これまで若干書いてきたとおり、このシリーズは当初は「特攻」を主題にした映画作品「俺は、君のためにこそ死にに行く」を発端に、その感想‐批評として更新していくことを予定して開始したものだった。
(思えば、この映画の題名こそが今後扱う「特攻」というテーマの核心にかかわる問題を図らずも表現していたように見える)
が、いろいろ調べていくうちに、この60年前の歴史上の事件は、そういうふうに「いい話だった」などと片付けて済ましてしまうことのできない、いまに生きている私たちにとって事実重大な意味を含んでいると、そう思われてならなくなってきたのであった。
端的にいえば、ここには私たち日本人の集団的アイデンティティの根本にわだかまっている心情的・論理的混乱が、今に至るまで凝縮されたままのかたちで保存されている。
そしてそのことは一般にまったく認識されていないように見える。
かくいう自分もこれまでその意味するところをほとんど認識してこなかったのだが。
しかし、一定の方向性と自覚を持った解釈の枠組みに沿って――たとえそれがいかに限りある視点であったとしても――その混乱に解決を与えるという取り組みが、現代の私たち日本人の意識にとってかなり緊急の課題なのではないかということが、ともかくおおざっぱではあるが見えてきたと感じる。
大風呂敷のようだが、すくなくともそういう取り組みが、第二の敗戦状態と(とりわけ内面的に)正確に表現されている今の時代にこそ、これまでになく必要とされていることだけは間違いないと思うのだ。
自覚として書いておくと、今後展開する「特攻」および戦争に関する議論は、今の一般に常識化している主流の歴史観からは、おそらく「右寄り」ないしはっきりと「右」と受け取られかねないものになるだろう。
日本人としてのアイデンティティ、日本国という社会集団にとっての求心力、より率直にいえば日本民族としての愛国心、さらに60余年前まで使われていた言葉でいうところの大和魂――それが私たち日本人にとって本質的に必要であるという前提それ自体を「右」というのなら、それはもう反論しても意味のないことであろう。
なぜなら、根深く信じられているそういう「議論の前提」、すなわちおおむね無自覚になっている信念体系とは、それを抱いている人にまさに迫真のリアリティをもつもの・真実として感じられ、多くの場合その無自覚ゆえに修正不能と化しているからだ。
議論の際に大切なのが、信念にもとづく解釈の枠組みをあたかも持っていないかのように振舞うことでないのは、たぶんいうまでもないだろう。
それはそもそも言葉で生きる人間の条件からして不可能なことだったはずである。
そうではなく、こうした議論に必要なのは、自分の抱いている信念に自覚的であること、さらに可能なら自己の枠組みを相対化し、よりよい現実認識へと柔軟に取り替えていくことだと思う。
その点は、そう語る自分自身がまず自覚せねばならないと考えている(それは難しい課題であり、むろん凡夫ゆえ限界はあるだろう)。
さて、私たちが一般に自らの国民性に関して深くいだいている信念、それは端的に言えば、
「私たちはまったくダメな国・日本の国民である。
私たちの国の歴史には、何一つ誇るべきものは存在しない」
ということになるだろう。
そう思うのだが、いかがだろうか。
もちろんそれは違うという方もおられるだろう。ぜひそうであることを願う。
しかし、それでは「これが私たちが自分の国を愛する根拠である」というその理由を、はたして今の私たちはどこまで確信を持って言えるだろうか。
すでにそれは確信以前に言葉にすること自体、きわめて難しいことになっているのではないだろうか。
事実なのか解釈なのかはともかくとして、これがまったくの自己非難‐自己卑下の論理であることだけは間違いない。
そんなふうに、「美しい国、日本」なる実質は、とっくの昔に私たちの心の中から消え去ってしまっている。
そんな自己卑下(と裏返しの傲慢)の深層の論理に無自覚なままなされる議論というのは、たぶんとても不毛でむなしいものになるに違いない。
現にそういう議論を、私たちは飽きるほど見てきたのではないだろうか。
そうして立ち止まって考えてみると、国民としてのセルフ・アイデンティティ、言い換えれば祖国愛・愛国心の必要性、それを問うことすらタブー視されるこの現状とは、そもそもいったい何なのだろう。
最初にそれが問われる必要があったのではないか、と思うのだ。
