「くだまき」に於きまして、自身を登場させるのは2度目です。
「若いよなぁ」とは自分の感想。
家内「へぇぇぇ・・・・高校一年生の酔漢君?・・・ふーーーん」
シティラピッド(長男)「親父・・時代を感じるぞ!」
次男「これだぁぁ!ランドナーだぁ!サンツアー・サイクロンGTだぁ!骨董品だぁ」(おい!現役で動くんだぞ!)
それぞれ、視点が違うようでございます(汗)。
先週、急遽、帰省致しました。
全く予定外の帰省です。
不幸がありました。(落ち着きましたら、語ろうかと考えております)
実家へ帰りますと、たとえ、どんな理由があろうと、母はここぞとばかり酔漢を使いに走らせるわけです。
「あなたぁねぇ、そんなふさぎ込んでたってしょうがないの!神棚の掃除とストーブの調子見てくれない!」もう容赦なしです。
80歳で一人暮らしですから、危ないことは出来ない訳です。
これは、引き受けなくてはいけません。
と、実家にいる時の酔漢の様子なのですが・・。
自室書斎の整理は、案外楽しいもので、これは「お宝発掘」的楽しみがございます。
高校時代の記録を紐解いておりましたら、このような記録が出てきました。
「昭和53年。青森~弘前~十二湖~青森~八甲田・奥入瀬~岩手松尾村~雫石・小岩井」までの輪行の記録。
このスタンプ帳が見つかりました。
この「自転車の話」では、高校時代の友人、なかがわ君と、笹谷峠を越えた話を語りました。
「標高差(約900m)距離170kmちょっと」は、一日の走行距離では、酔漢の最も長く、きついものでした。
この、「青森~」は4日に渡り自転車にまたがっていたわけで、旅行としては最長です。
自身の癖ですが、自転車に跨りますと、どうしても、「山を越えたい」と考えてしまいます。
これは、後々後悔することにもなるのですが、(登っている最中は「こげなとこさぁ、こねぇ方がえがったぁぁ」と思うのでして・・)登り切った爽快感は、何も変えられない充実感です。
では少しだけ当時を振り返って語りましょう。
仙台を21時36分出る、夜行「八甲田」に乗り込んで、青森駅着が翌日の6時40分頃。
真夏の夜行列車は、座席も今と違って木枠ですから、いろいろな工夫をいたします。
因みに、網棚で寝ている人もおりました。
大きなリックはそこらじゅうにごろごろ転がっていて、自転車と一緒の人も多く観られました。
酔漢は自転車は袋に入れて(これを輪行と言います)デッキの手すりにくくっておりました。
青森駅で自転車を組み立てて、弘前市内へ。
そこで、親戚を訪ねました。
弘前を走っている最中は、最高気温が36度という猛暑。
北国とはいうものの、盆地特有の暑さは堪えました。
翌日は途中まで自転車で岩木山まで行って(流石に登れません)山頂まで。
ここに日付がありますが、五能線沿いを下って、白神山地の入口「十二湖」まで出かけました。
夏の太陽とは行かず、どんよりとした風景。
ここにメモがありますが、「不気味な空と海」は印象に残っております。
ですが、日本キャニオンとはよくぞのネーミングで、素晴らしい原生林と山肌のコントラストが見事。
「夕方、夕日に染まる時間はどんな色になるんだろう」これは、是非とも眺めてみたい。今でも思います。
弘前にもどり、市内をぶらぶら。
弘前市内にあります、「日本最北端の五十の塔」がございます「最勝院」に向かいました。
この閑静な中にある最勝院。
その建物に圧倒されました。
弘前は東北にあって、東北ではない独自の色を見せてくれますよね。
