前回はずいぶん大仰なことを書き、言葉が滑ってしまっているような印象となっている感じがします。
若干気はずかしいところです。
つづめていえば、どの国もそうであるように、私たち日本人にとっても、国家レベルでのアイデンティティを求める心情があることは、集団を形成する人間の本質的な欲求として正当であり、そして、それは内面的な機能として、集団の健全さを保障する帰属意識‐求心力として現実に力をもつ、ということがいいたかったわけです。
そのことはおそらく国際比較の観点から論証することも可能だと思います。
それはまさに「愛国心」に他なりません。
表現する言葉はいろいろあるでしょうが、その意味するところは結局同じことになるでしょう。
それにアレルギー反応を感じるのだとすれば、問題は「愛国心」という言葉にまつわる私たち現代日本人の側の、特有の意味づけの歪みにあるのだと思います。
そして私たちが自分たちの過去にアレルギー反応を起こし、そのことによって国全体という枠組みでのヴィジョンを失っている今こそ、何らかの形でそれを再発見し回復することが必要であると思われるわけですが、何より私たち特有のそういう「自己像の病理」には、さきの戦争での無惨な敗北と、続く勝者・米軍の長期占領という事実が決定的にかかわっていると見えます。
そこで、あの時代の危機的状況と戦争遂行にかかわる論理的矛盾、さらに私たちが歴史的に培ってきた長短併せ持つ精神性、それらが凝縮した形で現れたあの「特攻」という歴史的事件をテーマにとって着目し、私たちはそこから何を取り出すことができるかという作業を行ないたい、と考えたわけです。
ここでそれがどこまで可能なのかはさておき、それ自体は私たち日本人にとってきわめて意義のあるかたちで成就することができる課題だと見込んでいます。
明らかに日本人自らの根深い心情的‐論理的な混乱の上に読み取られ語られてきたと見える、これまでの「特攻論」について、ここで一度、あたかも千年の昔の事件であるかのような歴史的視点をもって相対化し、私たち自身の混乱の整理という目的に沿った枠組みのなかで解釈しなおすことで、改めて現代におけるその意義を受け取る、という全体像を構想しています。
さて、冒頭に書いたように言葉が滑ってしまったのは、一応このような目的のために、「特攻」に関する現在の議論の水準を知るべく買って読んだ、保阪正康著『「特攻」と日本人』(講談社現代新書)の、いわばおかげであると言いたいところです。
ようするに「これは違う」ということです。
いったい、これを何と評してよいものか。
一言でいうと、著者自身おそらく無自覚な、おおいがたい論理的な混乱が目に付いて仕方がないという印象を受けました。
まさに、これまで繰り返しなされてきた「特攻論」のひとつの典型を見る思いがします。
それは著者自身が克服すべきものとしているはずなのですが…
つまり、率直にいってこの著者・保阪氏が展開しているきわめて内向きの議論は、まさしく現行主流の「歴史認識」、すなわち自己卑下‐自己非難の閉鎖回路の論理という枠から、一歩も出ないものです。
それは見事なまでに典型的だといっていいと思われます。
もちろん、さきの戦争の無惨な全体像、戦争指導者たちの資質や非合理性の指摘、そして個々の事実認識のほとんどは、多分きわめて正当と思われるものです。
そのような反省がなければ、新しく構築すべき「特攻論」もまた、これまでどおり日本人自身にしか共感できない物語の再生産に過ぎなくなってしまうでしょう。
つまり問題意識の大枠はひじょうにまっとうなものであることは間違いありません。その点はあらためて学ばせていただきました。
が、その正当な問題意識にもかかわらず、それにもとづいて新たに構築すべきだとしている主題の「特攻論」に関し、著者の論点にほとんど新しいところはないといって過言ではないのではないでしょうか。
その枠組みに沿った著者の「読み取り」の姿勢はある種きわめて恣意的で、かつそのように論ずる自身の立場への省察がまったく見られず、「そう語っている自分は絶対に正しい」式の、さきの戦争に関する議論の両陣営に見られる硬直した論理構造に、この人もまた引き続き陥っていることは明らかであると見えます。
これまで知らなかった方ですが、著者紹介を見る限り、昭和史に関する多くの著作を書いているジャーナリストらしく、著名な賞なども受けているようです。
そして大手出版社から新書として出ているところを見ると、いちおうこれがこの議論に関する現行主流の「進歩派‐良識派」の水準ということになるのでしょう。
……しかし、本当に?
