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書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)3

2017-08-02 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)

文化人類学的方法とその妥当性

さらにより根本的な問題として、歴史とはそれを見る者の視点すなわち史観次第で、あらゆる読込みが可能であるという事実がある。そのことは、前述のように日本人自身が自己の近しい過去にあらゆるネガティブな読込みをしてきた実例があるだけに、私たちにとっては理解しやすい。そしてまた、特定の史観に基づいて文献史料に記された当時の社会のタテマエを分析すればするほど、かえって実態を読み損ない、肝心の全体像から遠ざかってしまうであろう。一体どのようにすれば、そうした限界を突破し、過去の文明の実質に接近することができるのだろうか。
そうした疑問に対し、いわばコロンブスの卵的な視点から答えたのが、本書の方法だと思われる。本書は開国以降明治初期までに日本を訪れた外国人の手になる膨大な文献・記録を網羅的に扱っているのだが、特徴的なのは単にそれらを史料として利用するだけでなく、異邦人が感じ取った印象そのものを追体験するという方法を採っていることである。次のとおり、著者はそれを文化人類学的方法と位置づけ、自覚的に採用しているのである。(傍点は評者による。)

 滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。……それゆえにこそ、そういう強固な優越感と先入観にもかかわらず、彼らが当時の日本文明に賛嘆の声を惜しまず、進んで西欧文明の反省にまで及んだことに、われわれは強い感銘を受けずにはおれない。(一四頁)

 文化人類学の今日の到達が示すところによれば、ある異文化に接近する前提は、それが観察者の属する文化のコードとは全く異質のコードによって成り立っていることへのおどろきである。ある異文化が観察者にとっていかにユーニークで異質であるかということの自覚なしには、そして、その理解のためには観察者自身のコードを徹底的に脱ぎ捨てることが必要なのだという自覚なしには、異文化に対する理解の端緒は開けない。(三八頁)


「ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこない」、つまり「自国人には記述されない特質」を現在の自国人である私たちが知るためには、当時の外部からの視点によるほかにないということである。私たちが現在の日本と江戸時代が同一の文明に属すると思い込み、そこからすでに滅亡していた古き日本文明をずっと誤読してきたのだとすれば、たしかに、その文明の内部の者に意識されることのなかった特徴に接近するために、異文化に属していた人々の証言を借りる以上に適切な方法はないと思われる。
それはもちろん、彼らが客観的で公平な証言をしているということではない。彼らが西洋中心主義的な偏見から日本を観ていたのは想像に難くないことである。しかし、本書が慎重に指摘しているように、「偏見とはつねに何ものか何ごとかについての偏見である……その誤解やゆがみを通してさえ、彼らが何ものか何ごとかの存在を証言している事実は消えようがない」。たとえそこに自らが依って立つ近代文明の優越感から来る偏見がどれほどあったとしても、また逆に近代ニヒリズムの反動として非西洋的なものを賛美する「ばらいろの眼鏡」というフィルターがかかっていたとしても、そのゆえにこそ両文明に横たわる懸隔が生々しい文化的ショックとして経験され記録されたことに注目すべきなのだと著者は主張する。

 問題はいまや明らかである。異邦から来た観察者はオリエンタリズムの眼鏡をかけていたかもしれない。それゆえに、その眼に映った日本の事物は奇妙に歪められていたかもしれない。だが彼らは在りもしないものを見たわけではないのだ。日本の古い文明はオリエンタリズムの眼鏡を通して見ることのできるようなある根拠を有していたのだし、奇妙に歪められることを通してさえ、その実質を開示していたのである。……錯覚ですら何かについての錯覚である。その何かの存在こそが私たちのいまの問題であるのだ。彼らの讃辞がどれほど的外れであり、日本の現実から乖離した幻影めいたものであったとしても、彼らはたしかにおのれの文明と異質な何ものかの存在を覚知したのである。幻影はそれを生む何らかの根拠があってこそ幻影たりうる。私たちが思いをひそめねばならないのはその根拠である。(四〇頁)


そう考えてみると、幕末・明治初期という時代は、独自に高度な発達を遂げていた前近代の日本文明が突如外に開かれ、西洋の近代人が一斉にそれを目撃し体験することとなった、日本史上一回限りの文明間の遭遇の機会だったと言える。そして彼らが図らずも行ったいわばフィールドワークを、私たちは彼らが残した文献記録から追体験することができるのである。
このように本書の論述の特色は、膨大な当時の異邦人の証言の引用によって、彼らの眼に映り肌で感じられた古き文明の実質を描き出すという方法にある。もちろんこの方法は、特定の視点から都合のいい証言だけを選り出して、都合の悪い記述を無視するという操作・編集の問題が伴うものであり、実際にそうした肯定的な評価を下しうるかは読者が慎重に判断すべきであるが、この点については、各章末尾に引用文献が詳細に明示されており、必要に応じて著者の評価の妥当性を検証することに開かれている。しかし、膨大な証言が構成するその説得力からすれば、彼らの眼に映った江戸文明の実質が、かつての暗黒史観が描き出したような陰惨極まるものであったとは考えがたいし、また「いつの時代もいい面と悪い面があった」とするような思考停止で済ますことも到底できるものではない。少なくとも、彼ら異邦人が古き日本文明に瞠目したのは確実だと深く納得させるに足るものがある。
繰り返しになるが重要なのは、本書の試みによって私たちは初めて、近代以前の古き日本文明のイメージをはっきりと結べるようになったということである。これはまた、前近代から長い時間を経過し、さらにそれ以上に心理的に遠く断絶してしまった現代の私たちが、古き日本文明との予期せぬ遭遇に深い文化的ショックを受けた彼ら異邦人と今や非常に近い位相にいるからこそ、ようやく彼らの体験を共感的に理解できるようになったということでもあるだろう。それを可能にした本書の意義は実に大きいと思われてならない。



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