酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

明治35年の今日 天候暴風雪波浪警報 場所 八甲田山中 

2014-01-30 11:40:38 | ああ宮城県な話
ヒルクライマー。こんな言葉は、酔漢が自転車に乗っている頃にはありませんでした。
「親父は、もう典型的な『ヒルクライマー』だよな」
「なんだ?でもピレネー越えなんて出来やしない」
「親父の自転車の旅記録は殆どが山登りで・・俺には真似できないよ」
正直、自転車のスペックは今のロードバイクには叶わない当時のランドナーです。
(それなりに、味はありますし、遠出であればこれほど楽な自転車は無いのです・・)
でも、「親父には敵わない」こうした台詞は案外嬉しかったりするわけです。
「一番きつかったのは?」
「十和田湖の周回。距離も標高差もこれが堪えた」
高校二年の夏。
青森市内から八甲田を目指した酔漢でした。
途中に見える山々の険しさ。その峠の向こう側では・・。
自転車をこぎながら頭の中ではあのBGMが流れ続けておりました。
十和田湖が見えた峠の頂上。
ついつい出た台詞は三国廉太郎さんのもの。
「と・わ・だ・・・・・・ダ!」

明治三十五年一月三十日。
青森歩兵第五連隊二百十名が八甲田へ入り一週間目です。
既に、捜索隊が入っていて、遭難者の捜索、救助、遺体の収容などが始まっております。
天候は、先週、遭難が確実となった一月二十六日よりは落ち着いております。
昨年、降雪記録日本一を塗り替えた土地です。
それは、明治とて、変わりはありません。
生存者、倉石大尉の手記。
今日はこう書かれております。

「雪中行軍遭難悲話」より抜粋です
1月30日 二等卒後藤惣助は我らのこもっている所に来たので一団五名となる。
ただ天を仰ぎ死を待つより外なかった。


死を覚悟した大尉の状況です。
大尉は、雪だるま状態で発見されます。
渓谷へ入り、雪洞とも呼べないような窪地でじっとしておる処を発見されるのが翌日三十一日です。
今からちょうど百十二年前の出来事なのです。
「くだまき」は、今日のこの日おn出来事を、日本映画史上記録的な興行成績を収めた「八甲田山」と、
その原作となった新田次郎氏の「八甲田山死の彷徨」を振り返ってみます。

五橋中学校三年三組。お昼休み。「とり」さんが、声をかけて来ました。
「酔漢君、今日は何読んでるの?」
「今日はこれっしゃ。」と見せたのが、新田次郎氏の「八甲田山死の彷徨」です。
「私ねぇ、これ読んだ・・・・もう悲惨」
「んだよね・・丁度、今、三日目の状況だっちゃ。神成の苦悩がわかるとこだすぺ」

初めての方の為に、少しばかりご説明をいたしましょう。

映画八甲田山の冒頭予告編をまずはご覧ください。
映画『八甲田山』 予告篇


日清戦争時、日本軍は極寒という本土にはない気候に悩まされます。当時の仮想敵国ロシアはさらなる極寒の地。
そこでの戦闘能力の維持は不可欠でした。しかしながら、そこでの戦闘経験は、軍には乏しい事実。
また、ロシア艦隊が、津軽海峡を封鎖し陸奥湾に突入してきた際には、青森と弘前は孤立し、八甲田を越えるルートでしか物資輸送は不可能となります。
真冬の八甲田走破もまた、必要な経験なのでした。
それに挑んだ若き将校二名。
小説。映画では弘前歩兵三十一連隊を徳島大尉が。青森歩兵第五連隊を神田大尉が率いての二名ですが、実際には、弘前を福島泰三大尉が、青森を神成文吉大尉が率いております。

弘前、福島大尉


青森 神成大尉


その行動は、対照的であり過ぎる程、対照的です。
弘前三十一連隊、福島大尉の計画は、綿密であり、現在も通用する冬山縦走の基本とも言うべき計画、装備、実行です。
十一日をかけて、八甲田を走破するには、この方法が一番理に叶っており、全員生還もうなずけます。