「ねぷた」「津軽三味線」「棟方志功」などなど。この「熱さ」は寡黙な人々からは想像できない位のエネルギーを感じます。
右上にメモがありますが、「岩手の自転車野郎『藤村君』」と出会いました。彼が弘前城脇でパンク修理中に声をかけたわけです。
暫らく、二人で市内を走り回っておりました。
右上が、弘前城ユースホステルのスタンプ。
酔漢は弘前から金木へと向かいます。
この右上のメモ。
青森県のサイクリング協会内で、輪行許可証を受け取る為です。
当時、自転車を電車に乗せるためには、「日本サイクリング協会」の許可証が必要でしたし、おまけに、「手回り品切符」を購入する必要があった訳です。
今は本当に楽になりました。
右下が、愛車ですが、「最勝院五重の塔」で撮影したものです。
さて、翌日からが地獄。
写真は戻って、左側に「小岩井農場入園券」がありますが、その写真の下。
これ「奥入瀬」なんです。
大雨の後でしたので、このような濁流になっております。
ここまで行きつくのには・・・・。
国道103号をただひたすら登らなくてはなりません。傘松峠が最標高で1000m少しあります。
当初はガッツで乗り切る。予定でした。
あの、Tシャツがグレーでしたが、体中から吹いてくる汗が塩の結晶となって、ホルスタイン模様になってますし、途中の長いトンネルでは、長距離トラックにあおられて、なんと、自転車が空中へ浮いて、タイヤが空回りしたまま、5mも飛んでしまった。このような体験をいたしました。
結局、途中の土砂降りで右膝の関節が痛くなって、叔父の車と合流して、志半ばでもってリタイアいたしました。
八甲田制覇まであと5Kmのところでした。
「ここから、このあと5kmの道がどうしても解らない!」とか。
「天は我を見放したぁ」
と、これは心の叫びでございます。
二戸近くで、再び自転車。
取り敢えず、盛岡へ向かいましたが、もう身体はぼろぼろ。
ここから、自転車一本で、塩竃へ帰る計画を立てておりましたが、もう足は限界でした。
森岡から再び輪行でした。
高校1年の夏休み。
考えれば「無謀」
この秋、十和田に社員旅行に行ったシティラピッド。
バスからの眺めを堪能しながら、「親父。こんなとこ自転車で行こうなんたよく思ったもんだ!」と呆れられました。
今では到底考えもしない旅行ですが、案外、自分の糧となっております。
当時、デジカメなんてなかったし、荷物は1gでも軽くしていきたい。
こうした思いがつよかったものでしたから、「記録」なんて思いつきませんでした。
出たての「レンズ付きフィルム」はバッグに入れてましたが、高温でまったく使えませんでした。
そうそう、農道を走ってまして、ボトルの水が空っぽ。
もう喉がカラカラで、頭がボーとしてきて(脱水症状直前)目の前に人一人もいない道の先に「コーラの自販機」が見えまして。
「助かったぁ」と思って、財布を開けたら「小銭がない!!!!」
当時、千円札の入口がなかったのです。
もう、「ここで水分を補給しなかったら、命がヤバイ!」と必至に手を突っ込んだら。
なんと、一本抜き取ることに成功!。
ところが、ところが、一本取り出したら、後から後から、コーラが、次々を出て来て。(落ちるのが止まらなくて。結局ストッパーを壊してしまった・・)
8本のコーラを手にすることに。
3本をバックに入れて、後は自販機に上に載せておいて・・・。
その場で立て続けに二本のコーラをいただきましたら!!!!!
腕の表面から汗が噴き出して、これがまるでスポンジで水を絞り出すかのよう。
それがただの汗ではなくて。コーラ色の汗!
