(承前)
救命室に居合わせた他の医師も看護師も、この傷に関する観察は例外なく一致している。
救命室に居合わせた他の医師も看護師も、この傷に関する観察は例外なく一致している。
チャールズ・カリコ医師は大統領をいちばん最初に見た医者だが、ペリーの到着後に救急の意識回復術を施していた。
UPIがペリー医師の記者会見を伝送した七〇分後の午後四時二〇分に、カリコ医師は彼の報告の草稿を書き上げていた。その中で、彼は喉の傷を銃弾の入口だとして次のように表現した。
…首前面の下から三分の一ほどのところに小さな貫通傷…
(この本文中の引用箇所は、同書巻末文献一覧により確認したところ、ウォーレン報告書の519頁に掲載された、カリコ医師の自筆の報告草稿からのものであることを確認した。)UPIがペリー医師の記者会見を伝送した七〇分後の午後四時二〇分に、カリコ医師は彼の報告の草稿を書き上げていた。その中で、彼は喉の傷を銃弾の入口だとして次のように表現した。
…首前面の下から三分の一ほどのところに小さな貫通傷…
手術室でカリコ医師を手伝ったのは看護婦のマーガレット・ヘンクリフだった。彼女はウォーレン委員会での宣誓証言の中で、「首の中ほどのとても小さい孔でした……私の小指の先ぐらいの大きさで丸かった……銃弾の入り口と思われました……」と語った。スペンサー〔委員会のメンバー〕が「銃弾の出口ということはありえませんか」と聞いたとき、彼女は「あんな風な……銃弾の出口は見たことがありません。本当に小さな傷でしたし、私が見てきた出口の傷に特有なぎざぎざに裂けた傷ではありませんでした」と語った。
(本文中の引用箇所は、ウォーレン委員会公聴会記録から引用されている) 〔後方からの銃撃が報じられるようになって〕ロバート・ショー医師は、自分たちは喉の傷のことで「少し困った」と語った。「犯人は彼の後ろにいた。しかし銃弾は喉に命中した。ケネディ氏は夫人に話をするか、誰かに手を振るために左の方を向いていたのにちがいない」と言った。
(この本文中の引用箇所は、事件後1週間が経過したニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙1963/11/29付け記事からのもの。この時点ではザプルーダー・フィルムは公開されておらず、大統領が被弾時に前を向いていたことが知られていなかった。) …パークランド記念病院の医師たちは自分たちが実際に見たことだけを語ることにした。あの傷は余りにも小さかった――直径六ミリもなかった。その傷はペリー医師のことばでは、「丸くて……傷口はきれい」だったし、カリコ医師のことばでは、「真ん丸の傷」だった。ウォーレン委員会の宣誓供述書には、ロバート・ジョーンズ医師のことばが短い文で次のようにまとめられていた。「孔はとても小さく、傷口は比較的きれいだった。それはちょうど銃弾が人体から出た場合ではなく、むしろ体内に入った場合によく見られる傷でした」。
(本文中の引用箇所は、ウォーレン委員会公聴会から引用されている)
ウォーレン委員会は自身の行った公聴会における宣誓証言のうち、これらの重要な証言を無視する形で結論を下していることに注意したい。
超高速で人体を貫通する弾丸の入り口と出口では、傷の形状が全く異なり、弾丸の直径程度のきれいな穴が開くだけの入口側に対して、通常は出口側では口径よりも大きな不定形の穴が開くこととなる。上記の証言が銃弾の入り口側に該当するのは言うまでもない。
※銃創の概念図 この事件に使用されたのと同じ程度の小口径ライフル弾の場合のもの。
もちろん部位や角度その他の要因によりさまざまなバリエーションがありうるだろうが、経験豊かな彼ら外科医たちがそれを見間違えて、しかも一様に同じ所見を述べることなどまずありそうにない。
パークランド記念病院とはその名から想像される単なる総合病院ではなく、テキサス大学医学部付属病院として、一日に急患三百の受け入れ能力があったというから、現在の日本でも滅多にない巨大病院であろう。銃犯罪が日常的であるアメリカ南部において、銃創に関する経験も知見の最も豊かな医療機関の一つであったはずだ。
現に医師たちは次のように語っている。
※当時のパークランド記念病院
※銃犯罪の州別の統計 テキサス州の銃犯罪発生率はカリフォルニア州に次いで高いようである(現代のものであり、当時の統計は確認できなかった)。
いわはパークランド病院は銃社会における救命医療の最前線・最先端にあったと言える。
それに対して、陸軍や海兵隊ならともかく、海軍の病院には、戦時下であっても小火器による患者を扱う機会などまずありそうにない。まして平時の海軍の病院など、ワシントンにある軍の中央病院として名前はいかにもっともらしくとも、こと銃創に関する治験についてはパークランドとは比べ物にもならないことは容易に推測される。
つまり、銃創の扱う専門的能力という点では、パークランドの医師たちのほうにはるかに軍配が上がるのは間違いないだろう。
その点を度外視したとしても、この事件が政権転覆を狙った政治的暗殺の疑いがある以上は、事件後相当時間が経過した段階での、特に政府関係者や公務員の発言はそのまま鵜呑みにすることはできない。
