またまた言い訳から始まりますが…
さきの「特攻論」については、現在のところほかに書くべきことがあるし、材料不足かつ書き手の気合いがまだまだ、ということでしばらく自重しようと思うのですが、そしたらとたんに書くモチベーションが…というと聞こえがいいようですが、ようするにやる気がなくなってしまいました。
そのうち時間を見て再開したいなと思います。
ともかくあの「特攻」ということについて、現在の私たちの視点に無反省なままの読み込みをしながら、感情的‐自己批判的な思考回路にはまり込んだ両極端な議論をどこまでも続けるといったことを、ここでいったん止める必要があるのではないでしょうか。
でないと、結局このことは私たちにとっていつまでも「感動的でかっこいいけど理解不能・意味不明で、結局は犬死」というような不毛な捉え方のまま、ということになってしまうのではないかと思われます。
目下私たちが日本人であることのアイデンティティを見失いつつあるのは明らかですが、そのように歴史的な過去への理解の基盤がほとんど喪失した現在こそまさに、さまざまな感情が入り乱れたまま語られ、日本人の歴史的なコンプレックスの一つの核心となっているあの「特攻」ということを、いったん距離を置いて相対的に考えてみることに意味があるのではないかと思うのです。
なぜ若者たちはあの時代、家族のため、全体のため、国のために死ぬことができたのか?
なぜ現在の私たちにはそんなことは思いもよらないということになっているのか?
そのためには、それが当時ののっぴきならない危機的な時代状況という条件のなかで行われた、事実上残された最後の選択肢としての戦い方であったこと、さらにそれが私たち現代の日本人からするとほとんど「異文化」に等しい情況の中で行われたものだったということを、しっかり踏まえておくことが必要なのではないかと思います。
あの時代がいまの私たちにとってほとんど異文化に等しいものだったということに関し、ポイントは、歴史的に日本人とは、いわば徹底的な「つながりの自己」であったということにあると思われます。
それは関係性に重きを置き、常に全体の関係の中で自分を位置づけるという精神性のあり方です。説明が大まかですが、なんとなくイメージできるでしょうか?
人間やその集団が自己のアイデンティティを確立するにあたって、おおまかに二つの方向性というか極があるのは明らかだと見えます。
ひとつは個人としての主体性・独自性を強調していくあり方で、「まず自分ないし自分たちがある、その自分が生きて関係をつくる」と感じるような感覚です。
ようするに欧米流の近代的な個人主義といわれるものを考えれば分かりやすいと思います。
いっぽうもう一つの極として、つながり・関係性を重視していくあり方、つまり「まず全体の関係性があって、その中に自分が生かされている」と感じるような基本感覚があると思います。
想像がつくと思いますが、ようするに日本人は典型的にそのようなタイプであったということが言いたいわけです。
しかし重要なのは、いずれも人とその集団がアイデンティティを形成するための二つのタイプの行き方であり、そして考えてみると当たり前のようですが、健全な心のかたち・アイデンティティを形作るためには、「私は私」という主体性も「みんなあっての私」という共同性も、どちらも不可欠なのは明らかです。
その統合こそが、私たち人間の個人史的・歴史的な課題といえるかもしれません。
そしてここでの課題についていえば、あらゆる集団的なアイデンティティのあり方、ここでいう「民族性」とは、きわめて大まかに言って、主体性―共同性というその二つの極の間のグラデーションのどこかに位置づけられるのではないかと思います。
いわゆる「西洋」にたいする「東洋」の違いということでとらえられているのも、単純化して言えばそういうことなのではないでしょうか。
そして「東洋」のさらに「東アジア」のさらに「極東」に位置する我が国が、歴史的・文化的に、そのうちの共同性のほうの極にかなり徹底した精神性を形成してきたことは、そう考えてみるとごく自然なことのような気がします。
考えてみれば、歴史的に「倭」「日出処」「日本」といい、さらにあの時代には「大東亜」の「一等国」「大日本」であるとされてきたように、それら自分たちを指す言葉自体が、時代を通じ「他者」を強く意識したものであったことは、このことを象徴していると思います。
日本人がとりもなおさず共同性を重視する「つながりの自己」であったこと、それは戦前に西欧流の個人主義に対する、日本独自の国民性の精華、国体の本義、大和魂などといわれ重んじられたことの、その核心・本質だっだと思われます。
そのことは後年、集団主義・家族主義という日本の奇跡的な経済成長を支えた原動力とみなされ、いわゆる進歩的な立場からは主体性が欠如のあらわれと非難され、戦後民主主義からは全体主義的であると忌避されてきた、要するに表現次第の、(この言葉を誤解を恐れず使うならば)私たち日本民族の精神性の根幹にかかわる特性であったと見えます。
そしてこの特性こそが、日本において歴史的に、個人から家族、上下の社会集団からさらに国家にいたるまでの行動や意思決定を、深いところで規定していたのではないかと見えるのですが、いかがでしょうか。
それは単に個々人の頭の表面での思考様式、などというレベルのものではなく、広く集団的に、深く無意識的に、私たち日本人の心のかたち・国のかたちを形作っていたものだと思われるのです。
さらに言えば、私たち現代の日本人もまた、「意味もクソもない」式のニヒリズム、「国も家族もカンケーない」といったバラバラ個人主義、「世の中モノとカネだけがすべて」といったような物質主義に深く侵されながら、もっと深いところではやはりいまだ「つながりの自己」なのではないでしょうか。
それは常に他人を意識し自分を抑えるように条件づけられている多くの私たちにとって、自分の行動を省みるならば、ほとんど説明を要しないのではないかと思います。
仮に私たちがこれを失うとすれば、そこには何が残るのでしょうか?