さきに述べておくと、「特攻」というテーマに関し私が目にした範囲での議論で、その前提にあると見える私たち現代日本人の自己卑下の論理自体の問題に言及したものには、いまだ出会うことができないでいる。
むろん狭い範囲での見聞にすぎず、そうでないほんとうに広く理性的で柔軟な議論があることを願うものである。
そのように、私たち日本人の国民的アイデンティティがいかに根深く混乱しているかは、そもそも国民としてのアイデンティティが必要なのか、さらにそれはいかなる意味で存在するのか、という議論の前提となるべき共通基盤それ自体が存在しないことに、はっきりとあらわれている。
そうしてなされる饒舌な無数の言葉の応酬の背後にあるのは、結局のところ先に見た自己卑下の論理から派生する、
「愛国的であるべきだ(根拠は薄弱だが)」対
「ナショナリズムはあってはならない(過去は汚点だけだから)」
といった二極の単純図式であると見える。
(もちろん、これは単純化した大枠の議論に過ぎないだろう。しかしそうすることで見えてくることがあると思うのだ。)
双方かなり粗雑で硬直した論理にはまり込んでいるのは間違いない。それがほとんど無自覚化し自動化した論理として、溢れかえる言葉の背後で働いていると見える、ということである。
そんなふうに私たちの多くは、いわば自己非難とその裏返しの傲慢の二極の間に宙吊りとなり、日本人として今後どのようにあるべきなのかという根本的な議論を、いまだ正当な形で着地させることができていない。おそらくそう断定して過言ではあるまい。
しかし、このままだと今後おそらく間違いなく持続不可能、そして没落、さらに道を誤れば文字通り亡国に至りかねない、わが国の現状と将来予測が、悲しむべきことに厳として存在するわけである。
そのように国民集団としての私たちの間から、アイデンティティ‐求心力‐愛国心がはっきりと失われてしまった今こそ、それが「私たちが健全に日本人であること」にとっていかに必要不可欠だったかが痛感されるのだ。そうではないだろうか?
さらに、そもそも何が私たちにとっての健全なアイデンティティであり、ナショナリズムであり、愛国心なのかという議論は、それ以前にその存在自体の必要性が合意として認知された上でしか成り立たないのは、論理としていうまでもないだろう。
だからこそ、国を愛した私たちの同胞の真剣な(と表現するほかにない)生き様・死に様を扱うここでの試みは、戦後教育で私たちが教えられてきた、ないし刷り込まれてきた「わが国・日本」に関する自己卑下の強固な「信念」に、真っ向からぶつかるものとするつもりである。
それを通じて、私たちが常に疑問を抱かざるをえなかった、日本人としてのアイデンティティの存在理由それ自体に、その正当性に、いくばくかでも到達することができることを願う。
またこのささやかな試みが成功するかどうかはさておき、私たちが日本人としての正当なアイデンティティを取り戻すという課題それ自体は、今後十分に達成可能なことだと信じる。
しかしその前に私たちは、自分の国を愛したいという自身の内に社会的人間として当然にある願望を率直に認めることがまず必要だ。そのことはさほどむずかしくはないだろうと推測される。
問題は何をどのように承認するかというその方向付けがいまだに示されていないことにある。
すくなくともほとんどの私たちは歴史教育の過程でそれを教わることはなかった。というより、正確にはそれをはっきりと否定するよう方向付けられてきた。
そこでこのたび仕切りなおしをして、私たちが自己の国民的アイデンティティに関してはまり込んできた、硬直化し教条化した非合理な信念体系を距離化・自覚化し、目標としてしっかり狙いを定め、論駁・突破するという作業を、改めてはじめてみたいと思う。
(いわば論理療法にいう、非合理的な感情的結果を生み出すビリーフの発見と、その徹底的論破という作業に似ている。歴史に対する精神分析的、ならぬ論理療法的アプローチは、おそらく心理療法それ自体と同じく有効なのではないかと推測する。)
そうして、私たち日本人の精神的履歴の深いところにわだかまる強烈なコンプレクスであるさきの戦争の記憶の、さらにその焦点である壮絶な「特攻」を、そういう文脈でとらえなおす試みは、そこで死んでいった幾多の若者たちが抱いた切実な願いに、少しでも近づくものになるだろう……そう思いたいのである。
