〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)13

2017-08-15 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)

 私たちの歴史的なアイデンティティ形成を阻害する分厚い「壁」としてこれまで立ちふさがってきたのが、暗部のみが異様に誇張された「卑小な江戸時代」観であることは先に述べた。そして本書の意義とは、著者自身が意図したところではないにしても、まさにその点において、日本人が自己のルーツを取り戻す突破口を開いたことにある。そして著者が繰り返し言及している「前近代の実像を明らかにすることで近代の意味を問う」という探究は、むしろそれとは逆に歴史に遡る方向において初めて意味を持つと思われるのである。もちろんそれは歴史の針を戻して過去に帰るということではない。「江戸時代に帰れというのか!」という典型的な―そして前述の進歩主義的バイアスむき出しの―表現があるとおり、近代産業文明を享受した私たちは、現実問題としてそこに帰ることなどできはしない。近代化とは私たちにとって不可逆のプロセスだと認めるほかないのである。
 言うまでもなく歴史は言葉が構築するものであり、言葉の体系であるということは、歴史というものが外面的な事物やシステムの側にではなく、本質的に心・内面・意味の側に属することを示している―それ以前に、人はその当否を考えること自体言葉によらざるを得ないのだ。だから歴史という分野を扱うとき、言葉と意味の世界から一歩も自由であれないことに常に自覚的である必要がある。そしてまた人間の歴史とは常に、小は家族から大は人類まで、人間集団の物語である。たとえ個人史であっても、人間集団の一員の物語としてしか語ることができない。だとすれば歴史の本質とは、ウィルバーの四象限理論(その概要は本号の増田満氏論考を参照されたい)における「私たち」の「内面」の側、すなわち左下象限の集合的な自己認識であると定義できよう。換言すれば、それは私たちの集団的アイデンティティを担う「大きな物語」にほかならない。そのような「私たちの物語」を語ることのない歴史に、いかなる存在意義が考えられるだろうか。確かに外面的な事物やシステムのみに還元された歴史が自明化し、それは学校教育までをも埋め尽くしていると見える。しかし譬えるなら、それはわざわざ味と香りを排除した見た目だけのフルコース料理のようなものであって、もっともらしく語られるほどに却って存在の不可解さ・無意味さが際立ってしまう。そんな中で歴史の存在理由が問われるとき、往々にして「過去に学ぶため」という美しい言葉が語られるのだが、そうしたセリフがどこか言い訳めいて弱弱しく聞こえるのは、人類の歴史が証明しているとおり、結局のところ人間集団が歴史に学ぶことはないのを誰もが知っているからに違いない。つまりそこに本来歴史が存在する意味はない。そうではなく、歴史とは本質的に何より集団のアイデンティティを担う「大きな物語」として、まず存在するのだと思う。
 だとすれば歴史を研究することの意義とは、先祖が実現した到達を言葉によって認識し、一貫した物語の中に位置づけることにある。私たちは学校教育で多くの歴史的事件を記号として記憶しながら、そうした内面的作業を全くして来ていない。そのために私たち日本人のアイデンティティの深層、比喩的に表現すれば「魂」は、いまだそのルーツに根付くことなく宙を彷徨っているのである。そして著者が滅び去った文明の「葬送」と象徴的に表現した行為は、むしろこの点においてこそ行われる理由があるのだと思う。


視点を明示した歴史観を

このように、前近代の日本の文明と心性を明らかにした本書の真の意義が、日本の歴史をこれまでと全く違った視点から再構築するための要石となること、言い換えれば私たちが集団的なアイデンティティの病から脱する突破口となることにあるとすれば、必然的に次の問題は、そうした独自の文明を形成した日本人の心性の核心にあるコスモロジーとは何だったのか、ということになる。


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