秋刀魚の味といえば、小津大監督の映画の題名ではございますが、(映画の話はまた後程たんまりと書き込みます)当時の塩竃を思えば、この題名もはてさて、よろしいのかなと思います。
当時塩竃は秋刀魚の水揚げ日本一の港でございました。国立水産研究所が塩竃市にありまして、その社宅は酔漢の実家(塩竃市小松崎)のすぐそばにありました。秋刀魚漁の解禁が近づくと、秋山さん(水産研究所研究員)秋刀魚漁漁獲高予測が新聞に必ず掲載されておりました。
そんな港町ですから、秋刀魚はよく食べました。今では、秋刀魚を刺身で食べることは当たり前のようになりましたが、当時の流通事情を考えれば、地元ならではの味だったと思います。塩竃市は、鮨屋(宮城寿司街道でもおなじみですが)では秋刀魚の握りはよく出されていたものです。(ちなみに、酔漢の実家より一番近い鮨屋はすし哲ですが、白幡さんにはおせわになりました これもまた後程)焼いて旨い、生(尻尾を持って秋刀魚が立っていて、すこしナヨッテしたあたりが一番旨い状態)でもいいし、秋刀魚は初秋の味としては本当においしい魚です。
酔漢の父親は水産関係、塩竃の市場で働いておりましたから、この時期は秋刀魚が食卓に続きます。水揚げされたばかりのさんまをその漁船の人達が家まで獲れたての秋刀魚を届けてくれるので、(当時ハッポウスチロールの箱なぞありませんでしたので、ばんじょうと呼ばれる、竹の大きな籠に入れてありました)実家の厨房側の裏口には氷と一緒の秋刀魚の箱が3つも4つも重ねてありました。
「また秋刀魚かやいいかげん他のもの喰いてぇ」の日々です。
塩竃はそうでなくても、この時期「秋刀魚は猫も食べない」といわれるほどの水揚げだったのです。前振りが長くなりましたが。
新浜町には空き地が多くありましたので、よく野球をやりました。そして、新浜町は塩竃の市場にも近い場所です。放課後自転車でお目当ての空き地につき、野球をさんざんした後、当然おなかがすくわけです。
「さんま拾いにいぐか?」
「んだ拾いさぁいぐべ」
「んでひろしトタン拾ってこ」(結構落ちていました)
小学生が焚き火をするなどもってのほかですが、当時咎められる事はありませんでした。
「んで醤油もってくっから」しょうじ君が家まで戻りました。
で、かんじんの秋刀魚です。
本当は朝早い時間がいいのですが、秋刀魚漁の最盛期には、水揚げする船が多すぎて、順番待ちになります。今では閑散とした塩竃港ですが、あの長い岸壁が、さんま船で満員状態だったのです。ですから、ゆうがた近くに水揚げをする船も多くありました。当時、保冷車などなく、とれたての秋刀魚は、氷と一緒の積んだばんじょうに入れて、幌をかぶせたトラックに積んでおりましたから、国道45号線、北浜あたりは、秋刀魚がよく落ちておりました。もちろん尻尾を持つとピンっと立つような新鮮なやつです。(猫はそのさんまを跨いで歩いていた?)
僕らはそれを拾うわけです。
焚き火はよく燃えてます。(ちなみにこの経験が少年自然の家でボレンティアをしていた時、野外炊飯の実習時に役立ちました)トタンが程よく熱くなった時に、秋刀魚を並べます。
「今日何本あんのっしゃ?」
「人数分ねがったけんど、4本すか」
「んで6人だから、丁度いいか」
はしはその辺で拾ったこれまた木の枝とか使うわけです
「醤油持ってきたべ」タイミングよくしょうじ君が自転車をはしらせて戻ってきました。
野外秋刀魚パーティーが始まりました。
考えれば、小学生が空き地で焚き火で秋刀魚を焼いて食べているいるわけですから今では信じられない光景です。(たくましいんやら、貧しいんやら、田舎なんだか、自分の息子達には出来ないだろうなぁ)
「今日の秋刀魚旨かったなや」
「やっぱり秋刀魚うめぇっちゃ」
当然、証拠を残さないように、しっかり後片付けはいたします。
家に着くと、さんまを焼いている臭いがします。
「やっぱり秋刀魚かや」と酔漢はおもうのですが、友達と食べた秋刀魚の味は忘れられません。