しかしながら、日本山岳遭難史上、最も犠牲者の多かった青森五連隊の行動は、組織、個人の問題をもはらみ、多くの要因が複雑に絡みあった複合的遭難とも言えます。
時系列を紐解きます。

一月二十三日 午前6時55分に青森の連隊を出発致します。(現青森高等学校構内)総勢210名の大舞台です。
初日から地吹雪と食料搭載のそりが出遅れるなど、すでに、決行するには困難な状況に陥ります

一月二十四日 午前1時過ぎに、遅れてきた輸送隊により、半が湯を支給されるが、露営地は体感気温が-50℃近くとなり、帰営を山口少佐が判断。、戻ることなる。
峡谷はまり彷徨となります。午前三時頃、映画でも有名なシーンではありますが、佐藤特務曹長が「田代への道を知っている」と進言し、そこで案内するも、これが、更に道に迷う結果となります。(映画では進藤特務兵曹)。
映画では、崖を登るシーンが登場致しますが、ここでの犠牲者の記録は無く、登れず、犠牲になった兵が何名いたのかは記録上は不明でした。
ですが、記録では、最初の犠牲者がでたことは間違いありません。
この日、結果的には、前日より数百メートル進んだだけとなっております。

一月二十五日 夜明けを待って出発を、凍死者が多数出ていた為、未明の出発となっております。
映画では、神田大尉が進言し、未明の出発をなっていますが、実際の指揮系統がどうなっていたかは、不明です。この日までにすでに80名もの犠牲者が出ております。
この日、北海道旭川では、日本最低気温の記録-40.8℃となっておりました。
倉石大尉の手記を紐解きます。

午前三時、倒れた興津中隊長を携い暗を犯して前進した。
このとき余は青森街道と約千㍍ばかり異なるのを発見し、回れ右の号令をなし行路を転じたが悲しむべし、凍傷に倒れる兵士多く三十名ばかりは屏風を倒すように倒れた。
総身の熱意をもって勇気を鼓舞したかったが、日本特有の魂は確かだが身体の自由を奪われた時には何の甲斐もなかった。

午後七時、天は余らをますます悲運に陥らせた。
山口大隊長は再び人事不省となり、将校数名は相抱いて樹下に風雪を凌ぎ生木の枝を集めて火を点じたがジュジュと音がするだけで暖をとることができなかった。
ここにおいて万事の望を没し去られた余らの胸中は今語ろうとしても形容する辞がない。
僅かに背嚢に板片があることが判ったので、死者の携えるのを集め焚火となし、大隊長を暖めた。
しかし大隊長は蘇生せず斃れる者ますます多く、今や一刻も立ち止まる時に非ずと行進すること一時間、天の一方に碧空を認めた。
時に雪少し小晴となったので、一組八名の下士斥候を編成して一は田茂木野に出る道を捜させ、一は田代に通ずる道を捜させた。
その間、健脚な兵士を集め、近傍に死んだ者の食物を集めさせた時、突然山口大隊長蘇生したので、全軍一同勇気づき猛然と前進を始めた。
この時、大隊長の命により神成大尉各隊を指揮し火燧山付近に着いた時は正午十二時であった。

ここに停止した時、大橋中尉が倒れた。永井軍医の診断で空腹であるためと言う。
そこで残った食物をかんで与えたら蘇生するを得た。
それから賽の河原の方向さして進んだが、大橋中尉、永井軍医その外の兵士の多くは、この辺から遅れた。
余が賽の河原の西方で待っても来らず、然るに約千㍍の渓谷に人の声が聞えた。
これぞ前進した神成大尉の一行であろう。
既に日は暮れ寒気酷烈、進むことができず露営することに決した。
その夜は心身共に疲労し空腹、昏睡したが今泉見習士官に二度三度呼び起された。


この日、映画や小説では、部隊の解散のような事を神田が言い、それを聴いた途端、兵がそれぞれの行動と取り、裸になる者。河へ飛び込む者。発狂する者が続出したように描かれます。
しかし、部隊としてのそれは無かったというのが現在の史実の様です。