日本人が心底「つながりの自己」であることには、東アジア文化圏のなかで強くその影響を受けてきたこと、日本人が古来稲作農業を共同体で行なってきたということ、さらに島国にあっておおむね単一の言語をもった一つの民族・国家を形成してきたということ、人間関係の位相がつねに前提となる敬語体系の日本語を用いてきたこと、等々がよくいわれますし、もちろんそれらは正しい見方だと思います。
しかしそれらには何か肝心のことが抜けていると見えるのです。
そのことをいつかぜひ書いてみたいと思います。
そして重要なのは、「特攻」という戦いがまさに象徴したあの戦争とは、前近代の日本人が、強要された「開国」によって西欧流の個人主義や近代化という課題に直面しはじめてから、わずか80年しかたっていなかったということではないでしょうか。
江戸時代といういわば一つの成熟し完結した独自の文明のなかで平和と安定を享受してきた、そんな徹底した「つながりの自己」だった日本人は、おそらく庶民レベルはその精神性そのもので、さらに指導者層においても根源的な行動原理はほとんどそのままで、80年後の戦争に突入していったのではないかと思われます。
いうまでもなく、欧米人に対し私たち日本人が深く植え込まれた劣等感は強烈なものがあると思います。
いわば近代日本はそれをバネに、共同性‐つながりの精神性をその行動原理として、欧米列強に伍すべく挑戦していったといっていいと思われますが、一方欧米各国は近代始まって以来500年間にわたる植民地獲得競争の、戦争に次ぐ戦争の歴史の果てに、徹底した自己意識と合理性を磨いてきていました。
あの戦争が外面的には近代的な科学技術に基づく物量の戦いであったこと、結局その力の差が勝敗を分けたのはきわめて明らかですが、その背後に、そのようなほとんど両極端といっていいほどの精神性の相克があったと見ることは十分できると思います。
日本人があの時代において過度に「精神」を強調してきたことは、いまでは合理性の欠如の最たるもの・精神主義にすぎないものとしてもっぱら非難‐嘲笑の対象となっており、それはそれでもっともな批判だとは思います。
しかし当時の人々がその言葉に抱いた意味はもっと真剣・深刻だったのではないでしょうか。
「特攻」という任務を若者たちが引き受け、それを徹底的といっていいほどに遂行したことは、たぶんその延長にあったのではないかと思われます。
ここであらためて強調したいのは、たとえ命令・強制によるものであったとしても、それを命令として引き受け遂行することができるかどうかは、こと「十死零生」のこの任務に関しては別問題だということです。
言うのをはばかることですが、しかしあえて言うと、たとえば自殺による死を選ぶことは、特攻の任務を遂行するのに比べればきわめて容易なはずです。
よもやこのテーマで紹介することになろうとは思いませんでしたが、その「きわめて容易である」ということについては、たとえば鶴見済著『完全自殺マニュアル』を(批判的に)参照されるとよいでしょう。
(またそれが悲しいまでに恥ずかしい本であることを暴いたつもりの、ここでの過去記事をご覧いただければ幸いです。)
さらに戦後のヒューマンな方々が戦争に関してよくいう「死ぬくらいなら逃げればいい」という、たぶんあの時代にあってはきわめて無責任・非現実的きわまるものだったはずの指摘も、「死んで敵艦に体当たりする」などという恐るべき任務を前にすれば、じつははるかに容易で現実的であったかもしれません。
しかし彼らの多くはそうせずに命令を引き受け出撃していった。遺された手記を一読してすぐに感得できるように、それは彼らがとりもなおさず心底伝統的な日本人であり「つながりの自己」であったからではないか、そう思われます。
さきの「特攻論」については、現在のところほかに書くべきことがあるし、材料不足かつ書き手の気合いがまだまだ、ということでしばらく自重しようと思うのですが、そしたらとたんに書くモチベーションが…というと聞こえがいいようですが、ようするにやる気がなくなってしまいました。
そのうち時間を見て再開したいなと思います。
ともかくあの「特攻」ということについて、現在の私たちの視点に無反省なままの読み込みをしながら、感情的‐自己批判的な思考回路にはまり込んだ両極端な議論をどこまでも続けるといったことを、ここでいったん止める必要があるのではないでしょうか。
でないと、結局このことは私たちにとっていつまでも「感動的でかっこいいけど理解不能・意味不明で、結局は犬死」というような不毛な捉え方のまま、ということになってしまうのではないかと思われます。
目下私たちが日本人であることのアイデンティティを見失いつつあるのは明らかですが、そのように歴史的な過去への理解の基盤がほとんど喪失した現在こそまさに、さまざまな感情が入り乱れたまま語られ、日本人の歴史的なコンプレックスの一つの核心となっているあの「特攻」ということを、いったん距離を置いて相対的に考えてみることに意味があるのではないかと思うのです。
なぜ若者たちはあの時代、家族のため、全体のため、国のために死ぬことができたのか?
