〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)11

2017-08-13 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)
③日本近代の「謎」の解明について

 そして第三に、著者が目的としていた日本近代史の意味の解明に関し、本書自身が日本近代の最大の「謎」に明快な解を与えていると見えるにもかかわらず、前項の問題が障壁となって、それに全く触れられていないことが挙げられる。すなわち、近代西洋文明から遙かに隔たった極東の「まことに小さい国」(司馬遼太郎)が、なぜ短期間に近代化を実現し、その壊滅の後になお経済的な躍進をなし得たのかという謎である。そもそも「まことに小さい国」なる言明は、十九世紀後半時点ですでに三千万人以上を擁した日本の人口規模への認識不足を含んでいるが、歴史小説家の主観的な心情表現とすれば(その影響力を措くならば)特段目くじらを立てることでもないのだろう。しかし問題はそれにとどまらない。
 本書が図らずも明らかにしたのは、近代日本の国力の基盤に、江戸文明の「遺産」が存在したという事実である。長き平和な統治が物質的・精神的な富を蓄積し近代的躍進を準備するという点で、スウェーデンの歴史に比すべきものがあるかもしれない。しかし「徳川の平和」のかけがえない遺産は、薩長クーデター政権である明治新政府によって横領され、横領の事実自体が「官軍教育」によって隠蔽され明治維新の功績にすり替えられてしまった。さらにそのすり替えは、敗戦と占領が生んだ「戦後教育」及び左翼政治思想による「進歩主義教育」の二重の過去否定を通じて逆に反復・強化され、日本人の変造されたアイデンティティとしてすっかり定着し、いまだに明治維新神話として厚かましくも麗しく語られている―本書の描き出した旧き文明の実像から出発するならば、そう結論するのが自然であろう。
 近現代の日本の躍進を可能にした遺産、それを営々と蓄積してきた平和な前近代文明は、しかし今や色褪せた形骸を残すのみで見る影もない。私たちは先祖の遺産を食いつぶし、今や民族としての衰亡・崩壊過程に立ち至っている。とどまることのない経済的衰退や人口減少―超高齢化の進行はその外面的現象にほかならない。では旧文明の遺産の核心にあったものとは何か。その喪失は以後の日本にどのような影を落としたのか。現在の社会状況からすれば、著者の問題意識はそのことにこそ向けられるべきだったと見える。

④内面とコスモロジーの問題について

 第四に、本書に不足していると思われるのが、本来的に心・文化・価値観の側に属す歴史の、その根底にあるコスモロジーそれ自体を問うという視点である。
人間とその文明が言葉による意味の体系としてのコスモロジーに根本から規定されているという事実は、著者自身が第一章冒頭で「ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具現化し……そういう生活総体を文明と呼ぶ」と宣言しているとおりである。つまり文明を論じるなら、その文明を支えている価値の体系としてのコスモロジーに切り込む必要がある。では、「平等で民主的」な社会の実態の中で、身分の上下を問わず「親和と礼節」が行きわたり、人々の表情が「幸福に輝いていた」「完成された文明」(いずれも本書の表現による)を実現し、転じて近代の躍進を可能ならしめた、前近代の遺産の核心たる日本人のコスモロジーとは、一体何であったのか。
 本書はそれに関して、後半に「生類とコスモス」「風景とコスモス」「信仰と祭り」という三つの章を特に設けており、そこでの日本人の宗教心に関する数々の証言は確かに興味深いものの、徒にエピソード的・暗示的な叙述に終始している感もあり、茫洋とした印象がぬぐえない。この肝心な点おいて前半の各章での論述の鋭利さが鈍っているかに感じられるのは、結局文明の根底にある「特定のコスモロジー」それ自体に切り込むという視点が欠けているためではないか。たとえば日本庶民の信仰はロシア正教やカトリックにおける民衆の信仰と類似していたことや、武士階級ではそうした呪術・神話的な信仰が儒教的建前のもとで軽んじられつつ、その日常は庶民同様の濃密な先祖崇拝の世界にあったことなどを短く述べながら、ではその信仰が具体的に何であったのかについては言及がない。


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