一月二十六日 すでに、部隊は70名程になっております。
救援隊はどうしておったのか、前日、青森五連隊は、ことの次第の大きさに気づきます。一向を迎える準備をしますが、幸畑付近。しかし、一向に部隊が現れる気配もなく、連隊では、三本木方面へ抜けたと解釈し、三本木警察へ電報を送りますが、事実を把握できません。
そして、二十六日に60名体制で捜索隊を編成出発させます。
田茂木野で案内人を依頼するが、-14度近い気温と風雪悪化の為断念します。

再び倉石手記を見ます。

午前一時頃、神成大尉一行の集団した所に至るため出発した。
約千㍍進むのに二時間半を費やした。
この間不幸にも再び山口大隊長は人事不省に陥り、種々介抱したが「ああ」という声のみで蘇生しなかったので、強壮な兵士数名に守らせて前進したが、神成大尉一行は影だになく、そのうちの中ノ森で露営することとなった。
各幹部は厳然寒気と戦ったが、夜に入って疲労と寒さに血凍え昏睡しるに至ったもの数名あり。
この日行進した道は普通ならば二時間ばかりで達することができるのだが、一食もせずただ雪にかじりつつ行くので一日を費やしたのである。


この日、神成大尉と倉石大尉とは道を別に致します。
神成大尉は数名を連れ、田茂木野へ向かい。倉石大尉は、山口少佐を連れて青森へと向かいます。

一月二十七日倉石大尉一向は駒込川へ進み、崖にぶち当たり、一歩も進むことが出来ず、ここで立ち往生となります。結果ですが、これの一件、厳しそうなロケーションですが、風が左程でもなく、これが生還の決め手になっております。
神成大尉は、地図上、目的地へは正確に進んではおりますが、再び風雪が強く、体力の衰えもあり、落伍者が続出致します。

時間不明、ひとりの伍長告げて曰く「田茂木野道は分明せり」
各兵員を励まして行けども行けども田茂木野道に達せず、ただ右に小山があるので方角を定めるために登ると神成大尉、中野中尉、鈴木少尉、今泉見習士官等がいたので互に談合の上、二隊に分かれ、右と左に道を求め前進することになった。
その時、山口大隊長にあい蘇生したのを喜び、勇気百倍二隊に分かれ進行した。

午前六時~七時の間と思う。
余の一隊は大隊長をはじめ伊藤中尉そのほか数名だったが、相擁しつつ前進すると前方に高址を発見した。
余は疲れた足を踏みしめ踏みしめ這い登り地形を考えたら、後方に駒込川があることが判った。
川べりを下ったら青森に至ることが出来るであろうと、それから一行はその方を指して進んだ。
しかし駒込川の断崖は氷結して甚だしく滑り危険というばかりでなく、この時既に日暮れも迫っていたので、ほどよい崖陰に身を潜め一夜を凌ごうとした。
時に今泉見習士官は下士一名を伴い、路を見定むべしと川を下って行ったままついに帰り来なかった。


この日、神成大尉は絶命とされますが、冒頭の銅像となっております後藤房之介伍長へ下令いたします。
「貴様は、田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と。後藤伍長は単独で向かいます。
結果、後藤伍長が仮死状態で立ったまま、発見され、部隊の全容が分かる結果となります。
その後藤伍長ですが、宮城県の出身です。


一、 暁天晴夢起立すれば天晴れ降雪なし、四方を見れば彼処に二人、此処に五人と露営するものの如く、各起立して行進方向を占定しつゝあるものゝ如し。
自分は前夜四、五の者と露営せし如く覚ゆるも、今は一人なりき、依って行進方向を定むるため稍々高き処に登りたるに神成大尉殿、鈴木少尉殿、及川伍長に出会えり。
二、 本日は右三人と共に行動し、終に夜に入り露営せり。
此日は時々晴れ時々降雪といふ天候なりき。


