それを考える上で踏まえるべきは、純粋・客観的な「正しい」歴史などとというものはそもそも存在しないという事実だと思われる。「歴史観」という用語が示すとおり、言葉で現実を認識する私たち人間は、真実性や包括度の相対的な差はあるにせよ、必ずある特定の視点と文脈から、つまりは物語としてしか歴史を見ることができない。最近まで真実だと信じられてきた江戸時代暗黒史観とは、往時に支配的だった政治思想から歴史を読み込んだ典型的な物語的産物であった。また一方で、それとはまるで正反対の実像を語っている本書もまた、前近代人の心性の特質を江戸時代に見出そうとする、ひとつの意図に貫かれているのは明らかだ。物を見るのと同様、言葉による認識においても視点それ自体から自由であることなどできないことに、私たちには少なくとも自覚的であることが必要なのだと思う。
そしてまた一つ踏まえるべきことは、肯定と否定のどちらの道を採るのが有効かという選択の必要性である。そもそも、自らの過去をまず肯定することは、諸民族・諸国民の基本的な権利なのだと思われる。経験的に考えてみても、人間的現象への対処に否定的なアプローチを採ることは、否定的な悪循環をもたらすだけであろう。自己否定の悪循環から脱することができなければ、人は結局アイデンティティ崩壊の末に内には精神病理に、外には他者攻撃に行き着くほかにない。逆に自己肯定感があってこそ健全な人格形成が可能になるというのが、人間的発達の明らかな原理だと思われる。そして個人に当てはまることは集団にも当てはまる。人間集団の発達段階とは、個人の心の成長過程と、先の四象限モデルで言えば横軸を挟んで対応する事態だからである。
本書が明らかにした江戸時代の実像の意味を考える上で強く感じられるのは、今後私たちは自国の歴史を理解し物語ることにおいて、「日本人としてどうありたいのか」「わが国をどうしたいのか」という意図が常に明示された、いわば「視点明示の歴史観」を持つ必要があるということである(ミュルダールの「価値前提の明示」について、本誌一四五号、増田満氏による書評を参照)。
そうした視点明示の歴史観の有力な代案を本誌『サングラハ』はかねて提示してきており、国民的統合を目的に日本史を一貫した肯定的な「私たちの物語」として取り戻すとすれば、大筋でこの線のシナリオを採用するのが、目下最も妥当だと思われる。すなわち、神仏儒習合とその核心にある大乗仏教の「智慧と慈悲」の精神によって形成されてきた、日本の伝統的コスモロジーを基軸とした歴史叙述である。(研究所主幹による本誌第九一、九二、九六号の連載等を参照)。
注目したいのは、このシナリオに沿って、日本人は原点にある聖徳太子の(ないし聖徳太子という人物像に託された)「和」の理想の宣言以来千年以上の時を経て、江戸時代後期までにある種の完成に到達した、親和感に満ちた平和で持続可能な文明を形成したのだとすれば、歴史的そして論理的なつじつまが合うということだ。従来のような、前近代と近代の間に奇妙な断絶を内包したパッチワーク的な歴史観と異なり、意味ある一貫した日本歴史が構想できるのである。だとするならば、私たち日本人の課題とは、原点にあった高い理想と、その精神が営々と創り上げた旧文明の姿を、見失っていた自身のルーツすなわち一貫した物語として、言葉で理解し取り戻すことにある。本書の譬喩でいうなら、それが正しい「葬送」ということになるであろう。
まとめ
以上論じてきたように、だからこそ、本書が初めて明らかにした前近代日本の実像を、単に第三者的な文明論にとどめたのではあまりに惜しい。著者の問題意識の底には、近代の根源的な病であるニヒリズムの克服という切実な人類的課題があったことがうかがわれる。しかし病の治療を問うならば、まず人間集団としての「私たち」のアイデンティティをいかに健全なものとするか、その目的のためにどうすれば歴史的なルーツを見出すことができるか、という線に沿った読み方をしたほうが、本質的であり生産的だったと思われてならない。
いずれにせよ、過去にすばらしいものがあったのなら、まずはそれを私たち自身の記憶として素直にそのままに受容するのが正しい態度に違いない。深いところでそう語っていると見える本書は、自らの国を考える日本人にとって必読の書であると断言したい。ぜひ手に取って在りし日の文明を「体験」していただきたいと心から願うものである。
(『逝きし世の面影―日本近代素描Ⅰ』渡辺京二著、葦書房、一九九八年〔初版〕、平凡社、二〇〇五年〔ペーパーバック版〕)