皮肉ではなく、眩暈のようなカルチャー・ショックを感じてしまうのでした。
以下、このことをもう少し書いてみたいと思います。
若干気はずかしいところです。
つづめていえば、どの国もそうであるように、私たち日本人にとっても、国家レベルでのアイデンティティを求める心情があることは、集団を形成する人間の本質的な欲求として正当であり、そして、それは内面的な機能として、集団の健全さを保障する帰属意識‐求心力として現実に力をもつ、ということがいいたかったわけです。
そのことはおそらく国際比較の観点から論証することも可能だと思います。
それはまさに「愛国心」に他なりません。
表現する言葉はいろいろあるでしょうが、その意味するところは結局同じことになるでしょう。
それにアレルギー反応を感じるのだとすれば、問題は「愛国心」という言葉にまつわる私たち現代日本人の側の、特有の意味づけの歪みにあるのだと思います。
そして私たちが自分たちの過去にアレルギー反応を起こし、そのことによって国全体という枠組みでのヴィジョンを失っている今こそ、何らかの形でそれを再発見し回復することが必要であると思われるわけですが、何より私たち特有のそういう「自己像の病理」には、さきの戦争での無惨な敗北と、続く勝者・米軍の長期占領という事実が決定的にかかわっていると見えます。
そこで、あの時代の危機的状況と戦争遂行にかかわる論理的矛盾、さらに私たちが歴史的に培ってきた長短併せ持つ精神性、それらが凝縮した形で現れたあの「特攻」という歴史的事件をテーマにとって着目し、私たちはそこから何を取り出すことができるかという作業を行ないたい、と考えたわけです。
ここでそれがどこまで可能なのかはさておき、それ自体は私たち日本人にとってきわめて意義のあるかたちで成就することができる課題だと見込んでいます。
明らかに日本人自らの根深い心情的‐論理的な混乱の上に読み取られ語られてきたと見える、これまでの「特攻論」について、ここで一度、あたかも千年の昔の事件であるかのような歴史的視点をもって相対化し、私たち自身の混乱の整理という目的に沿った枠組みのなかで解釈しなおすことで、改めて現代におけるその意義を受け取る、という全体像を構想しています。
さて、冒頭に書いたように言葉が滑ってしまったのは、一応このような目的のために、「特攻」に関する現在の議論の水準を知るべく買って読んだ、保阪正康著『「特攻」と日本人』(講談社現代新書)の、いわばおかげであると言いたいところです。
ようするに「これは違う」ということです。
いったい、これを何と評してよいものか。
一言でいうと、著者自身おそらく無自覚な、おおいがたい論理的な混乱が目に付いて仕方がないという印象を受けました。
まさに、これまで繰り返しなされてきた「特攻論」のひとつの典型を見る思いがします。
それは著者自身が克服すべきものとしているはずなのですが…
つまり、率直にいってこの著者・保阪氏が展開しているきわめて内向きの議論は、まさしく現行主流の「歴史認識」、すなわち自己卑下‐自己非難の閉鎖回路の論理という枠から、一歩も出ないものです。
それは見事なまでに典型的だといっていいと思われます。
もちろん、さきの戦争の無惨な全体像、戦争指導者たちの資質や非合理性の指摘、そして個々の事実認識のほとんどは、多分きわめて正当と思われるものです。
そのような反省がなければ、新しく構築すべき「特攻論」もまた、これまでどおり日本人自身にしか共感できない物語の再生産に過ぎなくなってしまうでしょう。
つまり問題意識の大枠はひじょうにまっとうなものであることは間違いありません。その点はあらためて学ばせていただきました。
が、その正当な問題意識にもかかわらず、それにもとづいて新たに構築すべきだとしている主題の「特攻論」に関し、著者の論点にほとんど新しいところはないといって過言ではないのではないでしょうか。
その枠組みに沿った著者の「読み取り」の姿勢はある種きわめて恣意的で、かつそのように論ずる自身の立場への省察がまったく見られず、「そう語っている自分は絶対に正しい」式の、さきの戦争に関する議論の両陣営に見られる硬直した論理構造に、この人もまた引き続き陥っていることは明らかであると見えます。
これまで知らなかった方ですが、著者紹介を見る限り、昭和史に関する多くの著作を書いているジャーナリストらしく、著名な賞なども受けているようです。
そして大手出版社から新書として出ているところを見ると、いちおうこれがこの議論に関する現行主流の「進歩派‐良識派」の水準ということになるのでしょう。
……しかし、本当に?