検視を行ったベセスダの医師たちは軍医として軍の指揮命令系統の中にあり、経験云々以前の問題として、上からの政治的圧力にはことに弱い立場にある。
従って、この事件に関して、検視に当たった彼らが中立的立場にあるとは到底言いがたく、その検視報告は現在の目から見ればはなから信用性が低い。いわば容疑者側が検視を行うようなものだからだ。
一方で、米国では政府機関なかんずく軍の権威は高く、ベトナム戦争前の1960年代前半にあってはなおさらであっただろう。確かに国家組織の内部の人物で、しかも海軍の中央病院に属する軍医には、当時の人々を納得させる権威があったに違いない。陰謀の主体は計画ずくでそれを利用した可能性が高い。
だからこそ、この大統領死亡直後の混乱の渦中での、経験豊かな民間の医師団の証言は、外部からの圧力とは関係のない外科的な専門所見であることから、はるかに信用性が高いのである。
もっとも、リフトンはベセスダでの検視の主任者であるヒュームズ医師に直接接触を試みており、彼が誠実に見たままを記録したとの強い印象を受けたと語っていることも付け加えておく必要がある。リフトンはそれを起点に遺体変造疑惑を追及しているのである。
(本文中の引用箇所は、ウォーレン委員会公聴会から引用されている)
ウォーレン委員会は自身の行った公聴会における宣誓証言のうち、これらの重要な証言を無視する形で結論を下していることに注意したい。
超高速で人体を貫通する弾丸の入り口と出口では、傷の形状が全く異なり、弾丸の直径程度のきれいな穴が開くだけの入口側に対して、通常は出口側では口径よりも大きな不定形の穴が開くこととなる。上記の証言が銃弾の入り口側に該当するのは言うまでもない。
※銃創の概念図 この事件に使用されたのと同じ程度の小口径ライフル弾の場合のもの。
もちろん部位や角度その他の要因によりさまざまなバリエーションがありうるだろうが、経験豊かな彼ら外科医たちがそれを見間違えて、しかも一様に同じ所見を述べることなどまずありそうにない。
パークランド記念病院とはその名から想像される単なる総合病院ではなく、テキサス大学医学部付属病院として、一日に急患三百の受け入れ能力があったというから、現在の日本でも滅多にない巨大病院であろう。銃犯罪が日常的であるアメリカ南部において、銃創に関する経験も知見の最も豊かな医療機関の一つであったはずだ。
現に医師たちは次のように語っている。
※当時のパークランド記念病院
彼女〔前掲のヘンクリフ看護師〕の意見はロバート・N・マクレランド医師によっても確認されている。ただし、彼は遅れて手術室に入ったので、傷の原型は見なかった。しかし『セント・ルイス・ディスパッチ』紙のダッドマン記者に対して、「…我々は銃弾の傷には慣れている……毎日だから――時には一日何件も。入口の傷に見えた…」と語っていた。
(本文中の引用箇所は、1963/12/1付けの同紙からのもの。)※銃犯罪の州別の統計 テキサス州の銃犯罪発生率はカリフォルニア州に次いで高いようである(現代のものであり、当時の統計は確認できなかった)。
いわはパークランド病院は銃社会における救命医療の最前線・最先端にあったと言える。
それに対して、陸軍や海兵隊ならともかく、海軍の病院には、戦時下であっても小火器による患者を扱う機会などまずありそうにない。まして平時の海軍の病院など、ワシントンにある軍の中央病院として名前はいかにもっともらしくとも、こと銃創に関する治験についてはパークランドとは比べ物にもならないことは容易に推測される。
つまり、銃創の扱う専門的能力という点では、パークランドの医師たちのほうにはるかに軍配が上がるのは間違いないだろう。
その点を度外視したとしても、この事件が政権転覆を狙った政治的暗殺の疑いがある以上は、事件後相当時間が経過した段階での、特に政府関係者や公務員の発言はそのまま鵜呑みにすることはできない。
検視を行ったベセスダの医師たちは軍医として軍の指揮命令系統の中にあり、経験云々以前の問題として、上からの政治的圧力にはことに弱い立場にある。
従って、この事件に関して、検視に当たった彼らが中立的立場にあるとは到底言いがたく、その検視報告は現在の目から見ればはなから信用性が低い。いわば容疑者側が検視を行うようなものだからだ。
一方で、米国では政府機関なかんずく軍の権威は高く、ベトナム戦争前の1960年代前半にあってはなおさらであっただろう。確かに国家組織の内部の人物で、しかも海軍の中央病院に属する軍医には、当時の人々を納得させる権威があったに違いない。陰謀の主体は計画ずくでそれを利用した可能性が高い。
だからこそ、この大統領死亡直後の混乱の渦中での、経験豊かな民間の医師団の証言は、外部からの圧力とは関係のない外科的な専門所見であることから、はるかに信用性が高いのである。
もっとも、リフトンはベセスダでの検視の主任者であるヒュームズ医師に直接接触を試みており、彼が誠実に見たままを記録したとの強い印象を受けたと語っていることも付け加えておく必要がある。リフトンはそれを起点に遺体変造疑惑を追及しているのである。
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