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(思えば、この映画の題名こそが今後扱う「特攻」というテーマの核心にかかわる問題を図らずも表現していたように見える)
が、いろいろ調べていくうちに、この60年前の歴史上の事件は、そういうふうに「いい話だった」などと片付けて済ましてしまうことのできない、いまに生きている私たちにとって事実重大な意味を含んでいると、そう思われてならなくなってきたのであった。
端的にいえば、ここには私たち日本人の集団的アイデンティティの根本にわだかまっている心情的・論理的混乱が、今に至るまで凝縮されたままのかたちで保存されている。
そしてそのことは一般にまったく認識されていないように見える。
かくいう自分もこれまでその意味するところをほとんど認識してこなかったのだが。
しかし、一定の方向性と自覚を持った解釈の枠組みに沿って――たとえそれがいかに限りある視点であったとしても――その混乱に解決を与えるという取り組みが、現代の私たち日本人の意識にとってかなり緊急の課題なのではないかということが、ともかくおおざっぱではあるが見えてきたと感じる。
大風呂敷のようだが、すくなくともそういう取り組みが、第二の敗戦状態と(とりわけ内面的に)正確に表現されている今の時代にこそ、これまでになく必要とされていることだけは間違いないと思うのだ。
自覚として書いておくと、今後展開する「特攻」および戦争に関する議論は、今の一般に常識化している主流の歴史観からは、おそらく「右寄り」ないしはっきりと「右」と受け取られかねないものになるだろう。
日本人としてのアイデンティティ、日本国という社会集団にとっての求心力、より率直にいえば日本民族としての愛国心、さらに60余年前まで使われていた言葉でいうところの大和魂――それが私たち日本人にとって本質的に必要であるという前提それ自体を「右」というのなら、それはもう反論しても意味のないことであろう。
なぜなら、根深く信じられているそういう「議論の前提」、すなわちおおむね無自覚になっている信念体系とは、それを抱いている人にまさに迫真のリアリティをもつもの・真実として感じられ、多くの場合その無自覚ゆえに修正不能と化しているからだ。
議論の際に大切なのが、信念にもとづく解釈の枠組みをあたかも持っていないかのように振舞うことでないのは、たぶんいうまでもないだろう。
それはそもそも言葉で生きる人間の条件からして不可能なことだったはずである。
そうではなく、こうした議論に必要なのは、自分の抱いている信念に自覚的であること、さらに可能なら自己の枠組みを相対化し、よりよい現実認識へと柔軟に取り替えていくことだと思う。
その点は、そう語る自分自身がまず自覚せねばならないと考えている(それは難しい課題であり、むろん凡夫ゆえ限界はあるだろう)。
さて、私たちが一般に自らの国民性に関して深くいだいている信念、それは端的に言えば、
「私たちはまったくダメな国・日本の国民である。
私たちの国の歴史には、何一つ誇るべきものは存在しない」
ということになるだろう。
そう思うのだが、いかがだろうか。
もちろんそれは違うという方もおられるだろう。ぜひそうであることを願う。
しかし、それでは「これが私たちが自分の国を愛する根拠である」というその理由を、はたして今の私たちはどこまで確信を持って言えるだろうか。
すでにそれは確信以前に言葉にすること自体、きわめて難しいことになっているのではないだろうか。
事実なのか解釈なのかはともかくとして、これがまったくの自己非難‐自己卑下の論理であることだけは間違いない。
そんなふうに、「美しい国、日本」なる実質は、とっくの昔に私たちの心の中から消え去ってしまっている。
そんな自己卑下(と裏返しの傲慢)の深層の論理に無自覚なままなされる議論というのは、たぶんとても不毛でむなしいものになるに違いない。
現にそういう議論を、私たちは飽きるほど見てきたのではないだろうか。
そうして立ち止まって考えてみると、国民としてのセルフ・アイデンティティ、言い換えれば祖国愛・愛国心の必要性、それを問うことすらタブー視されるこの現状とは、そもそもいったい何なのだろう。
最初にそれが問われる必要があったのではないか、と思うのだ。