なぜ現在の私たちにはそんなことは思いもよらないということになっているのか?
そのためには、それが当時ののっぴきならない危機的な時代状況という条件のなかで行われた、事実上残された最後の選択肢としての戦い方であったこと、さらにそれが私たち現代の日本人からするとほとんど「異文化」に等しい情況の中で行われたものだったということを、しっかり踏まえておくことが必要なのではないかと思います。
あの時代がいまの私たちにとってほとんど異文化に等しいものだったということに関し、ポイントは、歴史的に日本人とは、いわば徹底的な「つながりの自己」であったということにあると思われます。
それは関係性に重きを置き、常に全体の関係の中で自分を位置づけるという精神性のあり方です。説明が大まかですが、なんとなくイメージできるでしょうか?
人間やその集団が自己のアイデンティティを確立するにあたって、おおまかに二つの方向性というか極があるのは明らかだと見えます。
ひとつは個人としての主体性・独自性を強調していくあり方で、「まず自分ないし自分たちがある、その自分が生きて関係をつくる」と感じるような感覚です。
ようするに欧米流の近代的な個人主義といわれるものを考えれば分かりやすいと思います。
いっぽうもう一つの極として、つながり・関係性を重視していくあり方、つまり「まず全体の関係性があって、その中に自分が生かされている」と感じるような基本感覚があると思います。
想像がつくと思いますが、ようするに日本人は典型的にそのようなタイプであったということが言いたいわけです。
しかし重要なのは、いずれも人とその集団がアイデンティティを形成するための二つのタイプの行き方であり、そして考えてみると当たり前のようですが、健全な心のかたち・アイデンティティを形作るためには、「私は私」という主体性も「みんなあっての私」という共同性も、どちらも不可欠なのは明らかです。
その統合こそが、私たち人間の個人史的・歴史的な課題といえるかもしれません。
そしてここでの課題についていえば、あらゆる集団的なアイデンティティのあり方、ここでいう「民族性」とは、きわめて大まかに言って、主体性―共同性というその二つの極の間のグラデーションのどこかに位置づけられるのではないかと思います。
いわゆる「西洋」にたいする「東洋」の違いということでとらえられているのも、単純化して言えばそういうことなのではないでしょうか。
そして「東洋」のさらに「東アジア」のさらに「極東」に位置する我が国が、歴史的・文化的に、そのうちの共同性のほうの極にかなり徹底した精神性を形成してきたことは、そう考えてみるとごく自然なことのような気がします。
考えてみれば、歴史的に「倭」「日出処」「日本」といい、さらにあの時代には「大東亜」の「一等国」「大日本」であるとされてきたように、それら自分たちを指す言葉自体が、時代を通じ「他者」を強く意識したものであったことは、このことを象徴していると思います。
日本人がとりもなおさず共同性を重視する「つながりの自己」であったこと、それは戦前に西欧流の個人主義に対する、日本独自の国民性の精華、国体の本義、大和魂などといわれ重んじられたことの、その核心・本質だっだと思われます。
そのことは後年、集団主義・家族主義という日本の奇跡的な経済成長を支えた原動力とみなされ、いわゆる進歩的な立場からは主体性が欠如のあらわれと非難され、戦後民主主義からは全体主義的であると忌避されてきた、要するに表現次第の、(この言葉を誤解を恐れず使うならば)私たち日本民族の精神性の根幹にかかわる特性であったと見えます。
そしてこの特性こそが、日本において歴史的に、個人から家族、上下の社会集団からさらに国家にいたるまでの行動や意思決定を、深いところで規定していたのではないかと見えるのですが、いかがでしょうか。
それは単に個々人の頭の表面での思考様式、などというレベルのものではなく、広く集団的に、深く無意識的に、私たち日本人の心のかたち・国のかたちを形作っていたものだと思われるのです。
さらに言えば、私たち現代の日本人もまた、「意味もクソもない」式のニヒリズム、「国も家族もカンケーない」といったバラバラ個人主義、「世の中モノとカネだけがすべて」といったような物質主義に深く侵されながら、もっと深いところではやはりいまだ「つながりの自己」なのではないでしょうか。
それは常に他人を意識し自分を抑えるように条件づけられている多くの私たちにとって、自分の行動を省みるならば、ほとんど説明を要しないのではないかと思います。
仮に私たちがこれを失うとすれば、そこには何が残るのでしょうか?
