〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)12

2017-08-14 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)

 特に終章の末尾、本書の締め括りにおいて『東海道中膝栗毛』を取り上げ、近代ヒューマニズムからすれば眉をひそめざるを得ないようなその猥雑さとアナーキーぶりに、人生や世界を軽妙なものと割り切った「明るいニヒリズム」があり、それが当時の日本人、ひいては前近代人の前個的な心性の特徴だったと、短く結論していることが注目される。それは、合理的な個的段階の前に自他未分離な前個的段階、いわば幼少期の心性が人間集団にも存在するという意味で、一般論として妥当なのは間違いない。しかしそれだけでは、本書の特に前半で鮮やかに描き出された当時の日本人の心性の分析としては何とも弱いと言わざるを得ない。またそれ以上に、ここには近代科学的コスモロジーが自明のものとなった現在からの、前近代への恣意的読み込みがあると感じられる。思うに、近代科学以前の前近代人には、神話的な前近代的コスモロジーを相対化し、そこから自由となる余地はなかったはずである(たとえいかにそこから逸脱しようとも。逸脱は自由ではない)。私たちの言動が近代科学的コスモロジーによって無意識から規定されているのと同様に、当時の人々が同時代の神話的コスモロジーによって支配され、その支配自体が空気のように思いもよらなかったことを前提としなければ、文明の解釈ははなから方向を誤ってしまうであろう。前述の本書冒頭の宣言からすれば、そのように結論せざるを得ないはずである。確かに、異邦人が特記した日本人の心性に、前個的段階に特徴的な「心の垣根の低さ」があったと捉えるのは的確だと思われる。しかしその上でなお、日本人の心を満たし、わが先祖たちに自らの生を軽妙で肯定的なものと捉えさせたコスモロジーがあったことを前提としなければ、本書によって初めてその実態が明らかになった文明の本質を、惜しくも見誤ることになると思われてならない。

 なお、以上はあくまで本書のみに関しての批評であって、著者が以上のような課題をその後の仕事で究明しているとしても、その点は本稿ではフォローできていない。また繰り返しとなるが、これらのことがあっても本書の画期的業績の意義は揺るがないことを、ここに付言しておきたい。


物語としての歴史ということ

 ともあれ、本書は膨大な異邦人の文献をもとに周到に論じられており、それらの証言による限り、当時日本を訪れた異邦人の目に、徳川期の社会が近代西洋のそれと異なる性質を帯びた独自の文明と映ったことは確実だと言わなければならない。それは、これまで私たちが教え込まれてきた「いじけた江戸時代」観――ひいては日本観――とはまるで反対に、物質的充足とまごうかたなき幸福感に裏付けられ、自然環境と調和しつつ稠密な人口を維持し得た、持続可能で平和な文明であった。つまり、近現代日本がひたすら目指してきたものとは全く別種の、一つの高度な文明だったのである。
 繰り返しとなるが、本書によって私たち日本人が新たに認識すべきは、悲惨な戦争を経て今や没落と崩壊の淵に至っている現在の日本が、そうした幸福な実質を保持していた古き文明の抹殺の上に存在していることであり、近現代の驚異的な躍進を可能にした国富とは明らかに旧文明の遺産であったにもかかわらず、そのことが明治以後の「官軍教育」と敗戦後の「戦後教育」「進歩主義教育」により二重三重に隠蔽・歪曲されて、今日に至るまで忘れ去られてきたという事実である。すなわち、ルーツとの断絶という私たちの国民的なアイデンティティの病理の淵源が、ここに存在すると見える。
 古き日本の「墓碑銘」――それは明治初期に訪日した一外国人による、眼前で死にゆく文明を記録した自著に関する哀悼を込めた評であり、著者は冒頭において、往時の日本に尽きせぬ共感と理解を示した彼に敬意を捧げ、その言葉を引用している。同じように、私たちが見失っていたルーツに共感的理解でアプローチした本書の業績こそ、わが先祖たちへの最良の「墓碑銘」たるにふさわしい。しかしだからこそ、そこにとどめてはならないと思うのである。

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