〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)6

2017-08-03 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)
自由と身分


 また、彼ら異邦人が驚きをもって証言し、そのことに私たちも意外の念を禁じ得ないのが、幕藩体制や身分制度なるものの実態である。それはアジア的専制の悪しき典型として、またカースト的な差別と抑圧の構造として信じられ、これまで総攻撃に遭ってきたものである。もちろん彼ら異邦人も等しく認めているとおり、それは実際に専制的政治体制に違いなかったし、身分・階級間の区分は厳格であった。しかしそうした建前のもと、外国人に体験されたのは、近代西洋の用語で「自由」で「民主的」と表現せざるを得ないような社会の実質であった。数多くにのぼるそれらの証言の意味するところは明白である。徳川期の文明の意味を考える上で、このように制度的な専制と身分秩序が、にもかかわらず人々に実質的な自由を保障していたという事実は、きわめて重要だと思われる。このため、特に長くなるが引用したい。

 「この国のあらゆる社会階層は社会的には比較的平等である……金持は高ぶらず、貧乏人は卑下していない」。(日本研究家・チェンバレンの陳述、一〇五頁)

 「プロシャ遣日使節団の公式報告書『オイレンブルク日本遠征記』もまた、「人民はたえざる監督の結果、抑圧され疑い深くなったと信ずべきなのに、実は全く反対に、明朗活発、開放的な人民が見出される」という矛盾をぬかりなく指摘していた。同様の言は……米人宣教師マクガワンからも聞かれる。「日本は専制政治に対する世界最良の弁明を提供している。政府は全知であり、その結果強力で安定している。その束縛は絶対であり、あらゆる面をひとしく圧している。しかるに、社会はその存在をほとんど意識していない」。(二一五頁、傍点は本書)

 オールコックが慎重に推量の形で披露したのと同様の見解を、カッテンディーケはほとんど断定に近い口調で述べる。「日本の下層階級は、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享有している。そうして彼等の権利は驚くばかり尊重せられていると思う」。この思いがけない断言に私たちは驚きと戸惑いを禁じ得ないが、とにかく彼のいうところを聞こう。そのように民衆が自由なのは、日本では下層民が「全然上層民と関係がないから」である。…「これに反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比をみないほどの自由である」。……しかし「日本政府は民衆に対して、あまり権力を持っていない」と驚ろくべき断言をするとき、彼は彼なりの経験を踏まえていたのだ。(二一七頁)

 専制下における民衆の自由と満足というオールコック以下の所見には、実は先蹤があった。……出島オランダ商館に勤務したフィッセルが、一八三三年に出版した著作には、すでに次のように述べられていたのである。「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像される。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく逆の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない」。「自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している」。「日本には、食べ物に欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう」。……すなわち、この国では「比較的下級の者に対する支配はとくに穏やか」なのである。(二二八頁)

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