上記、後藤伍長の手記です。

一月二十八日 佐藤特務兵曹が、川へ飛び込み、凍死となります。佐藤兵曹は、最初に道を間違えた本人です。
これは、倉石大尉手記から分った史実です。

早朝、雪も小晴れとなったから、大隊長らをして崖を登らせようと努めたが、午後三時までに登ることができず疲労甚だしく元の所に帰った。
この時、大隊長は川のほとりに座を占めて動かず、余らも凍傷者の多くは斃れ一行七人だけとなった。
佐藤特務曹長は下士兵卒を率い聯隊へ連絡しようとして行ったまま行方不明となり、今は施すべき策がないので、余は伊藤中尉と相抱き運命を天に任せ、崖穴を死所と覚悟の座を占めた。
されど大隊長の事が気になったので、這い乍らその傍らに至り、「ここより我らの占めた場所は雪の甚だしさからぬ位置なればお移りなされよ」と再三勧めたが、頭を振り、「吾はここに死せん」として拒否。
止むを得ず余は再び穴に戻って死を待つだけであった。
ただ時々各々川に下りて水を飲み帰る時は「大隊長殿いかがでござる」と伺い寄るが、大隊長は動く意思なく「ここに死する」と答えるのみ。


そして、その日、後藤伍長の発見に至ります。

朝の時間を詳かに知る能はざるも、前夜の露営地より行進を起したり。
其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救援隊のために救われたり。


その日を境に、199名もの犠牲を出した遭難の全容がほぼ明らかになってまいります。

そして、今日一月三十日。
倉石大尉の手記。


二等卒後藤惣助は我らのこもっている所に来たので一団五名となる。
ただ天を仰ぎ死を待つより外なかった。



この事件、青森五連隊には、宮城県出身者が多くおられます。


宮城県 … 合計46名。 特務曹長 1 軍曹 2 伍長 10上等兵 9 一等卒 16 二等卒 8

映画では兄弟の死。が描かれておりますが、これは映画、小説の事であって、実際の話ではありません。
しかし、「五連隊は宮城、岩手の出身者が多く、雪や寒さには不慣れな兵が多い」という事は有っております。
岩手県出身者の犠牲者が尤も多く139名でした。


芥川也寸志 映画音楽組曲「八甲田山」 Yasushi Akutagawa - "Hakkoda-san"


ホワイトアウトという現象に遭遇いたしました。
冬の花山村(現、栗原市)での事です。真冬、林道を通り大森へ向かう、地図だとこの周辺です。
「大きな地図で見る」をクリックしてください。

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前も、そして自分をも見失う。そんな状況です。
判断が自分で出来なくなる。その恐ろしさはありません。




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芥川也寸志氏のあの曲と共に蘇ります冬の記憶です。








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4 コメント

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こんばんは (見張り員)
2014-02-02 20:33:37
八甲田山。
これは私が中学生のころ公開になった映画でしたね。私はその後TVで放映になった時見ましたが絶句しました。
私は寒さにめっぽう弱いのでこれは絶対生き残れないと思ったことでした。
それ以前に大量の雪が降る気候を知らないのでそれだけでもアウトだと思いました。


ホワイトアウト・・・これに遭遇したらと思うとゾッとします。
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見張り員さんへ (酔漢です)
2014-02-14 19:05:03
語りました通り、一度経験しました。
もう五感が失われる。そんな怖さでした。

自然と人とのかかわりを考えさせられる映画でした。

ゾッとしますよねぇぇ!
返信する
Unknown (ひー)
2014-02-28 16:00:12
先に書いてくれましたね。
先日多賀城図書館に行ったら雪中行軍の写真がありました。
なかなか記事に出来なくているのですが、後ほど紹介します。
返信する
八甲田雪中行軍遭難事件の生還者について (峠のやまんば見習い中)
2017-03-01 22:22:51
はじめまして。

宮城県出身塩竈大好きオバサンです。

旧塩釜女子高等学校の校歌の歌詞を探してこのブログに辿りつきました。

八甲田雪中行軍遭難事件の生還者の子女(昭和2年生まれ)と知り合いになり、お話を伺うことができました。

岩手県一関市在住の方ですが、塩竈弁通じてうれしかった。
もう90歳超えたおばあちゃんですが話もしっかりしてます。
友達の同級生の方をこの頃亡くして哀しみにくれていた所です。

先月、久しぶりに塩釜仲卸市場で買い物して鮮魚見て癒されました。
あえて標準語で書き込みましたが、生粋の塩竈弁喋ります。
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