〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)9

2017-08-08 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)

いくつかの補足と指摘


 本書の特徴である外国人の証言による歴史への斬新なアプローチはこのように自覚的に採用されたものであり、また論旨は理性的である。江戸期日本社会が一個の高度に完成された文明であるとするその結論が果たして妥当かはさらなる研究が望まれるにしても、ここに描き出された文明の実像に深い意味と説得力があることは間違いない。
 したがって以下の補足的な指摘は本書の意義を左右するものではない。これらは著者の執筆意図とは別の視点によるものであり、後続の世代の後知恵というべきものであろう。そのように現在の眼から不足と見える点も、往年の「空気」が要求した良識からすれば、やむを得ないものであったのだろうと推察される。例えば、著者が日本知識人の偽善的ダブルスタンダードを批判して次のように述べざるを得なかった、往年の思想的空気である。「…オリエンタリズム批判を原理的に貫徹すれば、戦後の米軍の占領による日本の徹底的な改造も、まさに露骨なオリエンタリズムそのものとして拒否されねばならない。そのことをよくするものが、日本知識層のなかに何人いるだろうか。彼らの感覚からすれば、そのような拒否は、おのれに右翼民族主義者としての汚名をなすりつける所業である」。そうした中で、日本人としてのアイデンティティすなわち愛国心を課題として語れば、確かに思想家として右翼民族主義者なる汚名を免れ得なかったであろう。
 ただし繰り返すが、補足すべきポイントは、本書が批判を受けているとされる「過去への自己愛的回帰」という点にはない。そうした偏狭な民族意識への根源的批判こそ著者の問題意識の原点にあることは明白である。問題はそれとは似て非なる、超克の方向性そのものについてである。

①「江戸文明」の位置づけについて

 補足的指摘の第一点は、こうして本書自身がおそらく初めて描き出した「逝きし世」=江戸文明の実像について、それが日本という位置・風土・人間集団において独自な形態でどれほど高度に発達したものだとしても、結局は人類史上の集団的な進化―発達における、前近代段階特有の様相の枠内にとどまるものと位置づけているところにある。たしかに大まかに前近代から近代そして現代へという流れで発達していく歴史的な段階が(その区分け方は多様にあるとしても)存在するのは明らかであり、それは進化という一貫した方向性で歴史を捉える上で重要な枠組みである。そしてここで見る江戸期の文明が前近代段階に属することは間違いない。本書の基本的なスタンスはそのことを前提に、行き詰りに直面している近現代の産業文明の根源にある進歩主義を批判的に超克すべく、オルタナティヴを模索するところにある。要するにその線に沿って「江戸期の文明とは、たとえ惜しまれつつも結局は近代の到来に至って捨て去らざるを得なかった、人類の古き段階の一つの典型的な姿であった。しかし進歩とは果たして必然であったのか。私たちは近代の意味を改めてそこから問い直さねばならない」と、第三者の目線から人類的な文明論として語っているのが本書である。結論から振り返れば、その目的のための「逝きし世」であったとの印象が強い。その意義と是非はまた別に論じられるべきであろう。
 しかし私たち大多数の日本人にとって、関心の焦点はそこにはない。本書が可能にした旧文明の鮮やかな追体験によって、その文明の不肖の末裔たる私たちが、後述する歴史的なアイデンティティの問題と関わって興味が尽きないのは、旧文明のその独自性と到達の高さのほうである。そもそも江戸後期に完成を迎えていた文明が、単なる前近代段階の一典型として片付けられない実質を保持していたことは、前述のように本書がそれを様々な表現ながら終始「独自の高度な文明」と評していることからも明らかである。同時代の西洋近代人が深い文化的ショックを経験したと証言している文明の、その到達と特質は一体なぜ生じ、現代の私たち日本人にとっていかなる意味を持っているのか。そうした問いは、本書では慎重に排除され、残念ながら一切語られることはない。

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