人の身体の不思議さを思い知りました。
でも、ここで泥棒さんにならなかったら、僕はどうなっていたのでしょうか・・・。
結局、千円札を、自販機にガムテープで張り付けておきましたが。やはり泥棒さんには成りたくなかったのでした。
新幹線より、福島付近で「安達太良」が見えますと、「東北さぁけぇって来たなや」と思い、心が弾みます。
ですが、今年はそうはいきませんでした。
多くの、事を思い出しながらの帰省。
正直、心が重い。
「くだまき」も、少し気分転換させようと考えました。
自分の思い出を語ることで、少し、原点に帰ろうと思いました。
一本の電話。
「酔漢ちゃん。最近更新してねぇから、何かあったのすか?さぼってたら喝でもいれっぺとおもってっしゃ!」
更新できなかった訳を話しました。
彼は無言で聴いてくれました。
塩竈、梅の宮神社境内で塩竈の街を見ておりました。やはり、一本の電話がありました。
「暇だったら、ランチ、一緒にどう?」
短い電話でしたが、この言葉の優しさを忘れません。
そして、仕事の合い間に時間を作ってくれた彼には感謝の言葉しか出て来ません。
故郷の友は、やはり、心の支えになる事を、噛みしめながら塩竈を後にいたしました。
愛車は・・・・主の帰りを待っていてくれてます。
何時もの事ですが、磨いてきました。
「若いよなぁ」とは自分の感想。
家内「へぇぇぇ・・・・高校一年生の酔漢君?・・・ふーーーん」
シティラピッド(長男)「親父・・時代を感じるぞ!」
次男「これだぁぁ!ランドナーだぁ!サンツアー・サイクロンGTだぁ!骨董品だぁ」(おい!現役で動くんだぞ!)
それぞれ、視点が違うようでございます(汗)。
先週、急遽、帰省致しました。
全く予定外の帰省です。
不幸がありました。(落ち着きましたら、語ろうかと考えております)
実家へ帰りますと、たとえ、どんな理由があろうと、母はここぞとばかり酔漢を使いに走らせるわけです。
「あなたぁねぇ、そんなふさぎ込んでたってしょうがないの!神棚の掃除とストーブの調子見てくれない!」もう容赦なしです。
80歳で一人暮らしですから、危ないことは出来ない訳です。
これは、引き受けなくてはいけません。
と、実家にいる時の酔漢の様子なのですが・・。
自室書斎の整理は、案外楽しいもので、これは「お宝発掘」的楽しみがございます。
高校時代の記録を紐解いておりましたら、このような記録が出てきました。
「昭和53年。青森~弘前~十二湖~青森~八甲田・奥入瀬~岩手松尾村~雫石・小岩井」までの輪行の記録。
このスタンプ帳が見つかりました。
この「自転車の話」では、高校時代の友人、なかがわ君と、笹谷峠を越えた話を語りました。
「標高差(約900m)距離170kmちょっと」は、一日の走行距離では、酔漢の最も長く、きついものでした。
この、「青森~」は4日に渡り自転車にまたがっていたわけで、旅行としては最長です。
自身の癖ですが、自転車に跨りますと、どうしても、「山を越えたい」と考えてしまいます。
これは、後々後悔することにもなるのですが、(登っている最中は「こげなとこさぁ、こねぇ方がえがったぁぁ」と思うのでして・・)登り切った爽快感は、何も変えられない充実感です。
では少しだけ当時を振り返って語りましょう。
仙台を21時36分出る、夜行「八甲田」に乗り込んで、青森駅着が翌日の6時40分頃。
真夏の夜行列車は、座席も今と違って木枠ですから、いろいろな工夫をいたします。
因みに、網棚で寝ている人もおりました。
大きなリックはそこらじゅうにごろごろ転がっていて、自転車と一緒の人も多く観られました。
酔漢は自転車は袋に入れて(これを輪行と言います)デッキの手すりにくくっておりました。
青森駅で自転車を組み立てて、弘前市内へ。
そこで、親戚を訪ねました。
弘前を走っている最中は、最高気温が36度という猛暑。
北国とはいうものの、盆地特有の暑さは堪えました。
翌日は途中まで自転車で岩木山まで行って(流石に登れません)山頂まで。
ここに日付がありますが、五能線沿いを下って、白神山地の入口「十二湖」まで出かけました。
夏の太陽とは行かず、どんよりとした風景。