皮肉ではなく、眩暈のようなカルチャー・ショックを感じてしまうのでした。
以下、このことをもう少し書いてみたいと思います。
昨今、読書に割く時間もない忙しい日々でした。
近頃では、2輪車通勤の為に雨天は電車、バスを利用して通勤しております。
それ故に、電車内では読書に励んでおります。
光人社NF文庫
このシリーズを好んで読んでおります。実際に従軍された方々の実話等で編集されており、読み応えのある内容かと思います。
15年程前から、ブックオフで100~350円程度で購入して、読み終えましたら10~50円程度で買い取って貰っております。
今回、保阪正康氏について調べて見ますと・・・
『陸軍良識派の研究―見落とされた昭和人物伝』(光人社NF文庫)-2005
(・_・) へぇ~
次回、ブックオフへ行ったならば探して見ますか。
文庫本サイズは携帯に便利ですが、文字が小さいので1年前からは、老眼鏡のお世話になっております。
トホホ・・・荷物が一つ増えたf(^_^)
楽しみにしてるんで更新頑張って下さいね!
僕のブログではターバン野口の折り方を紹介しています。
暇があったら是非どうぞ。
http://panicblog.blog109.fc2.com/?eid=3605
しかし暑いですね。しかもわれらのいる臨海部はあのとおりアスファルトばかりの上、大工場に囲まれてますから、輪をかけてきついような。
お忙しいとのこと、おつかれさまです!二輪の通勤には何かと支障の多い時期ですね。
さて、アドバイスありがとうございます。
どのような本を読んでおられるでしょうか。
実は共時性といいますか、ちょうど私も先日その光人社のシリーズのいくつかを衝動買いしてしまいました。
これまでマニア的にふつーに「航空ファン」とか「世界の艦船」とか「戦車マガジン」とかは読んでいたのですが、なぜかこのシリーズは読んできませんでした。
おそらく戦争体験者が多く書いているこのシリーズの「濃さ」に引いちゃっていたのだと思います。もろに当事者の視点ですから。
その一冊、これからの「特攻」テーマのために買った『彗星特攻隊―ある予科練艦爆操縦員の手記』(増戸興助)、当時の搭乗員の思いと生活を知るいい本のようで、しっかり読もうと思います。
というのは、この理由は後付けではあるのですが、本文に書いた保阪氏の著書で、これが特攻隊員の実相だと紹介されている当事者の記録というのが、占領期に編纂された偏向した文献(それは著者自身が指摘しているはずなのですが)から採られているもので、加えてそのすべてが学徒兵の当時の超エリートに限定されていることが鼻についてしょうがなかったからです。
私が知りたいのはそういう特殊例ではなく、大方がどのような空気であったか、ということです。
(しかしそれら超エリートの秘めた「自由主義者」たちもまた、同時に熱烈な愛国者であったことが、原著を当たるとすぐ読み取れます。不思議なことに特攻隊員の手記の「行間・紙背を読め」と同書でいっている保阪氏は、そもそも手記に書いてある文字が読めていないのでは、と思われてなりません。揶揄ではなく。)
この著者の方は、二度特攻出撃をして生還された方で、ちょっと見た限り搭乗員の生活というのは非常に厳しいものがあるようです。とくに、海軍の特攻は多く志願によるものだった、といわれますが、これを読む限り現場の実態は命令ずくでとてもそうではなかったようです。著者は淡々と書いていますが、それを受ける時の気持ちというのは、ちょっと想像しかねるものがあります。
それに較べたら今の職場って超楽勝・・
あ、保阪氏についてはちょっと批判に過ぎてしまいまいしたが、『陸軍良識派の研究』よければ貸してください!