ここのところ、ほとんどこだわりのように「特攻」というテーマで書いている。いや、まさにこだわりそのものなのだろう。
さきの戦争をどう評価するかについては左右に内外にさまざまな見方がありえ、そしてそれらすべてが大体において正しいというのが総体としての歴史なのではないか、とすら思える。
しかし当面ここではそれは問題ではない。
明らかにしたいのはなぜ若い彼らには「国のために死ぬ」ということができたのか(=なぜ私たちには絶対にできないのか)という一事に尽きる。
ところでこの件で「命中率」などということを書くと、日米双方の多大な生命の犠牲に対してなんと冷たく軽々しく不謹慎な、という反応が予想されるところだ。書いていて私自身そんな思いが湧いてくる。
そしてたしかに、平和主義とヒューマニズムが絶対的に尊いという現代の常識からすれば、話がある種危険な方向にいっているということになるだろう。
しかし、である。
特攻隊員はよくある映画のように「軍国主義者に自殺を強制された犠牲者」役を不幸にも割り振られ、無力に「悲劇的で美しい人間ドラマ」を演じていたのだろうか?
祖国を愛した多くの彼らは、後世からのそんな哀れみ・見下す視線を、果たして受け入れることができただろうか?
仮にそれら現行主流の見方がたしかに一面の真実を含んでいるとして、しかしそれらはあまりにも一面的である。
私たちに見えなくなっている、彼らが死んでも守りたかったのは果たしてなんだったのか。
彼らと同じルーツをもつはずの日本人として、そのことを明らかにしたかったのだ。
英霊か、さもなくば犠牲者か――固定観念となったその枠を超えない限り、特攻論は今後とも、「美談」と「愚行」の両極端がないまぜとなったまま語られ続けるだろう。
現に、最近のこの件に関するある種のブームのおいて語られているのは、要するにそういうことではないだろうか。
とくに現行主流の後者の見方は、じつは勝者・米軍の占領政策で強制され、戦後教育でずっとあてがわれて刷り込まれてきて、いつの間にか私たち日本人のものになってきた可能性が高いのものだ。
そうして結局、特攻論は私たちにとっていつまでも「遠い時代の理解不能なお話」でしかありえない。
そうではなく、彼らが間違いなく何かのために命をなげうって「戦った」のだという、当たり前だったはずのその事実を認識することがまず大切だと思う。
たとえ戦後民主主義の平和の時代(それも怪しくなってきたが)に生きる私たちには強い違和感を持って感じられるとしても、そしてだからこそ、である。
遺された彼らの言葉を虚心に受け止めるなら、それは家族のため、仲間や恋人のため、郷土のため、そして何よりそれらすべてを包括した国とその未来のためであったとしかいいようがない。
たとえばさきに見た映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の「君」とは、当時の彼らにとって国の統合を象徴・体現した天皇のことを抜きにしては考えられなかったはずだ。
それ以外の読み方は、どれほどもっともらしくとも結局曲解でしかないと思われる。
とまれ、個々の事例がどうあれ、総体としての特攻論に関しては犠牲者‐犬死論は成り立たない。
何より、それが戦われたのは、いわば精神的に骨抜きにされ牙を抜かれてしまった戦後の私たちの、そんな「読み込み」が成立しえない地点だからである。
そういうわけで、さきに掲げた原氏の紹介になる端的な資料は、このことについてある意味決定的なことを語っていると思われたのである。
しかし、紹介者・原氏が解説しているように「航空特攻成果は、日本が予想した以上の絶大な効果を発揮した事実が判明した」(「航空特攻――その成果の真相」『「特攻」極限の戦いのすべて』イカロス出版より)とは、安易にはいえないのであった。
さきの戦争をどう評価するかについては左右に内外にさまざまな見方がありえ、そしてそれらすべてが大体において正しいというのが総体としての歴史なのではないか、とすら思える。
しかし当面ここではそれは問題ではない。
明らかにしたいのはなぜ若い彼らには「国のために死ぬ」ということができたのか(=なぜ私たちには絶対にできないのか)という一事に尽きる。
ところでこの件で「命中率」などということを書くと、日米双方の多大な生命の犠牲に対してなんと冷たく軽々しく不謹慎な、という反応が予想されるところだ。書いていて私自身そんな思いが湧いてくる。
そしてたしかに、平和主義とヒューマニズムが絶対的に尊いという現代の常識からすれば、話がある種危険な方向にいっているということになるだろう。
しかし、である。
特攻隊員はよくある映画のように「軍国主義者に自殺を強制された犠牲者」役を不幸にも割り振られ、無力に「悲劇的で美しい人間ドラマ」を演じていたのだろうか?