去年の秋、久しぶりに実家に帰り、すし哲によりました。(もうりっぱな建物になりましたね。ご子息もエスパルにのれんを掲げましたしね)
「親方、さんま握り やっぱ喰いたくなって」
「でしょ、なつかしいでしょ」
「今ではどこでも食べられるけどね、ここで食べるといろいろ思い出すからね」
「酔漢ちゃん(親方はこう呼びます)塩竃離れてどのくらい?」
「もう二十年になるおん、親方も本出したりしたりね、本当に有名になったおんなぁ、すし哲も」
「たまたま。。。塩竃もだいぶ変わったし」
本当にだいぶ変わりました。
今日、近くのスーパーで塩竃産めばちまぐろの刺身を買いました。「入梅前のらっきょうまぐろ」と称して、今、あまりおいしい時期ではありません。ですが、安かったからね。これから食べます。
塩竃のお鮨屋さんのお話は親父の話と一緒にこれもまとめて後程語ります。
で、いよいよサッカー編に突入します。
これは長くなりそうです。前振りです。
4月27日読売新聞に塩竃サッカー界を支えてきた小幡忠義先生の事が紹介されておりました。
そして、陸前浜田駅より塩竃方面に歩くと。加藤商店があります。で、僕らははぜ釣りの帰り、よくラムネをそこで買いました。夕方、サッカーボールを持ってジャス(ジャージ)を来た、高校生がその店に入って来るのを僕らはよく見かけました。そこから国立競技場が始まるのでした。
当時塩竃は秋刀魚の水揚げ日本一の港でございました。国立水産研究所が塩竃市にありまして、その社宅は酔漢の実家(塩竃市小松崎)のすぐそばにありました。秋刀魚漁の解禁が近づくと、秋山さん(水産研究所研究員)秋刀魚漁漁獲高予測が新聞に必ず掲載されておりました。
そんな港町ですから、秋刀魚はよく食べました。今では、秋刀魚を刺身で食べることは当たり前のようになりましたが、当時の流通事情を考えれば、地元ならではの味だったと思います。塩竃市は、鮨屋(宮城寿司街道でもおなじみですが)では秋刀魚の握りはよく出されていたものです。(ちなみに、酔漢の実家より一番近い鮨屋はすし哲ですが、白幡さんにはおせわになりました これもまた後程)焼いて旨い、生(尻尾を持って秋刀魚が立っていて、すこしナヨッテしたあたりが一番旨い状態)でもいいし、秋刀魚は初秋の味としては本当においしい魚です。
酔漢の父親は水産関係、塩竃の市場で働いておりましたから、この時期は秋刀魚が食卓に続きます。水揚げされたばかりのさんまをその漁船の人達が家まで獲れたての秋刀魚を届けてくれるので、(当時ハッポウスチロールの箱なぞありませんでしたので、ばんじょうと呼ばれる、竹の大きな籠に入れてありました)実家の厨房側の裏口には氷と一緒の秋刀魚の箱が3つも4つも重ねてありました。
「また秋刀魚かやいいかげん他のもの喰いてぇ」の日々です。
塩竃はそうでなくても、この時期「秋刀魚は猫も食べない」といわれるほどの水揚げだったのです。前振りが長くなりましたが。
新浜町には空き地が多くありましたので、よく野球をやりました。そして、新浜町は塩竃の市場にも近い場所です。放課後自転車でお目当ての空き地につき、野球をさんざんした後、当然おなかがすくわけです。
「さんま拾いにいぐか?」
「んだ拾いさぁいぐべ」
「んでひろしトタン拾ってこ」(結構落ちていました)
小学生が焚き火をするなどもってのほかですが、当時咎められる事はありませんでした。
「んで醤油もってくっから」しょうじ君が家まで戻りました。
で、かんじんの秋刀魚です。
本当は朝早い時間がいいのですが、秋刀魚漁の最盛期には、水揚げする船が多すぎて、順番待ちになります。今では閑散とした塩竃港ですが、あの長い岸壁が、さんま船で満員状態だったのです。ですから、ゆうがた近くに水揚げをする船も多くありました。当時、保冷車などなく、とれたての秋刀魚は、氷と一緒の積んだばんじょうに入れて、幌をかぶせたトラックに積んでおりましたから、国道45号線、北浜あたりは、秋刀魚がよく落ちておりました。もちろん尻尾を持つとピンっと立つような新鮮なやつです。(猫はそのさんまを跨いで歩いていた?)