ここにメモがありますが、「不気味な空と海」は印象に残っております。
ですが、日本キャニオンとはよくぞのネーミングで、素晴らしい原生林と山肌のコントラストが見事。
「夕方、夕日に染まる時間はどんな色になるんだろう」これは、是非とも眺めてみたい。今でも思います。
弘前にもどり、市内をぶらぶら。
弘前市内にあります、「日本最北端の五十の塔」がございます「最勝院」に向かいました。
この閑静な中にある最勝院。
その建物に圧倒されました。
弘前は東北にあって、東北ではない独自の色を見せてくれますよね。
「ねぷた」「津軽三味線」「棟方志功」などなど。この「熱さ」は寡黙な人々からは想像できない位のエネルギーを感じます。
右上にメモがありますが、「岩手の自転車野郎『藤村君』」と出会いました。彼が弘前城脇でパンク修理中に声をかけたわけです。
暫らく、二人で市内を走り回っておりました。
右上が、弘前城ユースホステルのスタンプ。
酔漢は弘前から金木へと向かいます。
この右上のメモ。
青森県のサイクリング協会内で、輪行許可証を受け取る為です。
当時、自転車を電車に乗せるためには、「日本サイクリング協会」の許可証が必要でしたし、おまけに、「手回り品切符」を購入する必要があった訳です。
今は本当に楽になりました。
右下が、愛車ですが、「最勝院五重の塔」で撮影したものです。
さて、翌日からが地獄。
写真は戻って、左側に「小岩井農場入園券」がありますが、その写真の下。
これ「奥入瀬」なんです。
大雨の後でしたので、このような濁流になっております。
ここまで行きつくのには・・・・。
国道103号をただひたすら登らなくてはなりません。傘松峠が最標高で1000m少しあります。
当初はガッツで乗り切る。予定でした。
あの、Tシャツがグレーでしたが、体中から吹いてくる汗が塩の結晶となって、ホルスタイン模様になってますし、途中の長いトンネルでは、長距離トラックにあおられて、なんと、自転車が空中へ浮いて、タイヤが空回りしたまま、5mも飛んでしまった。このような体験をいたしました。
結局、途中の土砂降りで右膝の関節が痛くなって、叔父の車と合流して、志半ばでもってリタイアいたしました。
八甲田制覇まであと5Kmのところでした。
「ここから、このあと5kmの道がどうしても解らない!」とか。
「天は我を見放したぁ」
と、これは心の叫びでございます。
二戸近くで、再び自転車。
取り敢えず、盛岡へ向かいましたが、もう身体はぼろぼろ。
ここから、自転車一本で、塩竃へ帰る計画を立てておりましたが、もう足は限界でした。
森岡から再び輪行でした。
高校1年の夏休み。
考えれば「無謀」
この秋、十和田に社員旅行に行ったシティラピッド。
バスからの眺めを堪能しながら、「親父。こんなとこ自転車で行こうなんたよく思ったもんだ!」と呆れられました。
今では到底考えもしない旅行ですが、案外、自分の糧となっております。
当時、デジカメなんてなかったし、荷物は1gでも軽くしていきたい。
こうした思いがつよかったものでしたから、「記録」なんて思いつきませんでした。
出たての「レンズ付きフィルム」はバッグに入れてましたが、高温でまったく使えませんでした。
そうそう、農道を走ってまして、ボトルの水が空っぽ。
もう喉がカラカラで、頭がボーとしてきて(脱水症状直前)目の前に人一人もいない道の先に「コーラの自販機」が見えまして。
「助かったぁ」と思って、財布を開けたら「小銭がない!!!!」
当時、千円札の入口がなかったのです。
もう、「ここで水分を補給しなかったら、命がヤバイ!」と必至に手を突っ込んだら。
なんと、一本抜き取ることに成功!。
ところが、ところが、一本取り出したら、後から後から、コーラが、次々を出て来て。(落ちるのが止まらなくて。結局ストッパーを壊してしまった・・)
8本のコーラを手にすることに。
3本をバックに入れて、後は自販機に上に載せておいて・・・。
その場で立て続けに二本のコーラをいただきましたら!!!!!
腕の表面から汗が噴き出して、これがまるでスポンジで水を絞り出すかのよう。
それがただの汗ではなくて。コーラ色の汗!
