って話をするから、それ迄東京で待機して居って呉れ給へ、そしてトルーマン声明は従来の大統領声明の数字が事実であった様に真実であるらしく思はれる。それは広島へ明日着いて見れば真似一目瞭然であらう。そして参謀本部へ到着した今迄の報告はトルーマン声明を裏書きする様である。
残念乍ら此問題に関してはどうも小生の第六感の教へたる所が正しかったらしい。要するにこれが事実とすればトルーマンの声明する通り、米英の研究者は日本の研究者即ち理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。これは結局に於て米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕してゐるといふことに尽きる。
万事は広島から帰って話をしよう。それ迄に理論上の次の問題を検討しておいて呉れ給へ。「普通の水の代りに重水を使ふとしたら、ウランの濃縮度はどの位で済むのか、又そのウランの量は如何?」
小生は来る11日か12日んは帰京の予定で居るが、飛行機の都合や敵機来襲の状況で、又は調査事項の多寡によって旅程は変更するものと思って呉れ給へ。
今日も飛行機の故障で途中から引き返して来た。早く引き返してよかった。山の中へ直陸したら命の程も覚束なかったかも知れない。
明日は飛行機の都合で午后出発する。匆々
トルーマン声明は今度の原子爆弾が「火薬1万トン」。又は「10トン爆弾の2000倍」の威力があると述べて居る。これは君の報告の数字とよく合致してゐる。
トルーマン声明によれば現在原子爆弾の製造に6万5000の工員が従事してゐると云ふ。一時は12万5000人であったそうだ。広島の8割が只の1弾でやられ死傷11万人を出したといふことだ。その真偽は広島へ行けばわかる。
8月9日。長崎へ。再び原爆の投下。
その、長崎への原爆投下とう同時に別なB29が観測用ゾンデを投下させております。
一通の手紙が押収されたことは歴史の表には、中々出て来ません。
その手紙は英文で書かれておりました。
嵯峨根教授よ。優れた原子核物理学者として、日本参謀本部にこの戦争を続けると日本国民が恐るべき結果を蒙ることを説得してもらいたい。アメリカでは、すでに原爆製造工場を建設し、24時間操業の全生産品が日本の上で爆発することを疑う余地がない。もし戦争を継続するならば、日本の全都市は絶滅されるほかはない。この生命の破壊と空費を停止するために全力を尽くしてもらいたい。われわれは科学者として、優れた発見がこのように用いられるのをまことに残念に思う。日本が即時降伏しないならば、原子爆弾の雨が猛威を加えるであろうと確信せざるを得ない
差出は、戦後も暫らくしてから解りました。L・W・アルバレー(1968年にノーベル物理学賞)その人。
カリフォルニア大学に留学経験のある嵯峨根に宛てた手紙でした。
第二次大戦は終焉したものの、人類は膨大な核兵器に怯える日々が続いております。
大河内所長は赤坂の料亭におります。
太平洋戦争が始まったばかりの頃。
背広のポケットから何やら写真を取り出して眺めております。
「旦さん。何にやけているんですかぁ?」
馴染の芸者が写真を覗くように寄って来ます。
慌てて写真をしまう大河内。
「いやぁねぇ。僕の大事な彼女の写真なのさ。こればかりは見せられないなぁぁ」とにやける大河内でした。
「そんなにベッピンさんなんですかぁ?」
「そりやねぇ・・・君たちなんか及ばない位に美人なんだぁぁ」
孫の写真。
大河内は、常にそれをポケットに入れております。
大河内の死後。
昭和29年。ある映画の公開。
東宝から、衝撃的なその内容は世間の話題に登ります。
題名「ゴジラ」
核兵器への警鐘。
日本が唯一の被爆国であること、そして、その核実験の被害者でもあります。(第五福竜丸事件)
映画は、それをテーマに作られました。
ゴジラ(1954) 予告編 [GODZILLA] 1080p HD BD trailer
一人の女優がデビューしました。
「河内桃子」
大河内所長の孫は、女優として大成致します。
「核兵器へのアンチテーゼ」
「ゴジラ」を見る事はなくこの世を去っておりました。
高峰譲吉から数えて三代目となります。
貴族議員、造兵学研究主任、子爵と多彩な顔を持っております。
寺田寅彦とは親友。
その寺田は昭和10年の大晦日に亡くなっております。
日本は戦争への泥沼へひた走りその状況は、皆様ご存知の通りです。
開戦前、昭和9年ローマ大学のエンリコ・フェルミがウランに中性子をぶつける(この表現が物理学的に適切であるかまでは酔漢に知識がなく、間違っておりましたらご容赦下さい)実験を行い、ウランから強い放射能が発生したことは確認されております。