僕らはそれを拾うわけです。
焚き火はよく燃えてます。(ちなみにこの経験が少年自然の家でボレンティアをしていた時、野外炊飯の実習時に役立ちました)トタンが程よく熱くなった時に、秋刀魚を並べます。
「今日何本あんのっしゃ?」
「人数分ねがったけんど、4本すか」
「んで6人だから、丁度いいか」
はしはその辺で拾ったこれまた木の枝とか使うわけです
「醤油持ってきたべ」タイミングよくしょうじ君が自転車をはしらせて戻ってきました。
野外秋刀魚パーティーが始まりました。
考えれば、小学生が空き地で焚き火で秋刀魚を焼いて食べているいるわけですから今では信じられない光景です。(たくましいんやら、貧しいんやら、田舎なんだか、自分の息子達には出来ないだろうなぁ)
「今日の秋刀魚旨かったなや」
「やっぱり秋刀魚うめぇっちゃ」
当然、証拠を残さないように、しっかり後片付けはいたします。
家に着くと、さんまを焼いている臭いがします。
「やっぱり秋刀魚かや」と酔漢はおもうのですが、友達と食べた秋刀魚の味は忘れられません。
去年の秋、久しぶりに実家に帰り、すし哲によりました。(もうりっぱな建物になりましたね。ご子息もエスパルにのれんを掲げましたしね)
「親方、さんま握り やっぱ喰いたくなって」
「でしょ、なつかしいでしょ」
「今ではどこでも食べられるけどね、ここで食べるといろいろ思い出すからね」
「酔漢ちゃん(親方はこう呼びます)塩竃離れてどのくらい?」
「もう二十年になるおん、親方も本出したりしたりね、本当に有名になったおんなぁ、すし哲も」
「たまたま。。。塩竃もだいぶ変わったし」
本当にだいぶ変わりました。
今日、近くのスーパーで塩竃産めばちまぐろの刺身を買いました。「入梅前のらっきょうまぐろ」と称して、今、あまりおいしい時期ではありません。ですが、安かったからね。これから食べます。
塩竃のお鮨屋さんのお話は親父の話と一緒にこれもまとめて後程語ります。
で、いよいよサッカー編に突入します。
これは長くなりそうです。前振りです。
4月27日読売新聞に塩竃サッカー界を支えてきた小幡忠義先生の事が紹介されておりました。
そして、陸前浜田駅より塩竃方面に歩くと。加藤商店があります。で、僕らははぜ釣りの帰り、よくラムネをそこで買いました。夕方、サッカーボールを持ってジャス(ジャージ)を来た、高校生がその店に入って来るのを僕らはよく見かけました。そこから国立競技場が始まるのでした。
帰省のたびに、笠神や牛生、そして塩釜市内を歩き回りました。
そもそも食料品その他の買い出しが目的でしたが(元業界人ですからね)、
本音は、「さらばふるさと」の思いが、足を動かしていたのです。
三中は校舎が耐震工事中でした。
昔は土日も部活で賑わっていたのですが、校庭には人の姿はありませんでした。
三中時代から大学生まで、付き合っていたひとがいました。
私はかなり真剣だったのですが、向こうはどうだったのだろうか....
でも東京まで来てくれた程でしたから....
はるかな思いがグルグル回って、誰もいない校庭を眺めていました。
父も母も、いなくなってしまいました。
多賀城組は、比較的「新住民」が多くて、おとなしめの生徒が多かったと思います。
塩釜組は、港町っぽい生徒が目立ってましたね。
抗争事件っぽい他校との「お付き合い」も、あったように思います。
「俺達とは違う人種さぁ住んでっと!」と言った感じです。二小とはかなり雰囲気が違ってましたよね?
三中→仙高→福祉大(同窓)の友人がおりましたが、「三中VS二中はもの凄かった」とか。
すみません、この頃の事情にはうといのですが・・
クロンシュタット様。いかがでしたでしょうか?
すみません。さすがに記憶力の限界が...
私は「カトリック幼稚園」です。平塚先生にはものすごくお世話になりました。ハツラツ園児だったものでして。
幼稚園そばの岩山は、たぶん坂道をちょっと登ったところの山でしょうか?
薄暗く草木が生い茂っていた山のことなら、よく覚えていますが...
三小の近くの岩山まで来ると、我が家まではあと一息です。
学校と我が家の間には、小学生の頃までは「沼」がありまして、夏場の蛙の合唱がものすごかったです。
「とさつば」には小生もよく化石掘りに行ってました。そして東小と「とさつば」の領有を巡って争ったものです。このようなことはどこにでもあるようで、牛越橋附近の広瀬川河川敷は、八幡小と国見小で奪い合いになっていたそうです。
「とさつば」の崖もそうですが、あの頃は埋め立てに使う土を削った残りの切り立った山(丘かな?)があっちこっちに残っていましたよね。
新富町の「たちばな豆腐店」の工場の裏(メガネを逆さに置いたような、二つのコブがある山でした)や三小の近くの岩山は小生が小学生だった頃も残っていました。親に黙ってこういう岩山に登ってたのが(アブナイから行ってはいかんと言われておりました)、小生の山歩きの原体験になっているのでしょうか。
「とさつば」・・・確か今は住宅地になっていると思います。それにしても何で「とさつば」って呼ばれてたんでしょうね。本当にやってたんでしょうか。
そういえば小生が入園した頃、カトリック幼稚園の近く(今の「おおい産婦人科」がある辺りだったと思います)にも岩山がありました。小生が知っているのは、長い竹で柵を作り、崩しにかかっている頃ですが・・・
クロンシュタットさん、覚えていらっしゃいませんか?
「とさつば」かー。確か崖に面していましたよね。
あの崖を登りきることが、男の勲章でした。
化石はもちろんコレクションしてました。
婦人科医院は「遠藤産婦人科」ですね。
友人の家です。何度か遊びに行きましたよ。
ところで、「『とさつば』で化石拾い」しました?
私の実家の前の道路は、トーコーのあった付近で45号と分かれて、三中へ続く、くねくね曲がりの坂道です。
6年生までは未舗装でしたので、トラックはよく魚を落としていました。
秋刀魚はもちろん、鯵や鯖や鰹も落ちていたように記憶しています。
魚を入れる木箱で、「秘密」の家を作る、これはメジャーな遊びでしたね。
近所の水産加工工場は、魚をさばいた「カス」をそのまま側溝に流していました。
骨や頭やらが血まみれで家の前を流れていました。