*サングラハ教育・心理研究所会報『サングラハ』146、147号より転載。
*同誌は下記サイトで購入可能。
https://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=9174
*講読は同研究所HP参照のこと
http://www.smgrh.gr.jp/?page_id=204
そしてまた一つ踏まえるべきことは、肯定と否定のどちらの道を採るのが有効かという選択の必要性である。そもそも、自らの過去をまず肯定することは、諸民族・諸国民の基本的な権利なのだと思われる。経験的に考えてみても、人間的現象への対処に否定的なアプローチを採ることは、否定的な悪循環をもたらすだけであろう。自己否定の悪循環から脱することができなければ、人は結局アイデンティティ崩壊の末に内には精神病理に、外には他者攻撃に行き着くほかにない。逆に自己肯定感があってこそ健全な人格形成が可能になるというのが、人間的発達の明らかな原理だと思われる。そして個人に当てはまることは集団にも当てはまる。人間集団の発達段階とは、個人の心の成長過程と、先の四象限モデルで言えば横軸を挟んで対応する事態だからである。
本書が明らかにした江戸時代の実像の意味を考える上で強く感じられるのは、今後私たちは自国の歴史を理解し物語ることにおいて、「日本人としてどうありたいのか」「わが国をどうしたいのか」という意図が常に明示された、いわば「視点明示の歴史観」を持つ必要があるということである(ミュルダールの「価値前提の明示」について、本誌一四五号、増田満氏による書評を参照)。
そうした視点明示の歴史観の有力な代案を本誌『サングラハ』はかねて提示してきており、国民的統合を目的に日本史を一貫した肯定的な「私たちの物語」として取り戻すとすれば、大筋でこの線のシナリオを採用するのが、目下最も妥当だと思われる。すなわち、神仏儒習合とその核心にある大乗仏教の「智慧と慈悲」の精神によって形成されてきた、日本の伝統的コスモロジーを基軸とした歴史叙述である。(研究所主幹による本誌第九一、九二、九六号の連載等を参照)。
注目したいのは、このシナリオに沿って、日本人は原点にある聖徳太子の(ないし聖徳太子という人物像に託された)「和」の理想の宣言以来千年以上の時を経て、江戸時代後期までにある種の完成に到達した、親和感に満ちた平和で持続可能な文明を形成したのだとすれば、歴史的そして論理的なつじつまが合うということだ。従来のような、前近代と近代の間に奇妙な断絶を内包したパッチワーク的な歴史観と異なり、意味ある一貫した日本歴史が構想できるのである。だとするならば、私たち日本人の課題とは、原点にあった高い理想と、その精神が営々と創り上げた旧文明の姿を、見失っていた自身のルーツすなわち一貫した物語として、言葉で理解し取り戻すことにある。本書の譬喩でいうなら、それが正しい「葬送」ということになるであろう。
まとめ
以上論じてきたように、だからこそ、本書が初めて明らかにした前近代日本の実像を、単に第三者的な文明論にとどめたのではあまりに惜しい。著者の問題意識の底には、近代の根源的な病であるニヒリズムの克服という切実な人類的課題があったことがうかがわれる。しかし病の治療を問うならば、まず人間集団としての「私たち」のアイデンティティをいかに健全なものとするか、その目的のためにどうすれば歴史的なルーツを見出すことができるか、という線に沿った読み方をしたほうが、本質的であり生産的だったと思われてならない。
いずれにせよ、過去にすばらしいものがあったのなら、まずはそれを私たち自身の記憶として素直にそのままに受容するのが正しい態度に違いない。深いところでそう語っていると見える本書は、自らの国を考える日本人にとって必読の書であると断言したい。ぜひ手に取って在りし日の文明を「体験」していただきたいと心から願うものである。
(『逝きし世の面影―日本近代素描Ⅰ』渡辺京二著、葦書房、一九九八年〔初版〕、平凡社、二〇〇五年〔ペーパーバック版〕)
*サングラハ教育・心理研究所会報『サングラハ』146、147号より転載。
*同誌は下記サイトで購入可能。
https://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=9174
*講読は同研究所HP参照のこと
http://www.smgrh.gr.jp/?page_id=204
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