それから四年後、昭和13年オットー・ハーンがこれが、放射性バリウムだ出来たことを発表。人類初の核分裂の発見として世界を驚かせます。
フランスではキューり夫妻が原子核に一個の中性子が飛び込んで二つに分裂し同時に二個または三個の中性子が飛び出すことを立証。これは、原子核分裂運動が連鎖性をもっていて、理論的には巨大なエネルギーを解放することを誰しもが認める事となって行きます。
当然、日本でもこれに気づくものがおります。
鳴りをひそめておりました仁科研究所ですが、気づかない訳はありません。
大サイクロトロンの研究を優先させておった仁科は、それらを検証、実験する予算も余裕もなかったのです。
陸軍航空技術研究所所長「安田武雄」陸軍中将は、上記の理論に早くから着目しております。
帝大教授「嵯峨根遼吉」に相談致します。
(先に登場いたしましたが、中曽根が原発開発を最初に相談したのも同教授です。→「接点 ふたりの科学者。それから・・・仁科からの手紙 はじめに・・」をご高覧下さい。
嵯峨根教授の答えは「ウラン爆弾は出現する可能性がある。原料のウラニウムも日本に埋蔵されている可能性がある」というものでした。
安田中将はそれを兵器として開発することを決心いたします。
では、どこに依頼するか。
「理化学研究所内仁科研究室」ここが最先端であることは知っているわけです。
「大河内所長、さっきから一台の車が後をつけているようなんですが」
運転手がバックミラーを気にしながら、大河内に話しかけてきました。
大河内は気にするそぶりも見せず、眠ったふりをしながら座席に坐っております。
果たして、車は理研の敷地まで。
そして、すぐ後に停車致します。
後の車から軍服を着た陸軍将校が降り立ちました。
「理化学研究所所長。大河内子爵ですね」とぶっきらぼうに訪ねます。
「さよう。私が大河内だが」
「陸軍中将安田です。大河内所長に是非ともお話しがしたい。一目のつかないところまで案内してもらいたい」
無礼とは思うものの、火急の用なのであろう。
大河内は、自室へ案内いたします。
「早速なのだが、所長は核分裂によるエネルギーの開放には興味はありませんか!」
「・・・・・・」(やはりこの話題であったか)
「私では何とも答えようがない。仁科君をここに呼ぼう」
暫らくして、仁科が部屋へ入って来ます。
「所長、お呼びですか」
仁科は軍服を着た軍人が理研にいるのは似つかわしくないと思うものの、話を伺うことを決めました。
「こちらは陸軍、安田中将。極秘で君に話しがあるそうだ」
仁科緊張しております。額から汗が噴き出すのを感じます。
「仁科先生。先生の論文は帝大でも話題になりました。ですから、先生に直接ご意見をお聞きいたしたくこちらへ伺った次第。では要件に入ります」
安田が大きく息を呑みこみます。その音が大きく響くように感じました。
「はっきり伺う!日本での原子爆弾開発は可能なのでしょうか」
「原子爆・・・・バク・・・・・ダン!」
「さよう。おそらく各国もその製造に着手するのは時間の問題。我が国が遅れをとるとなれば・・」
仁科、部屋を歩きながら思慮。
数分が経ちました。
「現段階では答えを出すことは出来ません。まだ課題が多く残されております。それが全て未知の領域です。手探りと言っても過言ではありません。しかし・・・」
「しかし・・・とは?」
「爆弾という形にせよ、原子炉の形態をとるにせよ、核エネルギーを取り出すことには非常に興味があります」
「・・・・分かりました・・・お返事を待ってます」
安田は理研を後にいたしました。
仁科が答えを出すのに、二年の月日が経っております。
結果、昭和18年。正式回答として陸軍技術研究所へ書簡を届けております。
今後日本の原爆開発研究は「ニ号研」と呼ばれます。
片仮名のニ。ニシナから取った名称でした。
くだまきに於いて、ニ号研に纏わる話は後程語ります。
頓挫した結果は歴史が知っていることなのですが。
日本が先の大戦で唯一の被爆国であるこは周知の事です。
昭和20年8月6日。広島の悲劇。当日に話しを飛ばします。
仁科がそれを知ったのは翌日7日。
陸軍から大河内、仁科へ電報が届きます。
「至急参謀本部ヘコラレタシ」
出掛ける直前、同盟通信社記者より質問を受けました。
「アメリカが原子爆弾を広島に投下したと発表してますが。どうでしょう」
仁科は冷静に答えます。
「あり得る事」と。
そう一言だけを残して、陸軍の車に乗りました。
同行した大河内は何も話しませんでした。
陸軍では質問攻めにあいます。
「六か月で原爆を製造できないか」
「無理に決まってます。ウランが無ければ話になりません!」
「原爆に対する防禦策は?」
「そんなの簡単に決まってます。飛行機を領空に入れない事です。撃ち落とす他ない」
そんなくだらない会議で決まった事唯一。