日本人が心底「つながりの自己」であることには、東アジア文化圏のなかで強くその影響を受けてきたこと、日本人が古来稲作農業を共同体で行なってきたということ、さらに島国にあっておおむね単一の言語をもった一つの民族・国家を形成してきたということ、人間関係の位相がつねに前提となる敬語体系の日本語を用いてきたこと、等々がよくいわれますし、もちろんそれらは正しい見方だと思います。
しかしそれらには何か肝心のことが抜けていると見えるのです。
そのことをいつかぜひ書いてみたいと思います。
そして重要なのは、「特攻」という戦いがまさに象徴したあの戦争とは、前近代の日本人が、強要された「開国」によって西欧流の個人主義や近代化という課題に直面しはじめてから、わずか80年しかたっていなかったということではないでしょうか。
江戸時代といういわば一つの成熟し完結した独自の文明のなかで平和と安定を享受してきた、そんな徹底した「つながりの自己」だった日本人は、おそらく庶民レベルはその精神性そのもので、さらに指導者層においても根源的な行動原理はほとんどそのままで、80年後の戦争に突入していったのではないかと思われます。
いうまでもなく、欧米人に対し私たち日本人が深く植え込まれた劣等感は強烈なものがあると思います。
いわば近代日本はそれをバネに、共同性‐つながりの精神性をその行動原理として、欧米列強に伍すべく挑戦していったといっていいと思われますが、一方欧米各国は近代始まって以来500年間にわたる植民地獲得競争の、戦争に次ぐ戦争の歴史の果てに、徹底した自己意識と合理性を磨いてきていました。
あの戦争が外面的には近代的な科学技術に基づく物量の戦いであったこと、結局その力の差が勝敗を分けたのはきわめて明らかですが、その背後に、そのようなほとんど両極端といっていいほどの精神性の相克があったと見ることは十分できると思います。
日本人があの時代において過度に「精神」を強調してきたことは、いまでは合理性の欠如の最たるもの・精神主義にすぎないものとしてもっぱら非難‐嘲笑の対象となっており、それはそれでもっともな批判だとは思います。
しかし当時の人々がその言葉に抱いた意味はもっと真剣・深刻だったのではないでしょうか。
「特攻」という任務を若者たちが引き受け、それを徹底的といっていいほどに遂行したことは、たぶんその延長にあったのではないかと思われます。
ここであらためて強調したいのは、たとえ命令・強制によるものであったとしても、それを命令として引き受け遂行することができるかどうかは、こと「十死零生」のこの任務に関しては別問題だということです。
言うのをはばかることですが、しかしあえて言うと、たとえば自殺による死を選ぶことは、特攻の任務を遂行するのに比べればきわめて容易なはずです。
よもやこのテーマで紹介することになろうとは思いませんでしたが、その「きわめて容易である」ということについては、たとえば鶴見済著『完全自殺マニュアル』を(批判的に)参照されるとよいでしょう。
(またそれが悲しいまでに恥ずかしい本であることを暴いたつもりの、ここでの過去記事をご覧いただければ幸いです。)
さらに戦後のヒューマンな方々が戦争に関してよくいう「死ぬくらいなら逃げればいい」という、たぶんあの時代にあってはきわめて無責任・非現実的きわまるものだったはずの指摘も、「死んで敵艦に体当たりする」などという恐るべき任務を前にすれば、じつははるかに容易で現実的であったかもしれません。
しかし彼らの多くはそうせずに命令を引き受け出撃していった。遺された手記を一読してすぐに感得できるように、それは彼らがとりもなおさず心底伝統的な日本人であり「つながりの自己」であったからではないか、そう思われます。
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