「くだまき」のロケーションが変わりました。
遠きにありて思っておりました故郷、塩竈を、塩竈に住みながら発信していくようになっております。
まだ自分では「不思議だなやぁ」って思ってしまいます。
仕事をしていて、だんだん言葉が「宮城語」になっていってますし。
そうなんですよ!日に日に「じゃん!」が少なくなってきて「ちゃ!」が多くなってきております。
「このゴミ投げてけらいんね!」と自然に口から出てくるようにもなっておりまして・・。
塩竈で生活するためのリハビリテーションは徐々に進んでおります。
4年ぶりにカテゴリーを追加いたしました。
「塩竈からの時間」。
芭蕉と辿る「くだまき」は、そのままなのですが、塩竈(ここは現地でもありますゆえ)で生活しているわけですから、それを意識いたしました。
その塩竈の実家、自室の窓からは、千賀浦が一望できます。
前回からの続きではないのですが、芭蕉の見た塩竈、千賀浦はどうだったのだろうか?
これは、興味のあるところです。
冒頭の写真は、先ほど完成いたしましたが、酔漢が当時の千賀浦の様子を再現させて、地図を塗りつぶしたものです。
なるほど、「尾島町」はしかっり「尾島」でありますし、「辯天島」(べんてんじま)も、「雀島」もしっかり島の状態です。
籬島(まがき島)が唯一残された島となっているのがわかります。
この地図だけでも絶景が偲ばれます。
一度、ご紹介いたしましたが(「ひーさんの散歩道」から拝借いたしました)「勝画楼」より見た籬島の遠景です。
丁度、見上げたこの写真のガラス窓がその眺めた位置になります。
この絵葉書に「籬島」の解説は掲載されておりませんが、位置的に見て「籬島」に違いないのです。
(勝画楼、籬島とも現存している故、地図で線を引きますと、一致いたします)
絵葉書になる。まさに「画にも勝る風景」。塩竈、千賀浦であったわけです。
上記の絵地図ですと、「法蓮寺」右端が丁度「勝画楼」にあたります。
そして、明治時代の、これも絵葉書になりました「籬島」です。
魚市場の風景と一体化してしまった原風景に慣れてしまった酔漢の目には、大変美しい島に見えてきます。
しほがまの まがきの島の そなれ松 浦さびしくも 年ふけにけり 従三位基雅卿
わがせこをみやこにやりてしほがまのまがきのしまのまつぞこひしき 古今集 東歌
秋ぎりのまがきの島のへだてゆゑそこともみえぬちかの塩竈 新古今和歌集
歌枕としての「籬島」。一度も見たことのない風景を、京の人々は、見事に詠んでおります。
芭蕉は、はたして・・。
これは一度ご紹介しております。
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
籬島は「曲木島」とされるのが語源という説がございます。
鹽竈神社築造の際に、「曲がり木を用いて、それが非常に巧であった」と、籬明神を祀る祠があるところから名づけられたという伝承があるのです。
九日 快晴。辰ノ尅、鹽竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。
五月九日の曽良日記にはこう記されております。
鹽竈の風景。千賀浦の美しさ。
改めて、ここ塩竈から芭蕉と曽良の旅を通して見て参りたい。こう思っております。
再び、塩竈の現在の様子です。
先の地図を埋め立てられた状態で線を引いてみました。
上空写真ではこの様になっております。(塩竈市広報より)
松の残る山が、そのまま島々なのですね。
こうして、その昔を偲ぶことは、少なくなってまいりました。
遠きにありて思うもの・・・・。
身近にありて見えるもの・・・・。
ほそ道の先には、何が見えてくるのでしょうか。
遠きにありて思っておりました故郷、塩竈を、塩竈に住みながら発信していくようになっております。
まだ自分では「不思議だなやぁ」って思ってしまいます。
仕事をしていて、だんだん言葉が「宮城語」になっていってますし。
そうなんですよ!日に日に「じゃん!」が少なくなってきて「ちゃ!」が多くなってきております。
「このゴミ投げてけらいんね!」と自然に口から出てくるようにもなっておりまして・・。
塩竈で生活するためのリハビリテーションは徐々に進んでおります。
4年ぶりにカテゴリーを追加いたしました。
「塩竈からの時間」。
芭蕉と辿る「くだまき」は、そのままなのですが、塩竈(ここは現地でもありますゆえ)で生活しているわけですから、それを意識いたしました。
その塩竈の実家、自室の窓からは、千賀浦が一望できます。
前回からの続きではないのですが、芭蕉の見た塩竈、千賀浦はどうだったのだろうか?