「広島へ現地調査」
仁科は放射能の恐怖を知ってます。(知っていると言っても当時、どれ程の影響が人体にあるのか検証されておりません)
広島着。その第一報。
「特殊爆弾である」
8月7日付 宛 玉木英彦 仁科芳雄 拝
玉木君
今度のトルーマン声明が事実とすれば吾々「ニ」号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ、その時期については広島から帰って話をするから、それ迄東京で待機して居って呉れ給へ、そしてトルーマン声明は従来の大統領声明の数字が事実であった様に真実であるらしく思はれる。それは広島へ明日着いて見れば真似一目瞭然であらう。そして参謀本部へ到着した今迄の報告はトルーマン声明を裏書きする様である。
残念乍ら此問題に関してはどうも小生の第六感の教へたる所が正しかったらしい。要するにこれが事実とすればトルーマンの声明する通り、米英の研究者は日本の研究者即ち理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。これは結局に於て米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕してゐるといふことに尽きる。
万事は広島から帰って話をしよう。それ迄に理論上の次の問題を検討しておいて呉れ給へ。「普通の水の代りに重水を使ふとしたら、ウランの濃縮度はどの位で済むのか、又そのウランの量は如何?」
小生は来る11日か12日んは帰京の予定で居るが、飛行機の都合や敵機来襲の状況で、又は調査事項の多寡によって旅程は変更するものと思って呉れ給へ。
今日も飛行機の故障で途中から引き返して来た。早く引き返してよかった。山の中へ直陸したら命の程も覚束なかったかも知れない。
明日は飛行機の都合で午后出発する。匆々
トルーマン声明は今度の原子爆弾が「火薬1万トン」。又は「10トン爆弾の2000倍」の威力があると述べて居る。これは君の報告の数字とよく合致してゐる。
トルーマン声明によれば現在原子爆弾の製造に6万5000の工員が従事してゐると云ふ。一時は12万5000人であったそうだ。広島の8割が只の1弾でやられ死傷11万人を出したといふことだ。その真偽は広島へ行けばわかる。
8月9日。長崎へ。再び原爆の投下。
その、長崎への原爆投下とう同時に別なB29が観測用ゾンデを投下させております。
一通の手紙が押収されたことは歴史の表には、中々出て来ません。
その手紙は英文で書かれておりました。
嵯峨根教授よ。優れた原子核物理学者として、日本参謀本部にこの戦争を続けると日本国民が恐るべき結果を蒙ることを説得してもらいたい。アメリカでは、すでに原爆製造工場を建設し、24時間操業の全生産品が日本の上で爆発することを疑う余地がない。もし戦争を継続するならば、日本の全都市は絶滅されるほかはない。この生命の破壊と空費を停止するために全力を尽くしてもらいたい。われわれは科学者として、優れた発見がこのように用いられるのをまことに残念に思う。日本が即時降伏しないならば、原子爆弾の雨が猛威を加えるであろうと確信せざるを得ない
差出は、戦後も暫らくしてから解りました。L・W・アルバレー(1968年にノーベル物理学賞)その人。
カリフォルニア大学に留学経験のある嵯峨根に宛てた手紙でした。
第二次大戦は終焉したものの、人類は膨大な核兵器に怯える日々が続いております。
大河内所長は赤坂の料亭におります。
太平洋戦争が始まったばかりの頃。
背広のポケットから何やら写真を取り出して眺めております。
「旦さん。何にやけているんですかぁ?」
馴染の芸者が写真を覗くように寄って来ます。
慌てて写真をしまう大河内。
「いやぁねぇ。僕の大事な彼女の写真なのさ。こればかりは見せられないなぁぁ」とにやける大河内でした。
「そんなにベッピンさんなんですかぁ?」
「そりやねぇ・・・君たちなんか及ばない位に美人なんだぁぁ」
孫の写真。
大河内は、常にそれをポケットに入れております。
大河内の死後。
昭和29年。ある映画の公開。
東宝から、衝撃的なその内容は世間の話題に登ります。
題名「ゴジラ」
核兵器への警鐘。
日本が唯一の被爆国であること、そして、その核実験の被害者でもあります。(第五福竜丸事件)
映画は、それをテーマに作られました。
ゴジラ(1954) 予告編 [GODZILLA] 1080p HD BD trailer
一人の女優がデビューしました。
「河内桃子」
大河内所長の孫は、女優として大成致します。
「核兵器へのアンチテーゼ」
「ゴジラ」を見る事はなくこの世を去っておりました。
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