さきに述べておくと、「特攻」というテーマに関し私が目にした範囲での議論で、その前提にあると見える私たち現代日本人の自己卑下の論理自体の問題に言及したものには、いまだ出会うことができないでいる。
むろん狭い範囲での見聞にすぎず、そうでないほんとうに広く理性的で柔軟な議論があることを願うものである。
そのように、私たち日本人の国民的アイデンティティがいかに根深く混乱しているかは、そもそも国民としてのアイデンティティが必要なのか、さらにそれはいかなる意味で存在するのか、という議論の前提となるべき共通基盤それ自体が存在しないことに、はっきりとあらわれている。
そうしてなされる饒舌な無数の言葉の応酬の背後にあるのは、結局のところ先に見た自己卑下の論理から派生する、
「愛国的であるべきだ(根拠は薄弱だが)」対
「ナショナリズムはあってはならない(過去は汚点だけだから)」
といった二極の単純図式であると見える。
(もちろん、これは単純化した大枠の議論に過ぎないだろう。しかしそうすることで見えてくることがあると思うのだ。)
双方かなり粗雑で硬直した論理にはまり込んでいるのは間違いない。それがほとんど無自覚化し自動化した論理として、溢れかえる言葉の背後で働いていると見える、ということである。
そんなふうに私たちの多くは、いわば自己非難とその裏返しの傲慢の二極の間に宙吊りとなり、日本人として今後どのようにあるべきなのかという根本的な議論を、いまだ正当な形で着地させることができていない。おそらくそう断定して過言ではあるまい。
しかし、このままだと今後おそらく間違いなく持続不可能、そして没落、さらに道を誤れば文字通り亡国に至りかねない、わが国の現状と将来予測が、悲しむべきことに厳として存在するわけである。
そのように国民集団としての私たちの間から、アイデンティティ‐求心力‐愛国心がはっきりと失われてしまった今こそ、それが「私たちが健全に日本人であること」にとっていかに必要不可欠だったかが痛感されるのだ。そうではないだろうか?
さらに、そもそも何が私たちにとっての健全なアイデンティティであり、ナショナリズムであり、愛国心なのかという議論は、それ以前にその存在自体の必要性が合意として認知された上でしか成り立たないのは、論理としていうまでもないだろう。
だからこそ、国を愛した私たちの同胞の真剣な(と表現するほかにない)生き様・死に様を扱うここでの試みは、戦後教育で私たちが教えられてきた、ないし刷り込まれてきた「わが国・日本」に関する自己卑下の強固な「信念」に、真っ向からぶつかるものとするつもりである。
それを通じて、私たちが常に疑問を抱かざるをえなかった、日本人としてのアイデンティティの存在理由それ自体に、その正当性に、いくばくかでも到達することができることを願う。
またこのささやかな試みが成功するかどうかはさておき、私たちが日本人としての正当なアイデンティティを取り戻すという課題それ自体は、今後十分に達成可能なことだと信じる。
しかしその前に私たちは、自分の国を愛したいという自身の内に社会的人間として当然にある願望を率直に認めることがまず必要だ。そのことはさほどむずかしくはないだろうと推測される。
問題は何をどのように承認するかというその方向付けがいまだに示されていないことにある。
すくなくともほとんどの私たちは歴史教育の過程でそれを教わることはなかった。というより、正確にはそれをはっきりと否定するよう方向付けられてきた。
そこでこのたび仕切りなおしをして、私たちが自己の国民的アイデンティティに関してはまり込んできた、硬直化し教条化した非合理な信念体系を距離化・自覚化し、目標としてしっかり狙いを定め、論駁・突破するという作業を、改めてはじめてみたいと思う。
(いわば論理療法にいう、非合理的な感情的結果を生み出すビリーフの発見と、その徹底的論破という作業に似ている。歴史に対する精神分析的、ならぬ論理療法的アプローチは、おそらく心理療法それ自体と同じく有効なのではないかと推測する。)
そうして、私たち日本人の精神的履歴の深いところにわだかまる強烈なコンプレクスであるさきの戦争の記憶の、さらにその焦点である壮絶な「特攻」を、そういう文脈でとらえなおす試みは、そこで死んでいった幾多の若者たちが抱いた切実な願いに、少しでも近づくものになるだろう……そう思いたいのである。
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