これは、興味のあるところです。
冒頭の写真は、先ほど完成いたしましたが、酔漢が当時の千賀浦の様子を再現させて、地図を塗りつぶしたものです。
なるほど、「尾島町」はしかっり「尾島」でありますし、「辯天島」(べんてんじま)も、「雀島」もしっかり島の状態です。
籬島(まがき島)が唯一残された島となっているのがわかります。
この地図だけでも絶景が偲ばれます。
一度、ご紹介いたしましたが(「ひーさんの散歩道」から拝借いたしました)「勝画楼」より見た籬島の遠景です。
丁度、見上げたこの写真のガラス窓がその眺めた位置になります。
この絵葉書に「籬島」の解説は掲載されておりませんが、位置的に見て「籬島」に違いないのです。
(勝画楼、籬島とも現存している故、地図で線を引きますと、一致いたします)
絵葉書になる。まさに「画にも勝る風景」。塩竈、千賀浦であったわけです。
上記の絵地図ですと、「法蓮寺」右端が丁度「勝画楼」にあたります。
そして、明治時代の、これも絵葉書になりました「籬島」です。
魚市場の風景と一体化してしまった原風景に慣れてしまった酔漢の目には、大変美しい島に見えてきます。
しほがまの まがきの島の そなれ松 浦さびしくも 年ふけにけり 従三位基雅卿
わがせこをみやこにやりてしほがまのまがきのしまのまつぞこひしき 古今集 東歌
秋ぎりのまがきの島のへだてゆゑそこともみえぬちかの塩竈 新古今和歌集
歌枕としての「籬島」。一度も見たことのない風景を、京の人々は、見事に詠んでおります。
芭蕉は、はたして・・。
これは一度ご紹介しております。
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
籬島は「曲木島」とされるのが語源という説がございます。
鹽竈神社築造の際に、「曲がり木を用いて、それが非常に巧であった」と、籬明神を祀る祠があるところから名づけられたという伝承があるのです。
九日 快晴。辰ノ尅、鹽竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。
五月九日の曽良日記にはこう記されております。
鹽竈の風景。千賀浦の美しさ。
改めて、ここ塩竈から芭蕉と曽良の旅を通して見て参りたい。こう思っております。
再び、塩竈の現在の様子です。
先の地図を埋め立てられた状態で線を引いてみました。
上空写真ではこの様になっております。(塩竈市広報より)
松の残る山が、そのまま島々なのですね。
こうして、その昔を偲ぶことは、少なくなってまいりました。
遠きにありて思うもの・・・・。
身近にありて見えるもの・・・・。
ほそ道の先には、何が見えてくるのでしょうか。
この話題は「ひーさんのテリトリー」のような気もいたしますが、自分でも歩いてみたくなりました。これからも、ご教授のほど、よろしくお願いいたします。
どっぷりと宮城に浸かっていって下さいね。
細道は、本当に細道だったと思います。
今では車で移動し、わからなくなってしまった旧道も残っている場所はまだあります。
いつかは、訪ねて見たいと思います。
ご覧のとおり、今は、塩竈~松島への芭蕉と曽良の旅を追いかけております。
ですが、どうやら、塩竈で止まってしまいそうです。
少しばかり、この街の成り行きを深く探ってみたいと考えるようになりました。
元気にしておりますよ。
また、遊びにいらしてくださいませ。
ご高覧、感謝いたしております。
言葉が変化していき、新しい生活にも徐々に慣れていく様子が伺えます。住み慣れた地ですので、繋がりは濃いですね。
新カテゴリー追加おめでとうございます。
8年間のボリュームに圧倒されつつも、新しい読書として少しずつ楽しみに読ませて頂きます。
年の始めの会議も終わり、今年も走り出しました。1番寒い時期を迎えていますので、無理をなさらないようにして下さい。