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われら“失われし世代”――ロスト・ジェネレーション論2

2007-01-15 | ロストジェネレーション論
といって、そういう記事の論調そのものに何か共感を覚えたのではないといいたい。

この記事に限らず、朝日新聞に代表されるような、そういう「良識的」な(つまり「よい子」の)報道にきわめてありがちな、「嘆かわしい問題」を外部の視点から、ようするに他人事のように指摘しもっともらしく慨嘆するという、よく考えてみると何の実効性もない姿勢には、ここまで社会問題が行き着いてしまっている現状に及んで、いったい何を言っているのかという反発を感じざるをえないところだ。

問題提起には代案-解決策が伴っていなくては、報道の社会的責任と機能を果たしているとはいえないだろう。
メディアを問わず報道というのは、よくいわれる単に情報提供するだけの“事実を映す鏡”ということにとどまるものではおそらくなかったはずだ。

それ以上にこの“鏡”は、ぼくらの自己と社会のイメージを再生産し維持し、増幅し歪める力をももっている。
すなわち報道とは、いわばこの社会の集合的な自意識であり、メッセージを刷り込み感情を扇動する強力な集団的暗示装置にほかならないと見える。

この社会の陥っている集団的な内面の悪循環構造、いわば価値と文化のデフレ・スパイラルには、そうやって無自覚に絶望を垂れ流し伝播させているメディアの側に責任の半分があると思われてならない。

とまれ、関心を引いたのは、記事に書かれている内容自体ではなく、ぼくらの世代の雰囲気の基底に色濃く横たわっている虚脱した部分を言い当てている、その端的なキャッチコピーの表現のほうである。

同記事にいう“ロスト・ジェネレーション”なるものは、現時点で35~25歳の世代のことらしい。つまり1975(昭和50)年をおよその基点に、前後10年間に出生した世代の男女をさす言葉であるそうだ。

つまりその対象は大まかにいわゆる“団塊ジュニア”と重なるわけだが、違うのは、この言葉がとくに同世代の負の側面を照射しているということだろう。

ロスト・ジェネレーション――そんなふうにもったいつけた横文字でいうよりも、“失われた世代”とか“喪失世代”といったほうがより端的かもしれない。
また、この言葉自体は文学史か何かで読んだような気がするし、それを離れてたぶんいろいろなところで使い回されてきた表現だと思う。

しかしそこから離れて、自分たちの世代がそれであると当てはめられてみると、何かしっくりとくるものがないだろうか? 

これまで名づけられたことがなく意識できないできたが、そう呼ばれてみてはじめて自分たちがひとつの世代であると気づく・・・しかも、はなから“失われた世代”として、だ。


(以下次回)




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