祖国を愛した多くの彼らは、後世からのそんな哀れみ・見下す視線を、果たして受け入れることができただろうか?
仮にそれら現行主流の見方がたしかに一面の真実を含んでいるとして、しかしそれらはあまりにも一面的である。
私たちに見えなくなっている、彼らが死んでも守りたかったのは果たしてなんだったのか。
彼らと同じルーツをもつはずの日本人として、そのことを明らかにしたかったのだ。
英霊か、さもなくば犠牲者か――固定観念となったその枠を超えない限り、特攻論は今後とも、「美談」と「愚行」の両極端がないまぜとなったまま語られ続けるだろう。
現に、最近のこの件に関するある種のブームのおいて語られているのは、要するにそういうことではないだろうか。
とくに現行主流の後者の見方は、じつは勝者・米軍の占領政策で強制され、戦後教育でずっとあてがわれて刷り込まれてきて、いつの間にか私たち日本人のものになってきた可能性が高いのものだ。
そうして結局、特攻論は私たちにとっていつまでも「遠い時代の理解不能なお話」でしかありえない。
そうではなく、彼らが間違いなく何かのために命をなげうって「戦った」のだという、当たり前だったはずのその事実を認識することがまず大切だと思う。
たとえ戦後民主主義の平和の時代(それも怪しくなってきたが)に生きる私たちには強い違和感を持って感じられるとしても、そしてだからこそ、である。
遺された彼らの言葉を虚心に受け止めるなら、それは家族のため、仲間や恋人のため、郷土のため、そして何よりそれらすべてを包括した国とその未来のためであったとしかいいようがない。
たとえばさきに見た映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の「君」とは、当時の彼らにとって国の統合を象徴・体現した天皇のことを抜きにしては考えられなかったはずだ。
それ以外の読み方は、どれほどもっともらしくとも結局曲解でしかないと思われる。
とまれ、個々の事例がどうあれ、総体としての特攻論に関しては犠牲者‐犬死論は成り立たない。
何より、それが戦われたのは、いわば精神的に骨抜きにされ牙を抜かれてしまった戦後の私たちの、そんな「読み込み」が成立しえない地点だからである。
そういうわけで、さきに掲げた原氏の紹介になる端的な資料は、このことについてある意味決定的なことを語っていると思われたのである。
しかし、紹介者・原氏が解説しているように「航空特攻成果は、日本が予想した以上の絶大な効果を発揮した事実が判明した」(「航空特攻――その成果の真相」『「特攻」極限の戦いのすべて』イカロス出版より)とは、安易にはいえないのであった。
ごく一部の方々が、自爆テロと体当たり攻撃(特攻)をイコールと考えているようです。
私としては、明らかに異なると考えております。
イスラム教徒としては、根深い因縁があったとしても民間人(同じイスラム教徒までも)を巻き込む自爆テロは、外道そのものと感じます。
8月24日放映の「私は貝になりたい」については、
営業所で語りあいましょう。f(^_^)ぽりぽり
お世話になっております。コメントどうもありがとうございました。ブログをはじめた趣旨を逸脱し、まさにこだわって書いておりますが、とりあえず結論はまでは早めにたどり着きたいと思います。たしかに彼ら若者の姿は美しく見えます。一方彼らが命をかけた当時の帝国日本がどうだったか…先日のお話を肝に銘じておきたいと思います。
>元・つけ屋S様
どうもこんにちは。コメントいつもありがとうございます。
たしかに見てみると、とくに米国の報道に、自爆テロを「カミカゼ」と表現するような論調が出てくるようです。それをありがたがる日本人も多いことでしょう。ここら辺にも「歴史認識」のねじれを感じます。
自爆テロと特攻との区別は外面的にはおそらく明白だと思います。
前者の非正規の私兵的武装集団が一般市民を巻き添えにした政治的混乱を狙っているのに対し、後者は宣戦布告をした相手国の軍事組織に対し正規軍の作戦(どれほど突拍子もなく見えようとも)として実行されたもので、国際法とかはよくわからないのですが、一般常識からしても明白に異なることはいえそうです。
ただ実行した彼らの内面というのは…少なくともそれを可能にした心理構造は同じものなのではないかという気がします。