人の身体の不思議さを思い知りました。
でも、ここで泥棒さんにならなかったら、僕はどうなっていたのでしょうか・・・。
結局、千円札を、自販機にガムテープで張り付けておきましたが。やはり泥棒さんには成りたくなかったのでした。
新幹線より、福島付近で「安達太良」が見えますと、「東北さぁけぇって来たなや」と思い、心が弾みます。
ですが、今年はそうはいきませんでした。
多くの、事を思い出しながらの帰省。
正直、心が重い。
「くだまき」も、少し気分転換させようと考えました。
自分の思い出を語ることで、少し、原点に帰ろうと思いました。
一本の電話。
「酔漢ちゃん。最近更新してねぇから、何かあったのすか?さぼってたら喝でもいれっぺとおもってっしゃ!」
更新できなかった訳を話しました。
彼は無言で聴いてくれました。
塩竈、梅の宮神社境内で塩竈の街を見ておりました。やはり、一本の電話がありました。
「暇だったら、ランチ、一緒にどう?」
短い電話でしたが、この言葉の優しさを忘れません。
そして、仕事の合い間に時間を作ってくれた彼には感謝の言葉しか出て来ません。
故郷の友は、やはり、心の支えになる事を、噛みしめながら塩竈を後にいたしました。
愛車は・・・・主の帰りを待っていてくれてます。
何時もの事ですが、磨いてきました。
素晴らしい青春の一こまですね!
酔漢さんと私は同世代ですから懐かしいと思う雰囲気もありましたね。
いいですねえ、自転車と電車の旅。しかも親しい友人との旅。
コーラの自販機のくだりは思い切り笑いました。その情景が目に浮かんできてもう・・・きちんと千円札を張り付けてきた、というところがまた素晴らしい。
今の人ならしないかもしれないですね、酔漢さんご自身と、そして時代の良心を感じます。
故郷の友っていつになってもいいものですね。
お身内にご不幸がございましたとのこと、お悔やみ申し上げます。
本文についてですが、何とも若さとガッツに満ち溢れた高校時代ですねぇ!
昭和53年…私めは影も形もどころか、両親がまだ結婚もしていなかった頃です。確かうちの親父殿が箱スカとやらに乗っていたらしい、と伝え聞く時代かと。
高崎の近郊に住んでいた頃、最寄り駅でどう見ても自転車が入っているとおぼしきでっかい袋を担いだ人を、たまに見かけていました。
あの辺りは、だいぶ平野ですから、走りやすいのですかね。
自転車は人力なので、「自分の足で」遠くまで行くという感覚なのかな、と朧げに思います。
平野とはいえ、往復15km近くを通勤で走破していた頃によく思いました。自転車なら何とかなるが、この距離は歩けない、と。
今住んでいる横浜から、一度くらいは在来線乗り継ぎで帰ってみてもよいかな、でもこの年末は止めとこう(←腰を傷めました)、などとぼんやり考えております。
電車やバスにほとんど乗らずに育って、乗り物酔いがひどい私には、充分厳しいチャレンジなのです…。
年の瀬で何かとお忙しいでしょうが、お疲れの出ませんように、ご自愛くださいませ。
酔漢さんが、
自転車の旅の頃
私は
小4ですかね。
私の故郷を
爆走していたとは…。
やっぱり
酔漢さんは
凄い!
年末商戦も追い込みです。
私も数年振りに、
緊張感を味わっております。
マエストロは、
バイト(某CD、レコードショップ)と非常勤講師で忙しくしています。
ご不幸があったのですね。
心中お察しします。
コーラ色の汗(だけじゃなくて味の方も・・)ここでなきゃ経験できません(ってあるか!普通)→自分でも思います。
故郷に帰って、親が元気な事。そして友人達の笑顔。
これが何よりです。
電車に乗る事が本当に好きなんだと思います。彼の場合、仕事も一緒なのですが。
あのころは、通学前に毎日18km走ってました。
クールビズとかで、ネクタイをしてない事が多くなりましたが、これは、もう30年位変わらない恰好です。
旅の話を次男にしても「ほんとか?」って不思議がられます。「俺と同じ位自転車に乗ればわかるんだ」と、奴の今風ロードレーサーを眺めながら思ってしまいます。
足が痛くてふらふらになりながら走った記憶があります。
素晴らしい山並みを眺めながら走っておりました。
思ったより夏は暑かったです。